〈2〉漱石の生い立ち
夏目漱石は、本名金之助。慶応3年(1867)1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(現東京都新宿区喜久井町)に夏目小兵衛直克・千枝の五男として生まれました。千枝は後妻で先妻に2人の娘がおり、漱石は五男三女(ただし、四男、三女は幼い時に死去)の末っ子でした。
生まれたのが庚申※1の日にあたり、この日は大泥棒石川五右衛門が生まれた日といわれ、うまくいけば大変な出世をするが、へたをすると大泥棒になるという言い習わしがありました。名前に「金」偏の字を付けると、それが避けられると言い伝えられていたため、「金之助」と名づけられたそうです。
生まれてまもなく里子(他人に預けて育ててもらうこと)に出され、やがて実家に戻ると今度は、子どものいなかった塩原昌之助・やす夫妻の養子となります。その時期については諸説ありますが、明治2年(1869)初めまでには塩原家に入籍しています。養父母は幼い金之助を甘やかし、わがまま放題に育てました。しかし、明治8年養父母の離婚に伴い、翌年の初めまでには塩原姓のまま夏目家に引き取られます。漱石は、年老いた実の父母を祖父母と思って暮らしていましたが、あるときそれが本当の父母であることを知ります。
漱石は、父直克には終生愛情を持てなかったようですが、母千枝に対しては敬愛の気持ちを抱き、「硝子戸の中」という作品の中で「一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心」と、懐かしみました。その母は、明治14年漱石が14歳の時、亡くなります。漱石は、長男大助には可愛がられたようですが、やはり家族愛には恵まれなかった人だと言えるでしょう。
塩原姓だった漱石が、夏目に復籍するのは、明治21年のことです。20年3月、6月と夏目家の長男、二男が相次いで結核で亡くなったためです。それまで漱石に冷淡だった父直克は、三男直矩を跡継ぎにすることに不安を覚え、漱石を復籍させるため、20年夏から冬にかけて塩原昌之助と交渉を始めました。しかし、昌之助はなかなか承諾せず、交渉は難航しました。
明治21年1月28日漱石は夏目家に復籍します。養父昌之助に「養育料」として240円支払うことになり、即金で170円、残り70円は毎月3円ずつ支払い、23年3月に完済しました。当時の物価では白米も年ごとに変動しているため、1円が現在のいくらに当たるかは難しい問題です。諸説あって1万円~2万円と幅がありますが、おおよその金額は想像できるでしょう。親たちの思惑によって夏目から塩原へ、そして再び夏目へ戻ったことが、漱石の人格形成に大きく関わったのは間違いありません。
漱石は後に自分自身を振り返って、「遊んで居るのを豪いことの如く思って怠けて居た」(談話「落第」)と言っていますが、そのような漱石が大変身を遂げた出来事があります。それは次回に。
※1 干支のひとつ。十干と十二支を組合わせて年や日時を表した。丙午はよく知られている。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
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「漱石写真帖」より |