熊本市 子ども部屋
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かみしばいの絵

横手の五郎(ごろう)は
牛ば担(かつ)いで

 昔、横手ン五郎(ごろう)という大変(たいへん)な力持ちがおり、1度に15人の人間を抱(かか)え上げていたといいます。ある日のこと、清正公(きよまさこう)の行列が、道をふさいだ牛のため立ち往生(たちおうじょう)しているところへ五郎が通りがかり、ひょいと牛を担(かつ)ぎ上げて行列を通してやりました。

 熊本城(くまもとじょう)を築(きず)いている最中(さいちゅう)の清正公は、五郎の怪力(かいりき)を見込(みこ)んで石垣(いしがき)を築(きず)かせたり、井戸堀(いどほり)の仕事を任(まか)せました。ところが、五郎が天草の戦(いくさ)で敗(やぶ)れた木山弾正(きやまだんじょう)の子だということが分かり、「こりゃいかん、あだ討(う)ちされるかもしれん。それにあの力持ちだと、いつかお城(しろ)を乗っ取られるかもしれん」と思い、家来と相談の末(すえ)、五郎を殺(ころ)してしまおうと考えました。

 五郎がいつものように井戸の底(そこ)で仕事をしていると、突然(とつぜん)上から大きな石が投げ込(なげこ)まれました。生き埋(いきう)めにしようと考えたのでしょうが、何しろあの力持ちですから落ちてくる石を両手で受け止めては上に投げ返しました。

 そのうち五郎はみんなが自分を殺(ころ)すために石を投げ込(なげこ)んでいるのが分かり、覚悟(かくご)を決めて大声で上に向かい「わしを殺(ころ)すなら大きか石じゃダメだ、砂利(じゃり)ば投げ込(なげこ)め」と叫(さけ)んだそうです。それで五郎はとうとう生き埋めになってしまいました。

 昔はお城(しろ)を造(つく)る時、お城が栄(さか)えるようにと人柱をたてたといいますので、五郎もこの人柱にされたのではないかという言い伝(いいつた)えもあります。

いまでは・・・・

 日本三名城(にほん3めいじょう)の1つに数えられる熊本城(くまもとじょう)は、加藤清正(かとうきよまさ)により慶長(けいちょう)6年(1601)から7年の歳月(さいげつ)をかけて造(つく)られた豪壮堅固(ごうそうけんご)な城(しろ)です。
 天然(てんねん)の地形を利用(りよう)して水濠(みずごう)をめぐらした周囲(しゅうい)5.3キロにも及(およ)ぶ複雑(ふくざつ)な構造(こうぞう)の城(しろ)構(かま)えは、西南戦争(せいなんせんそう)のおりにも落城(らくじょう)することなく、その守りの堅(かた)さを証明(しょうめい)しました。
 なかでも、美しい反りを見せる石垣(いしがき)は武者返(むしゃがえ)しと呼(よ)ばれ、容易(ようい)に登ることのできない見事な造(つく)りで知られています。
 昭和35年に再建(さいけん)された高さ46メートルの天守閣(てんしゅかく)からの眺(なが)めは最高(さいこう)です。また平成元年(へいせいがんねん)には、国の重要文化財宇土櫓(じゅうようぶんかざいうとやぐら)の修復(しゅうふく)と数奇屋(すきや)丸2階御広間(ごひろま)が復元(ふくげん)され一般公開(いっぱんこうかい)されています。
熊本市
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