〈20〉 北千反畑の家・留学命令
明治31(1898)年12月の狩野亨吉の一高赴任、明治32(1899)年9月の山川信次郎の一高転出によって、漱石の身辺は次第に淋しくなっていきます。
山川は明治30(1897)年4月、漱石の招きで五高に赴任し、小天旅行や阿蘇登山に一緒に出かけた人です。明治32年には東京に帰ることを希望するようになり、漱石が一高校長となった狩野に交渉して、一高転任を実現させました。狩野に山川の移転を依頼する手紙を書きながら「他人が移転すると自分も移つて見たき様な心持が一寸起り申候」(明32・6・20付)と書き添えているのもこの頃です。これは、漱石が熊本に腰を落ち着ける決意をしてから久々に見せた弱音でした。
一方、五高の俳句結社であった紫溟吟社は市中の池松迂港が加わり、次第に活動が広まっていきます。迂港の尽力によって明治32年12月27日には「九州日日新聞」に初めて「紫溟吟社」の俳句が掲載されます。やがて「漱石選」の俳句も新聞紙上を賑わせるようになります。漱石は東京の高浜虚子にも新派俳句の振興のために協力を頼んでいます。新聞紙上には東京の俳人たちの句も掲載されるようになります。
明治33(1900)年4月、漱石は北千反畑町78番地(現熊本市中央区北千反畑3-16)に引っ越します。熊本での最後の住居です。家主の磯谷家に伝わる話では、漱石が五高への通勤の途中、2階建ての借家が建つのを見ていて、2階を書斎にしたいと言って、完成するとすぐに借りに来たのだそうです。「菜の花の隣りもありて竹の垣」という句が詠まれた家です。
書生をしていた行徳二郎は、筆子を乳母車に乗せ、飼っていた大きな犬を連れて、すぐ近くの藤崎八旛宮によく散歩に出かけたそうです(夏目鏡子『漱石の思い出』)。
4月13日には漱石に全面的な信頼を寄せた中川校長が第二高等学校の校長として転出し、桜井房記が校長となりました。そして、漱石は教頭心得に任じられました。5月12日には、文部省から英語研究のため、2年間の英国留学を命じられ、にわかに漱石の身辺は慌ただしくなってきました。五高に籍を置いたまま、第五高等学校教授として留学することになったのです。
漱石は、鏡子と筆子、また生まれてくる2人目の子どもを鏡子の実家に託すことにして、熊本の家を引き上げることにしました。折から、熊本は豪雨のため各地で増水しました。なんとか鉄道が通った7月15日、漱石たちは上熊本駅から東京に向けて出発しました(許斐彗二「漱石が熊本を去った日」)。その直後から、再び降り続いた雨で白川に架かっていた橋はすべて流失してしまうのですが、まさに間一髪の脱出でした。漱石が熊本に降り立ってからすでに4年3か月の月日が経っていました。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
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熊本を去る前の漱石 | 北千反畑の漱石の家(漱石写真帖より) |