〈18〉筆子誕生
明治31(1898)年秋、鏡子は再び妊娠してひどいつわりに悩まされました。『漱石の思い出』によるとそれは9月から始まって11月まで続き、ひどいときには食べ物はおろか、水さえ咽を通らないほどでした。漱石が、その頃詠んだ有名な俳句が次の句です。
病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋
漱石は、衰弱した鏡子を看病しました。ある時には、お手伝いさんだけに任せるのは不安だというので学校を1日欠勤したこともありました。11月を過ぎると鏡子の状態も落ち着きました。それで明治32(1899)年の元日には、お屠蘇で新年を祝うと、同僚の奥太一郎と一緒に耶馬渓に出かけました。この旅の最後では峠で馬に蹴られて雪の中に転ぶというできごともありました。「峠を下るとき馬に蹴られて雪の中に倒れければ」という前書きの付いた句があります。
漸くに又起きあがる吹雪かな
宇佐八幡宮から羅漢寺、耶馬渓、日田をめぐる1週間のほどの旅でしたが、山中で吹雪に遭い、かなり難儀した旅のようです。
待望の赤ちゃんが生まれたのは5月31日のことです。漱石は子どもの誕生を次のように詠んでいます。
安々と海鼠の如き子を生めり
鏡子が悪筆だったため、子どもは字が上手になるようにと「筆」(通称筆子)と名付けられました。ところが、鏡子以上の悪筆で、のちのち筆子にこんな名前をつけるからだ、と恨まれたとか。
漱石は筆子を大変にかわいがり、よくあやしたり抱いたりしました。当時、お手伝いはテルという気立てのいい人でしたが、色が黒く、漱石は「色の黒いのが移ると困る」と言ってテルに筆子を抱かせないようにしました。ところが、鏡子が出かけると、筆子が泣き出し、漱石がいくらあやしても泣き止まないので、とうとうテルを呼んで世話を頼まざるを得ません。テルは「いくら顔が黒くても、私でなけりゃどうにもならんじゃありませんか」と大いばりで抱き上げると、すぐに泣き止んだそうです。これには漱石もだまって引き下がるほかありませんでした。
書生として漱石の家に世話になっていた行徳二郎は、筆子を乳母車に乗せ、内坪井の家で飼っていた大きな犬の綱を引いて、毎日のように近所の藤崎八旛宮に散歩に出かけていたそうです。
漱石は、よく筆子を膝の上に乗せて、つくづく顔を見ながら「もう十七年たつと、これが十八になって、俺が五十になるんだ」と言っていました。鏡子は「偶然の一致とは言え、ほんとうに筆子が十八の時五十で亡くなりました。そんなことを考えるとちょっと妙な気がいたします」(『漱石の思い出』)と、述べています。
熊本を離れるとき、鏡子が筆子を抱いて写った写真があります。漱石は留学先のロンドンで、その写真を送るように鏡子に頼んでいます(明34・1・22付鏡子宛書簡)。写真が届くとすぐにストーブの上に飾り、下宿先の奥さんが「大変可愛らしい御嬢さんと奥さん」(明34・5・8付鏡子宛書簡)だと、褒められたことを報告しています。やさしい父としてのエピソードです。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
|
筆子と鏡子(熊本市立図書館蔵) |