〈4〉漱石松山へ
明治28年(1895)4月、漱石は愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)の英語教師として赴任しました。帝国大学の先輩である菅虎雄の紹介でした。菅は漱石より3歳年上でしたが、漱石が生涯心を許した友人の1人です。
外国人教師カメロン・ジョンソンの後任として、優秀な日本人教師を探していた愛媛県参事官であった浅田知定が、同郷(久留米)の菅に人選を依頼したのでした。月給は校長より20円高い80円でしたが、これは特別待遇というわけではありません。当時、教頭の横地石太郎も80円で、同じ帝国大学卒業でした。給料は学歴によって決められていたのです。
生徒は、外国人教師と同じような発音をする漱石に驚きました。新任の先生を冷やかそうと下宿に押しかけた生徒たちは、1時間もしないうちに漱石の学識の深さにすっかり感心して、おとなしく帰って行ったそうです。教師をあだ名で呼ぶなど、生意気ざかりの生徒たちでしたが、漱石の丁寧でわかりやすい授業に敬服してしまいました。
8月には新聞記者として日清戦争に従軍し、結核を悪化させた正岡子規が、療養のため故郷の松山に帰省し、漱石の下宿に転がり込みます。子規は近代俳句の基礎を築いた人です。漱石と同い年で、東京大学予備門時代の明治22年頃から親しくつきあうようになりました。その交友は深く、子規が亡くなる明治35年まで多くの書簡※が取り交わされました。子規は明治25年帝国大学を中退して日本新聞社に入社。新聞「日本」紙上で「俳句革新運動」を展開していました。
漱石は、下宿の1階を子規に使わせ、漱石自身は2階を使いました。連日のように開催される句会に次第に引き込まれ、熱心に俳句を作るようになります。子規の滞在は52日間に及びました。10月19日子規は松山を離れます。子規の帰京後は、作った俳句を送り、添削を求めました。その句稿は『漱石全集』に収録されていますが、翌年3月まで572句を送っています。
しかし、漱石は松山での生活に次第に不満を抱くようになります。11月6日には正岡子規に宛てて「貴君の生れ故郷ながら余り人気(その地方一帯の人々が持つ気風)のよき処では御座なく候」と述べ「愛媛県には愛想が尽き」、すぐにでもほかの就職口があれば移りたいと書き送っています。熊本の第五高等学校に赴任していた菅にもさかんに不満を訴え始めたのです。10月、生徒の校長排斥ストライキによって校長が辞任しますが、こうした生徒の行動に不快感を抱いたためとも言われています。
※手紙、書状
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
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◎大学時代の正岡子規 ◎松山で漱石が住んでいた下宿 愚陀仏庵(ぐだぶつあん) ※「漱石写真帖」より |