〈1〉漱石とくまもと
夏目漱石が熊本で過ごしたことは皆さんよくご存知のことと思います。
明治29年(1896)29歳のとき松山からやってきました。当時の第五高等学校(今の熊本大学)で英語を教え、33歳のときロンドン留学のため
熊本を後にしました。実は漱石が熊本に来て来年(2016)がちょうど120年にあたります。
また来年は亡くなって100年、そして次の年は生誕から150年になります。この記念の年にぜひ熊本の漱石を盛り上げていこうと、県や市あるいは関係グループなどが100人委員会を発足させて準備に取り掛かっています。
そこでこれを機会に「熊本の漱石」を24回にわたって紹介していきます。
さて第五高等学校(五高)では「災害は忘れた頃にやってくる」との名言で知られる寺田寅彦が生徒として学んでおり、漱石と出会い、生涯の師として仰ぐことになります。漱石は生涯で作った俳句2600余りのうち1000句近くを熊本で作っています。漱石は江津湖にたびたび訪れており、修学旅行では天草や島原へ出かけました。
ところで熊本での4年3か月の間に漱石は6回引っ越しをしました。1軒目は光琳寺町でいまの銀座通りを下通りから西へ少しはいったところです。もちろん当時銀座通りはありません。漱石はここで東京からやってきた中根鏡子と結婚式を挙げました。
「すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺」という句があります。2軒目は合羽町(今の坪井町)そして3軒目は大江村(白川小の東側)で、この家は現在水前寺公園近くに移築保存されています。
漱石はここから小天温泉に出かけ、このときのことは作品「草枕」に反映されています。4軒目は明午橋際の井川渕町ですが今はありません。
第5旧居は内坪井町に当時のまま残っており毎日観光客が訪れ、漱石が触れたであろう柱や硝子戸に身を寄せその昔に思いを馳せています。ここでは長女筆子が生まれ(漱石32歳)庭には産湯に使ったといわれる井戸がそのままあります。「安々と海鼠の如き子を生めり」は有名です。
藤崎宮の参道から北へ入ったところに6番目の家があります。漱石はここからロンドンに向けて出発します。
この家は今は個人の所有になっていますが、記念の年をきっかけに文化遺産として保存できないものか検討されています。
旧居のほかにも漱石にはいろいろエピソードがあります。熊本での漱石についてお話ししてまいりましょう。
(くまもと漱石倶楽部 和田 正隆)
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