〈23〉 作家漱石の誕生
明治36(1903)年4月、漱石は第一高等学校、東京帝国大学文科大学の講師になります。翌年には、生活費を増やすために明治大学予科でも教え始めました。
大学では、英国で研究していた英文学の講義を行いますが、前任のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の文学的な講義と違って難しかったため、最初は評判が悪かったようです。漱石は大学をやめたいと思いましたが、学長に引き止められ、思いとどまります。
そんな中で漱石は神経衰弱にも苦しめられます。しかし、9月からシェイクスピアの講義を始めると、大好評で法科大学や理科大学の学生まで聴講に来るほどになりました。
一方、寺田寅彦をはじめとする五高時代の教え子や、大学での教え子たちが漱石の家にやってくるようになります。漱石は集まってくる人々を温かく包んで「そのそばを立ち去り難く」(小宮豊隆『夏目漱石』)する人でした。
また、高浜虚子や俳句雑誌『ホトトギス』の同人たちが集まっては、漱石に俳体詩(俳句を連ねて詩のようにしたもの)を書かせたりしました。明治37(1904)年11月、高浜虚子に勧められて「吾輩は猫である」を書き、それが『ホトトギス』に掲載されると大評判になりました。「吾輩は猫である」をきっかけとして、漱石の創作欲は一気に高まり、「倫敦塔」「カーライル博物館」など次々に作品を発表します。明治39(1906)年には「坊っちゃん」(『ホトトギス』明39・4)を発表し、さらに漱石の名前は高まりました。
漱石には、いろいろな雑誌社から執筆依頼が来るようになります。授業のかたわら、漱石はどんどん作品を生みだしていきました。そして熊本の小天旅行を素材にして書かれた「草枕」(『新小説』明39・9)は、広く読者に迎えられただけでなく、大阪朝日新聞記者・鳥居素川の目に留まりました。鳥居は東京朝日新聞社の池辺三山に働きかけ、漱石を新聞社に招くよう尽力しました。この2人が熊本出身というのも不思議な縁です。
明治40(1907)年4月、漱石は教師をやめ、朝日新聞社に入り、職業作家となりました。それから亡くなる大正5(1916)年12月9日まで、わずか10年の作家生活の中で『虞美人草』をはじめとして、『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』『道草』『明暗』など、今も読み継がれている名作を残しました。
五高の生徒たちもまた、漱石の作品を愛読しました。五高の校友会雑誌『龍南会雑誌』には、漱石の小説を模倣した作品がいくつも見られます。『三四郎』(明41・9~11)の連載が始まると、五高から東京帝国大学に進学した主人公三四郎に自らを重ねて、「われら三四郎」と称するようになります。たしかに『三四郎』は漱石の五高時代の経験がなければ生まれなかった小説かもしれません。
今年は漱石生誕150年にあたります。熊本には漱石を偲ぶことのできる遺跡がいくつもあります。改めて漱石の作品に触れてみてください。
〈終わり〉
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
※「漱石とくまもと」は今回で最終回となります。
※初版本の復刻版(財団法人日本近代文学館発行)