〈5〉漱石の婚約
明治29年(1896)4月8日、熊本の第五高等学校から漱石に出向命令の電報が届きます。
前年8月から五髙にドイツ語・論理学の教授として赴任していた菅虎雄の紹介によるものでした。漱石の五髙赴任の話がいつ持ち上がったかはわかりません。しかし、愛媛県尋常中学校で、漱石の後任がすぐには決まらなかったところを見ると、急な話だったと思われます。3月30日愛媛県尋常中学校第4回卒業式で漱石の転任が発表されました。
この五髙赴任にあたって漱石は、婚約中の中根鏡子(戸籍名はキヨ、鏡子は通称)の父、重一に「知らない遠い土地にくるのが、気が進まないようだったら、やむをえないから破談にしてくれないか」(夏目鏡子『漱石の思い出』)と手紙を送りました。
漱石は、前年12月28日上京し、貴族院書記官長をしていた中根重一の長女鏡子と見合いをしていました。鏡子の祖父の知人が、漱石の兄と同僚だったところから話が持ち上がりました。鏡子は明治10年(1877)生まれで、ちょうど18歳。話はとんとん拍子に進み、写真を取り交わしました。
鏡子は、漱石の見合い写真を見て「上品でゆったりしていて、いかにもおだやかなしっかりした顔立ちで」「ことのほか好もしく思われた」(『漱石の思い出』)と述べています。漱石もまた、写真を見て気に入ったらしく、12月18日付正岡子規宛書簡で「当人に逢た上で若し別人なら破談する迄」と書いています。当時写真の修正はしばしば行われていました。漱石の見合い写真では、漱石が劣等感を抱いていた痘瘡の痕(あばた)は、見事に消されていたのです。
見合いは中根一家が住んでいた虎ノ門の官舎で行われました。兄に鏡子の印象を聞かれた漱石は「歯並びが悪いのに、それを隠そうともせず平気でいるところが大変気に入った」と答えたそうです。
新年会に呼ばれた漱石は、中根家の人々と歌留多や福引きに興じました。歌留多取りがとても下手で、みんなから喜ばれました。酒飲みでもなく、不器用な漱石に、鏡子の父は大変満足し、「将来必ずえらくなるといってたいへん嘱望しておりました」(『漱石の思い出』)。こうして漱石と中根鏡子の婚約は成立しました。いずれ東京で職を見つけて結婚を、というのが中根家の希望でした。ところがさらに遠くの熊本への赴任が決まったのです。
漱石は破談も仕方がないと考えました。しかし、重一は一生熊本で暮らすわけでもあるまいからと、鏡子を熊本に嫁がせることに決めたのでした。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
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鏡子のお見合い写真 | 漱石のお見合い写真 ※「漱石写真帖」より |