〈3〉漱石落第す
明治19年(1886)7月、腹膜炎にかかった漱石は、進級試験が受けられず落第します。第一高等中学校予科2級から1級に進級する、19歳の時です。当時の漱石は勉強よりも遊ぶことに熱心で、怠けてばかりいたそうです。
追試願を出したのですが、なかなか教務の人が取り合ってくれません。その時、漱石は「教務係の人が追試験を受けさせて呉れないのも、忙しい為もあろうが、第一自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中へ立った処で何事も出来ないから、先ず人の信用を得なければならない。信用を得るには何うしても勉強する必要がある。」(談話「落第」)と思ったそうです。友人たちが追試験を勧めるのも振り切って漱石は進んで落第し、猛勉強を始めます。すると今まで不得意だった数学もよく分かるようになり、以後は卒業まで首席を通しました。人前で話すことも苦手だったのですが、教室での発表も積極的に行えるようになったのです。これは漱石にとって大きな変化でした。
落第したクラスには漱石より2歳年下の米山保三郎がいました。秀才で哲学を専攻し、変わった行動の多い人だったようですが、漱石は非常に尊敬し、親しく交際しました。建築科に進むことを考えていた漱石に、「文学をやれ」と勧めたのが、米山でした。
お金を得るための仕事しか考えていなかった漱石に、米山は文学ならば勉強次第で何千年も後の世に伝えるべき「大作」ができる、と主張しました。漱石は、米山の忠告に共感し、英文学を専攻しました。明治23年9月には、帝国大学に入学しますが、英文学科に入学したのは漱石ただ1人で、上級生は1人しかいませんでした。米山は哲学科に進みましたが、明治30年急性腹膜炎のため28歳の若さで亡くなりました。『吾輩は猫である』に登場する苦沙弥先生の旧友曽呂崎にその面影が描かれています。
帝国大学ではディクソン教授に英語・英文学を学びました。なかなか厳しい先生で、答案に綴り字や文法の誤りがあると減点するため、ほとんどの学生がやっと合格点を取る中で、漱石1人だけがいつも高得点でした。図書館に行っては多くの英文学書を読み、英語の勉強に励みました。ディクソンは漱石の英語力を高く評価し、学生である漱石に鴨長明の『方丈記』の英訳を依頼しました。その英文は現在も高く評価されています。
明治26年には大学院に進学しました。しかし勉強すればするほど、漱石の心の中には英文学がよく分からないという不安が起こっていました。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)