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〈17〉内坪井の家・紫溟吟社

最終更新日:2023年4月1日
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内坪井旧居

〈17〉内坪井の家・紫溟吟社

 明治31(1898)年7月下旬、教頭の狩野亨吉は、漱石のために内坪井町78番地(現熊本市中央区内坪井町4-22)の家を明け渡します。現在「夏目漱石内坪井旧居」として保存されているのが、この家です。大正4(1915)年、洋間が増築され、その際、玄関など手が入れられましたが、漱石が住んでいた当時のまま残されています。


 鏡子は「熊本にいた間、私どもが住んだ家の中でいちばんいい家」(『漱石の思い出』)だったと述べています。敷地が5、6百坪※1もあり、庭が相当広かったそうです。別棟にはかなり広い物置もありました。家賃は10円でした。


 赤点を取った同級生のために点数を上げてもらおうと、井川淵の家に初めて漱石を訪ねて俳句に魅せられた寺田寅彦(寅日子)は、夏休みが明けると、内坪井の家にやってきました。初めて作った俳句を見てもらうためでした。漱石は寅彦の作った俳句を添削したり、漱石自身の句稿と一緒に子規に送ったりしました。


 寅彦は「立田山麓の自分の下宿からは随分遠かつたのを、丸で恋人にでも会ひに行くやうな心持」(「夏目漱石先生の追憶」)で、週に2、3度、内坪井の家に通いました。あるとき、漱石の家に書生においてもらえないかと、相談したことがあったそうです。そのとき、裏の物置なら空いているから来てみろ、といわれて案内されたのが別棟の物置でした。その時は、畳もなく、ほこりだらけだったのですっかりしょげて退散したのでした。


 すでに五高の学生たちの間では、漱石が俳人であることが知られていました。寅彦の他にも厨川肇(千江)、蒲生栄(紫川)が俳句の指導を受けに来ていました。


 明治31年10月2日、千江は寅日子、紫川、平川草江、石川芝峰ら11人に声を掛け、漱石の家で運座※2を開きました。五高の校友会雑誌である『龍南会雑誌』第69号(明31・12)には漱石にお願いして俳句の会を起こし、月に1回運座を開くので、参加希望者は紫川に申し込むようにとの告知が掲載されています。この俳句の会が「紫溟吟社」です。


 紫溟吟社は、やがて五高の生徒だけでなく、市中の池松迂港、第六師団の渋川玄耳、川瀬六走らが会員となり、「九州日日新聞」「九州新聞」にもその俳句が掲載されるようになります。学校内だけではなく、熊本の地に新派俳句の種をまき、根付かせることになるのです。

 

※1 坪…100坪は約330平方メートル
※2 運座…集まった人が同じ題で俳句を作り、すぐれた句をお互いに選ぶ俳句の会。

 

                                (くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美) 

 

内坪井旧居「紫溟吟社」の俳句 
         内坪井旧居(漱石写真帖より)九州日日新聞(明治33.1.27付)に掲載された「紫溟吟社」の俳句



 

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