〈11〉五高教師としての漱石
漱石は、明治29年(1896)4月から第五高等学校の英語講師(7月には教授に昇格)として教壇に立ちます。尋常中学校は、4月入学の3月卒業ですが、五高は9月入学、7月卒業でしたから、漱石は3学期からの着任ということになります。赴任早々1週間に24時間の授業を受け持つことになりますが、松山時代と大きく異なるのは、授業だけでなく校務※もあるということです。漱石は、東京でも教師として過ごしますが、いずれも講師で、いわゆる校務はないので、熊本時代は、漱石の教員生活の中でも特別な期間だったと言えます。
愛媛県尋常中学校を退職するきっかけになったのは、生徒たちによる校長排斥運動と言われています。漱石は松山を去る理由を「生徒諸子(生徒の皆さん)の勉学の態度が真摯ならざる(まじめでない)」ためであると述べ、生徒たちへの別れの挨拶としたと言われます(景浦稚桃編述『松山に於ける子規と漱石』)。
しかし、漱石を慕い、その後を追って五高に入学した松山出身の生徒たちもいました。漱石は、松山では、英文を訳すだけでなく文法を始めとして、単語の語源まで説明するなど、1時間に数行しか進まないような丁寧な授業をしていました。しかし、五高ではものすごいスピードで読み進めていくので、松山から来た生徒たちがもう少し解釈をしてほしいと頼みました。ところが漱石は、ここは中学ではない、とどんどん読み進めていったそうです。
五高時代の教え子でのちに五高の国語の先生になった八浪則吉もまた、当時の漱石の授業について、丁寧な教え方ではなかったと述べていますが、初めて最後まで教科書を読み終えたことで非常な満足を得たと、回想しています。
ここには、漱石の独自の教育論があったようです。ある程度まで英語を勉強したら辞書を引かずにむちゃくちゃに多読せよというのです。もちろん授業では予習をすることが前提ですが、細かなことにこだわらず、少し分からないところは飛ばして読んでいっても、たくさん読書するうちに分かるようになるというのです。
予習をしていかない生徒にとっては、漱石は時に皮肉を浴びせる恐い先生でしたが、まじめでさえあれば、どんなにつまらない質問をしようとも、誠意を持って接してくれる親しみのある先生だったそうです(湯浅廉孫「乞食の詩が縁」)。
明治29年9月には、文科2年、3年の生徒の願いに応じて授業の始まる前、朝7時から8時まで課外授業を行うようになります。この五高で漱石に英語を習い、生涯漱石を先生として慕った学生の1人に、有名な物理学者になった寺田寅彦がいます。彼は、漱石の死後、五高時代のこの課外授業を思い出して次のような歌を作りました。
春寒き 午前七時の 課外講義 オセロを読みしその頃の君
寅彦は漱石が「いつ迄も名もない唯の学校の先生であつてくれた方がよかつた」(夏目漱石先生の追憶)とも述べています。
※校務 ……… 教職員が行うべき学校の仕事。漱石は赴任早々大学予科第一部文科2年級監督主任になっている。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
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当時の第五高等学校本館 「漱石写真帖」より | 39歳の寺田寅彦 高知県立文学館提供 |