〈7〉漱石の略式結婚
明治29年(1896)6月8日、池田停車場(現上熊本駅)に中根鏡子とその父、重一が降り立ちました。東京から年老いたお手伝いさんを1人連れての嫁入りです。
駅のプラットホームには、宿屋の研屋からの迎えしか見えず、漱石の姿は改札口にも見えません。どうしたことかと辺りを見回すと、新聞を片手にフロックコート(注1)の正装で悠然と待合室から出てきたのが漱石でした。
鏡子は『漱石の思い出』(角川文庫)に、結婚式を挙げたのは10日だったと回想しています。しかし、「中根去る八日着昨九日結婚略式執行致候」と述べた正岡子規宛ての手紙をはじめとして、ほかに2通、6月10日付の手紙で漱石は友人に結婚の報告をしています。『漱石の思い出』が出版されたのは、昭和4年、漱石の13回忌を終えた後のことですから、やはり漱石が書いた当時の手紙を重視すべきでしょう。「衣更へて京より嫁を貰ひけり」という俳句を子規に送っています。新生活への弾むような気持ちが感じられる句です。
その結婚式について、鏡子は「裏長屋式(注2)の珍な結婚」と呼んでいます。漱石は冬物のフロックコート、鏡子は東京から持参した夏の振り袖、父の重一は普段の背広姿。仲人やお酌などすべてをこなしたのが東京から連れてきた年老いたお手伝いさんでした。漱石が雇っていた婆やと車夫とが、台所で働いたりお客になったりしました。謡一つもなく、式は終わってしまいました。まさに「略式」の結婚式でした。仕出し屋に支払ったのは、総額7円50銭。これが漱石の結婚式費用でした。
三三九度(注3)をするとき、三つ組みの盃がひとつ欠けていたことを、のちに鏡子が語るのを聞いた漱石は「けしからん話だと思ってきいていたら、俺たちのことか。道理で喧嘩ばかりして、とかく夫婦仲が円満に行かないわけがわかった」(『漱石の思い出』)と、面白がったそうです。
東京の生活とは打って変わった、田舎の生活にとまどった鏡子でしたが、何よりも困ったのは朝早く起きられないことでした。お手伝いさんを東京に帰してからは、漱石に朝ご飯も食べさせず学校に出すこともたびたびでした。無理をして起きると1日中ぼんやりとして、失敗ばかりする鏡子に漱石は「おまえはオタンチンノパレオラガス(注4)だよ」とからかいます。
新婚早々「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえになんかかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」と漱石は宣告しました。しかし、鏡子は、大変短気で「家庭の暴君」であった自分の父と比較して「夏目はゆったりしていて、すべてのことについて公平だし」「なるほど先生などというものは修養のできたものだ」(『漱石の思い出』)と思ったそうです。漱石満29歳、鏡子19歳の新婚生活の始まりでした。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
注1) 男子の昼間の礼服。上着はダブルで膝丈まである。
注2) 裏通りに建っている粗末な長屋のようにみすぼらしいこと。
注3) 結婚式のときに新郎新婦が杯をやりとりする儀式。
注4) 嘲りの俗語「おたんちん」を東ローマ帝国最後の皇帝の名に掛けた洒落。
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フロックコート姿の漱石 ※「漱石写真帖」より |