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熊本市のプロフィール

最終更新日:2017年5月29日
政策局 総合政策部  広報課 TEL:096-328-2043 FAX:096-324-1713 メール kouhou@city.kumamoto.lg.jp 担当課の地図を見る
熊本市の歴史や概要・沿革などをご紹介します。

 本市は九州の中央、熊本県の西北部、東経130度42分・北緯32度48分の位置にあります。
 地勢は、金峰山を主峰とする複式火山帯と、これに連なる立田山等の台地からなり、東部は阿蘇外輪火山群によってできた丘陵地帯、南部は白川の三角州で形成された低平野からなっています。
 気候は、有明海との間に金峰山系が連なるため、内陸盆地的気象条件となり、寒暖の較差が大きく冬から春への移り変わりは早く、夏は比較的長いことが多いようです。

 

 

位置と面積

面積
位置
東経130度42分
北緯32度48分
 
面積
390.32平方キロメートル
 

市章

市章
 ひらがなのくの字を図案化したもの。
 和を尊び、人の調和を基本として躍進する熊本市の姿を円形にし、未来へたくましく発展する意味で太い円形にまとめたものです。
(昭和44年8月1日制定)
 
 

気象(平年値)

 年平均気温 摂氏16.5度
 年間降水量 約1,992.7mm

 内陸盆地的な地形のため寒暖の差が大きく、夏には「肥後の夕なぎ」といわれる蒸し暑い日が続きます。 


 

人口

 739,991人 316,466世帯 (推計人口)
 ※推計人口は、平成28年4月1日現在です。

 

 詳しくは、人口(内部リンク)をご覧下さい。

 
 

都市圏

 熊本市と3市9町1村
 (宇土市、宇城市、合志市、美里町、玉東町、大津町、菊陽町、西原村、御船町、嘉島町、益城町、甲佐町、山都町)で構成

 

 ※熊本都市圏協議会の構成市町村(14市町村)
  都市圏人口は1,056,265人(平成17年国勢調査)で熊本県人口の5割以上を占めています。

 

 詳しくは、熊本都市圏(内部リンク)をご覧下さい。

 
 

産業

 本市は、サービス産業が中心の都市です。そのほか、IC産業の集積、全国でも高い生産性を誇る都市型農業、水産業など各種産業が展開されています。


 

市木・市花・市鳥

イチョウ

イチョウ
肥後ツバキ
肥後ツバキ

市木 イチョウ
市花 肥後ツバキ
(昭和49年10月9日)
 昭和49年、熊本市は森の都宣言2周年と、市制85周年を記念して、森の都熊本のシンボルとしてふさわしい「市の木」「市の花」を広く市民から募集しました。
 
 その結果小学生から女性お年寄りの方まで幅広い層の方々から、12,548通にものぼる応募が寄せられました。
 
 市の木については、イチョウ、クスノキ、サクラなど122種、市の花については、肥後ツバキ、肥後ショウブ、菊など160種に及びましたが、市民各層の56人で構成される「森の都推進会議」の答申を受けて、市木を「イチョウ」、市花を「肥後ツバキ」にすることに決定しました。
 
 選ばれた理由としては、「イチョウ」は熊本城が昔から銀杏城と呼ばれ、古木もあり、また立派なイチョウ並木もあって市民に親しまれていること、また、「肥後ツバキ」は古くから熊本独特の花として知られ、代表的な名花であるばかりでなく、最近は国際的にも知られつつあり、一般家庭でも容易に育てることができること等が考えられます。
  

シジュウカラ

シジュウカラ

 

市鳥 シジュウカラ
(昭和59年5月22日)
 昭和59年、熊本市では、市の木「イチョウ」、市の花「肥後ツバキ」に続く新しいシンボル「市の鳥」の募集を行いました。
 
 六千件を越す応募の中から市の鳥に選ばれた「シジュウカラ」は、全長約14.5センチ、黒ネクタイ姿のかわいらし野鳥です。ツーピー、ツーピーとよく通る澄んだ声でさえずり、金峰山や立田山、託麻三山などの森に多く生息し、四季を通じて観察されます。
 
 また、巣箱をよく利用し、害虫を多く食べ、緑の森を守る益鳥として親しまれています。

 

市勢要覧

詳しくは、市勢要覧2015新しいウインドウで(内部リンク)をご覧下さい。

 

熊本市民「愛市憲章」

 私たち熊本市民は、清潔で住みよい街をつくりましょう。
 私たち熊本市民は、郷土の自然や文化財を大切にいたしましょう。
 私たち熊本市民は、時間を正しく守りましょう。
 私たち熊本市民は、交通道徳を重んじましょう。
 私たち熊本市民は、互いにあたたかく交わり、旅行者を親切に迎えましょう。
昭和35年5月11日制定


 

「森の都」都市宣言に関する決議

 自然環境の回復による生活環境の保全は、今や人類共通の課題となっている。
 由来、わが熊本市は、豊かな緑、清冽な水に恵まれた自然の下、今日の発展を遂げてきたが、急激な都市化の波に、今や昔日の面影は一変しようとしている。
 ここにおいてわれわれは、市民の総力を結集して緑と水の保全・回復につとめ、もって人間優先の快適な都市環境づくりに邁進せんことを誓い、わが熊本市を「森の都」とすることを宣言する。
昭和47年10月2日 熊本市議会


 

「地下水保全都市宣言に関する決議

 限りある地球の資源の保全は、自然環境の回復と共に人類共通の課題であり、水資源についてもその例外ではない。
 古来、わが熊本市は豊かな緑と清冽な地下水に恵まれた自然の下生々発展を遂げて来たが、今日における無秩序な地下水の開発と自然環境の破壊は、今や地下水の汚染をはじめその枯渇さえ憂慮される状態にある。
 よって、本議会は市民の総意を結集して自然環境の回復、保全をはかり、貴重な水資源を後世まで守り伝えていくことを誓い、ここにわが熊本市を地下水保全都市とすることを宣言する。
昭和51年3月22日 熊本市議会

 
 

「健康都市宣言」

 熊本市は、緑と水に恵まれた豊かな自然と先人が築いた伝統と文化を擁し、地方における近代的な中枢都市として発展しつつある。
 しかし、都市化の進展に伴い市民生活を支える基本である心身の健康を阻害する要因が増大している。
 熊本市は、市民とともに明るく健康な都市をめざして諸施策を結集し、その実現につとめなければならない。
 ここに、すべての市民の健康を市政の目標として、熊本市を「健康都市」とすることを宣言する。

昭和54年10月1日 熊本市

 
 

「平和都市宣言」

 熊本市は、先の大戦において、多くの尊い人命を失うとともに、市街地のほとんどを焼失するなど、大きな災禍を被った。
 戦後、焦土の中から立ち上がった市民の英知とたゆまぬ努力によって、緑と水の豊かな自然環境や先人の築いた歴史と文化に支えられながら、今や九州中央の中枢都市として着実に発展を続けている。
 私たち熊本市民は、戦後50周年の大きな節目にあたり、先の大戦への深い反省に立ち、未来に向けて平和で豊かな社会を築き、かけがえのない自然環境を次代に引き継ぐため、再び戦争の惨禍を繰り返さないことを誓うとともに、人類共通の願いである世界の恒久平和の達成を希求し、ここに「平和都市」を宣言する。

平成7年7月27日 熊本市


 

「環境保全都市宣言」

 私たちのふるさと熊本市は、大阿蘇の大地を源とする地下水と緑に恵まれ、この豊かな自然の中で重厚な文化をはぐくみ、「森の都」と呼ばれる美しい近代都市として発展してきました。
 しかし、近年、都市化の進展と生活様式の多様化などにより、自然の仕組みが損なわれ、恵みの地下水も将来が危ぶまれています。 いまこそ私たちは、大気と水と大地で成り立つ地球の自然が、人類だけではなく生命あるものすべてにとって、かけがえのないものであることをあらためて思い起こし、その保全のために、自然界の生態系に学んだ循環型社会へと、転換を図っていかなければなりません。
 私たちは、美しく豊かなこのふるさとの環境を守り育て、これを次の世代に引き継いでいくことを誓い、ここに熊本市を「環境保全都市」とすることを宣言します。
平成7年9月25日 熊本市

 
 

「スポーツ都市宣言に関する決議」

 すべての市民が生涯にわたり活力に満ちた健康的な生活を営むことは、まちづくりの基本である。
 スポーツの振興は、市民生活の根拠となる心身の健康の保持に欠かせないものであるが、加えて、青少年の健全育成、生きがいづくり、地域との交流、自然とのふれあいといった多くの観点からも積極的に推進していく必要がある。 よって、本議会は、21世紀に向け3つのスローガンを揚げ、すべての熊本市民がスポーツを通して健康的でいきいきと生活できる都市を目指すことを誓い、ここにわが熊本市を「スポーツ都市」とすることを宣言する。
 一、スポーツを通じて健やかなこころと体を創ろう。
 一、スポーツを通じて人と自然にふれあおう。
 一、スポーツを通じていきいきとしたまちを創ろう。

平成11年8月 熊本市議会

 
 

「観光立市くまもと」都市宣言に関する決議

 熊本市は、熊本城に代表される歴史的文化遺産をはじめ豊かな水と緑に象徴される自然環境、そして近代都市としての多彩な魅力を有し、国内外から多くの観光客が訪れるまちである。
 観光は、地域の生活や文化を個性として発信し、その魅力により人々が来訪し交流が生まれる総合的な産業であり、まちづくりや都市経営にも大きく寄与し、21世紀を迎えた今日において重要性はこれまで以上に高まっている。 よって、本議会は、市民が誇りをもち、そして訪れる人にとって魅力ある観光都市を目指し、市民の生活や文化に基づいたまちづくりを進めるとともに、全国に誇れる城下町としての魅力を活かし、熊本らしい個性豊かな観光都市の実現を目標として、ここに我が熊本市を「観光立市くまもと」とすることを宣言する。

平成15年9月26日 熊本市議会

 

 

 何億年のむかし、現在の熊本市の大部分は一面の海底で、処々に小島が散在するに過ぎなかったと想像されるが、その後数次にわたる地表上の大変動によって、次第に熊本平野が形成されるにともない、現在の出水・健軍方面の砂礫層から湧き出る清冽な泉をめぐって、縄文人・弥生人の聚落が完成されていった。
 古墳時代を経て飛鳥時代に入り、大化改新(645年)が行われると、託麻の三宅郡(今の出水地方)には、肥後の国府「託麻府」が設けられ、宏壮な伽藍の国分寺の建立を見たが、これらを中心とした聚落が形づくられ大きくなったものが、熊本市の始まりである。


 奈良朝前後の日本各地は、国力の大小によって、大・上・中・下と四等級に区分されていたが、肥後はそのころ農産物産出量で九州諸国中群を抜いており、延暦14年9月(平安の初期)に至って、全国中でも優位の資格を認められ「大国」に昇進した。
 この期に国司として、肥後に赴任した道君首名、紀夏井、藤原保昌、清原元輔等はいまも幾多の遺跡を留めているが、とくに後撰集の選者で、清少納言の父元輔と、平安期歌人「檜垣女」との交遊の説話は有名である。


 南北朝50年間は、戦乱の日が相次ぎ、熊本地方もしばしば軍営の場に利用された。
 長い戦乱のあと、天下が統一されるや、肥後全土の守護職は改めて菊池氏に委ねられ、一国政令の中心は隈部(現在の菊池市)の方に移った。
 降って、応仁の項菊池の一族出田三郎秀信は、いまの熊本城東部の丘陵に千葉城(熊本城の始め)を構えたが、次の鹿子木親員が、明応年間(1490年代)に、今の古城の地に居城を移し、隈本城と称えた。ついで、城親冬と、佐々成政のあとを承けて天正16年(1588年)加藤清正が入城するにおよんで、清正は国府の二本木方面から、寺院、商家などを移転させて、城下町の経営に着手した。
 また、この清正は熊本の自然に、はじめて大規模な人為のツルハシを振った武将で、河川、その他の土木事業に残した功績は大きく、熊本市が城下町としての体裁を整えてきたのは、このころからである。日本三名城の一つとうたわれる熊本城は、この清正が慶長6年から12年にかけ、7カ年の歳月を費やして築城したものである。(築城年については異説もある)


 細川氏時代は、寛永9年細川忠利の入国によって始まるが、細川氏は爾来大政奉還の日に至るまで、200有余年間にわたって肥後熊本の政治を行った。この細川氏は、歴代名君相次いだが、そのうち、もっとも注目すべきは、延亭4年藩主となった8代重賢の政治であろう。このとき国政揚り、教学も大いに振興した。とくに藩校「時習館」や、全国にさきがけて創設された医療ないし教育機関としての「再春館」、薬草研究で有名な「蕃滋園」などは、本市が長く文教の府として全国に秀でた因となった。また忠利のときに創建された水前寺(成趣園)は、幽斉ゆかりの古今伝授の間とともに、いまも熊本市の観光資源の一つとなっているが、晩年を熊本に送った剣聖宮本武蔵の遺跡も、熊本が持つ誇りの一つといえよう。


 明治4年7月に入って、廃藩置県の大詔が出されると、肥後には、熊本、人吉の二県がおかれ、ついて同年11月改めて熊本、八代の二県となった。ところが翌5年6月熊本県は、ふたたび白川県と改称され、翌々6年1月には八代県が廃止されて、白川県に併合されたため、肥後全域は白川県の所管となり、熊本市には県庁が設けられた。これは明治9年1月まで続いたが、同年2月さらに改めて熊本県と称せられるようになった。
 このころ熊本城には鎮台がおかれ、市内には洋学校と、西洋医学の熊本医学校ができて熊本市は城下町としてにぎわいを見せていたが、9年の神風連事件、翌10年の西南の役と引き続き大きな戦禍に見まわれ、とくに西南の役では、全市街が焦土と化してしまった。22年4月、市制が施行されるとこれまでの「熊本区」は、「熊本市」と改められた。
 明治の初年から、九州における政治・軍事の中心として、各種の官庁が置かれていた熊本市は、24年鉄道の開通によって熊本駅が設けられ、又30年代に入って市区改正の大事業が行われ、中央部の山崎練兵場が市外に移されて新市街が出現するや、会社、工場、商店その他施設が続々と軒を連ね、日清、日露の戦勝の意気も加わって、明治の隆昌期を現出した。


 大正10年、周辺11ヶ町村を併合して大熊本市の基礎を固め、私鉄菊池軌道、熊本軌道、御船鉄道及び国鉄宮地線の開通整備と並んで13年には、市電の開通があり、更に上下水道施設、二十三聯隊の移転等によって、いよいよ近代都市の面目を新たにすることになった。
 しかし、昭和20年には空襲を受けて全市の大半は瓦礫と化したが、その後全市民の不断の努力によって、戦災、水害等各種の苦難を克服し、今日の隆盛を見ることができた。


市制施行当時は、面積5.55平方キロメートル、人口4万2千余人を数えるに過ぎなかったが、近代的都市機能の集積や平成20年10月の富合町、平成22年3月の城南町、植木町との合併をはじめとする市域の拡大等によって、今や面積390.32平方キロメートル、人口約74万人にまで成長し、平成24年4月には全国で20番目、九州で3番目の政令指定都市へと移行した。平成23年3月の九州新幹線全線開業とこの政令指定都市移行による相乗効果により、九州中央の交流拠点都市として着実に発展している。政令指定都市移行後の新しいステージにふさわしいまちづくりとして、本市が有する熊本城を中心とした歴史・文化、74万市民の水道水源を全て賄う地下水や森の都と称される豊かな緑、豊かな農水産物、さらには、優れた医療環境や大学等の高等教育機関の充実など本市の魅力や暮らしやすさに更に磨きをかけ、「九州ど真ん中!日本一暮らしやすい政令指定都市くまもと」の実現を目指している。

平成元年4月   市制施行100周年「熊本百彩」が開幕
       3年2月   飽託郡4町(北部、河内、飽田、天明)と合併
       3年2月   人口が60万人を突破
       3年9月   台風19号が来襲
       8年4月   中核市へ移行 
   19年1月   熊本城築城四〇〇年祭が始まる 
     20年4月   熊本城本丸御殿が一般公開
     20年10月   下益城郡富合町と合併。人口が67万9千人となる
     21年4月   市制施行120周年
     22年3月   下益城郡城南町、鹿本郡植木町と合併。人口が73万人となる
     23年1月   区の名称が決定
     23年3月   九州新幹線全線開業
     23年10月   政令指定都市への移行について閣議決定・政令公布
     24年3月   県知事と市長が事務引継書に調印
     24年4月   政令指定都市へ移行
     28年4月   熊本地震

徳富 蘇峰(本名・猪一郎)氏

徳富蘇峰(本名・猪一郎)氏

 

(昭和30年1月1日表彰)
明治-昭和期の新聞人・評論家。熊本洋学校・同志社に学び、帰郷して自由民権運動に参加し、大江義塾を開設。明治20年民友社を設立「国民之友」、同23年「国民新聞」を発行。「近世日本国民史」100巻を完結。生涯300冊の著作を残した。
文久3年1月25日生れ 昭和32年11月2日死去 94歳
 

高橋 守雄氏

高橋守雄氏

 

(昭和30年1月1日表彰)
第7代熊本市長として、歩兵23連隊の移転・市電・上水道の開設の三大事業を完遂、市の近代化、発展繁栄に尽くした。また、教育者として東洋語学専門学校長、熊本商大学長を歴任、郷土教育の振興育成に努力した。
明治16年1月1日生れ 昭和32年5月6日死去 74歳
 

細川 護立氏

細川護立氏

 

(昭和35年4月1日表彰)
旧肥後藩主細川家16代。有斐学舎舎長、肥後奨学会設立、多額の奨学金を出資して本県出身学徒の育成援護に尽くした。国の文化財保護委員会委員として、本市の重要文化財、史跡、名勝等の保存活用に貢献。
明治16年10月21日生れ 昭和45年11月18日死去 87歳
 

福田 令寿氏

福田令寿氏

 

(昭和35年4月1日表彰)
医師、教育者、社会事業家。熊本英学校で海老名弾正らに学び受洗。エジンバラ大医学部卒。産婦人科病院開業の傍ら無料診療所紫苑会治療所を創立。県医師会長、公選の県教育委員長、大江高校校長、県社会福祉協議会会長など歴任。キリスト教信仰に基づく生涯を貫いた。
明治5年12月7日生れ 昭和48年8月7日死去 100歳
 

宇野 哲人氏

宇野哲人氏

 

(昭和44年10月1日表彰)
漢学者。東京大学名誉教授。東方文化学院院長、実践女子大学学長、東方学会会長を歴任。清国(中国)に留学して支那学を、ドイツで西洋哲学を学んだ。西洋哲学の方法を用いた中国哲学の叙述は一世を風靡した。
明治8年11月15日生れ 昭和49年2月19日死去 98歳
 

堅山 南風(本名・熊次)氏

堅山南風(本名・熊次)氏

 

(昭和44年10月1日表彰)
日本画家。横山大観に師事する。その多くの作品の上に、肥後の郷土色のにじみ出た芸術の香りがよく生かされている。日本画壇の第一人者といわれ、また、郷土文化の進展に大きく貢献した。
明治20年9月12日生れ 昭和55年12月30日死去 93歳
 

後藤 是山(本名・祐太郎)氏

後藤是山(本名・祐太郎)氏

 

(昭和54年10月1日表彰)
新聞人、俳人。九州日日新聞社入社後、国民新聞社に留学、徳富蘇峰の薫陶を受ける。帰熊後九州日日新聞社の主筆、編集長として熊本の文化振興に貢献。昭和2年、俳誌「かはがらし」(のち「東火」)を創刊主宰。著書に「肥後の勤皇」、編書に「肥後国誌」がある。
明治19年6月8日生れ 昭和61年6月4日死去 99歳
 

中村 汀女(本名・破魔)氏

中村汀女(本名・破魔)氏

 

(昭和54年10月1日表彰)
高浜虚子の門下生で、現代女流俳句の第一人者。常にふるさとを愛する心を底流にした“汀女俳句”は、句にふれる人々に、郷土愛を喚起させる。郷土の文化振興に貢献。「ホトトギス」同人、「風花」を創刊主宰した。
明治33年4月11日生れ 昭和63年9月20日死去 88歳
 

安永 蕗子氏

安永蕗子氏

 

(平成21年10月1日表彰)
平成10年から長きにわたり、宮中歌会始詠進歌選者を務めるなど日本を代表する女流歌人。歌誌「椎の木」を主宰。平成3年には歌壇の最高賞である迢空賞を受賞。書家としても顕著な功績を収める。熊本県教育委員会委員長、熊本県文化協会会長などの要職を歴任、本市の教育・文化の発展に多大な功績。勲四等瑞宝章受章。くまもと県民文化賞受賞。熊本県近代文化功労者。
大正9年2月19日生れ 平成24年3月17日死去 92歳
 

(旧城南町)

上塚 周平氏

上塚 周平

 

(昭和50年10月17日表彰)
「ブラジル移民の父」と呼ばれ、明治41年に第1回移民船「笠戸丸」の監督としてブラジルに渡り、ブラジルにおける日系社会の確固たる基盤を築いた。
また、その功績から、ブラジルのサンパウロ州には氏の名前を付けられた道路や公園、橋があるほか、遺徳を称える記念碑なども残されている。
明治9年7月12日生れ 昭和10年7月6日死去 58歳
 

上塚 司氏

上塚 司

 

(昭和53年3月23日表彰)
大蔵大臣秘書官、大蔵政務次官、農商務大臣、商工大臣などの要職を務め、この間、アマゾン開発に全力を傾け、ブラジル移民の道を開いた。その後、日伯中央協会の理事や名誉顧問を歴任。ブラジル大統領から最高勲章を授与されるなど、日伯国交樹立等に対する功績が高く評価されている。
明治23年5月1日生れ 昭和53年10月22日死去 88歳
 

林田 正治氏

林田 正治

 

(昭和53年3月23日表彰)
台湾の台南州内務部長、澎湖庁長、新竹州知事を務めた後、衆議院議員、第16代熊本市長を経て参議院議員となり、北海道開発政務次官、地方行政委員長等を歴任。その業績は高く評価されている。
明治25年8月3日生れ 昭和54年12月14日死去 87歳
 

小林 久雄氏

小林 久雄

 

(平成元年9月25日表彰)
熊本県医師会副会長、下益城郡医師会長などを歴任し、健康保険の普及等に尽力した後、旧城南町の初代町長に就任。若くから人類学、考古学に関心があり、生涯をかけて研究された資料は「小林コレクション」と呼ばれ、約2万点の遺物が塚原歴史民俗資料館に寄贈されており、国指定重要文化財の「台付舟形土器」など、一部は現在も展示されている。
明治28年6月4日生れ 昭和36年8月26日死去 66歳
 

東家 嘉幸氏

東家 嘉幸

 

(平成12年3月22日表彰)
衆議院議員として建設政務次官や衆議院建設常任委員会委員長などの要職を歴任。平成3年には国土庁長官に就任した。この間、国や熊本県、旧城南町の発展のために活躍し、数々の功績を残している。
昭和2年10月1日生れ 平成18年1月26日死去 78歳
 

(旧植木町)

境 米蔵氏

境 米蔵

 

(昭和51年6月30日表彰)
県議会議員を経て、旧植木町初代町長(通算4期)。旧町の産業・経済発展の礎を築いた。開田事業による農業の構造改革及び企業誘致により地域の発展に貢献した。また、西南の役田原坂を公園化し、戦跡の保存・観光振興に努めた。
明治30年10月20日生まれ 昭和53年1月2日死去 80歳
 

木村 学氏

木村 学

 

(昭和58年6月21日表彰)
旧植木町教育長。徹底した住民対話型の公民館活動により地域社会の近代化に貢献した。旧町第4代町長として住民福祉の向上に努める一方、文芸作家として生涯にわたる執筆活動、郷土史研究により、郷土の文化振興に貢献した。
明治38年1月21日生まれ 平成6年3月21日死去 89歳
 
 

旧城南町及び旧植木町の名誉町民は、熊本市の名誉市民として継承されていきます。

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