熊本市 子ども部屋
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くまもと市の歴史(れきし)


 熊本(くまもと)は、昔(むかし)から「火の国(ひのくに)」と呼(よ)ばれてきました。大化の改新(たいかのかいしん)のあと、奈良時代(ならじだい)に入(はい)って、肥後国(ひごのくに)(=熊本県(くまもとけん))の役所(やくしょ)である国府(こくふ)が、今の熊本市(くまもとし)中央区(ちゅうおうく)国府(こくぶ)におかれました。

 室町時代(むろまちじだい)になると、出田秀信(いでたひでのぶ)が今(いま)のNHK熊本放送局(くまもとほうそうきょく)がある場所(ばしょ)に千葉城(ちばじょう)を築(きず)き、そのあと、鹿子木親員(かなこぎちかかず)が、今(いま)の第一高校(だいいちこうこう)がある一帯(いったい)に城(しろ)を築(きず)いて隈本城(くまもとじょう)としました。

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)が全国(ぜんこく)を治(おさ)めるようになると、肥後(ひご)をふたつにわけ、加藤清正(かとうきよまさ)と小西行長(こにしゆきなが)のふたりが領主(りょうしゅ)となりました。徳川(とくがわ)の時代(じだい)になると、加藤清正(かとうきよまさ)が肥後54万石(ひごごじゅうよんまんごく)(=熊本県全体(くまもとけんぜんたい))の領主(りょうしゅ)となりました。清正(きよまさ)は、慶長(けいちょう)12年(1607年)に茶臼山(ちゃうすやま)に城(しろ)を完成(かんせい)させ、城(しろ)の名前(なまえ)を隈本城(くまもとじょう)から熊本城(くまもとじょう)に改(あらた)めました。こののち細川忠利(ほそかわただとし)が肥後(ひご)の領主(りょうしゅ)となり、以後(いご)、細川家(ほそかわけ)が明治(めいじ)2年(1869年)までのおよそ200年のあいだ、肥後国(ひごのくに)を治(おさ)めることになりました。

 明治(めいじ)10年(1877年)の西南戦争(せいなんせんそう)で、市街地(しがいち)のほとんどが戦火(せんか)に遭(あ)いましたが、その後(ご)復興(ふっこう)し、明治(めいじ)22年(1889年)に熊本市(くまもとし)が誕生(たんじょう)しました。

 大正(たいしょう)から昭和(しょうわ)にかけて、熊本市(くまもとし)は九州(きゅうしゅう)における政治(せいじ)・経済(けいざい)・教育(きょういく)の中心地(ちゅうしんち)として発展(はってん)を続(つづ)けました。しかし、昭和(しょうわ)20年(1945年)には太平洋戦争(たいへいようせんそう)の大空襲(だいくうしゅう)により、昭和(しょうわ)28年(1953年)には白川大水害(しらかわだいすいがい)により市街地(しがいち)は壊滅的(かいめつてき)な被害(ひがい)を受(う)けました。

 その後、市民(しみん)の努力(どりょく)によって復興(ふっこう)した熊本市(くまもとし)は、市域(しいき)の拡大(かくだい)や近代的都市(きんだいてきとし)としての発展(はってん)を続(つづ)け、平成(へいせい)3年2月に飽託郡四町(ほうたくぐんよんちょう)と合併(がっぺい)し、およそ63万人(まんにん)が住(す)むまちとなりました。平成(へいせい)8年4月には中核市(ちゅうかくし)という、地域(ちいき)の中心(ちゅうしん)となる都市(とし)に指定(してい)されました。

 平成(へいせい)19年には熊本(くまもとじょう)城が築城(ちくじょう)400年を迎え、平成(へいせい)23年春(はる)には九州新幹線(きゅうしゅうしんかんせん)が全線開通(ぜんせんかいつう)しました。また、平成(へいせい)20年に富合町(とみあいまち)、平成(へいせい)22年に城南町(じょうなんまち)、植木町(うえきまち)と合併(がっぺい)し、人口(じんこう)はおよそ73万人(まんにん)となりました。そして平成(へいせい)24年4月、熊本市(くまもとし)は政令指定都市(せいれいしていとし)に移行(いこう)し、5つの区(く)がつくられました。



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