東京事務所では、熊本市の首都圏での窓口として、省庁等との連絡調整、熊本市のPRや企業誘致活動などを行っています。
事務所内には、情報パンフレットを取り揃え、熊本の旬な情報をお伝えしていますので、お気軽にお立ち寄りください。
住所
〒102-0093
東京都千代田区平河町2-4-1
日本都市センター会館(日本都市センターホテル) 9階
熊本市東京事務所の業務時間 8時30分~17時15分
(土日祝日及び12月29日~1月3日は休み)
業務
・国会、各省庁その他関係機関との連絡調整に関すること
・市政に関連のある情報の収集及び発信に関すること
・企業立地に関すること
・首都圏における観光宣伝その他のシティセールスに関すること
・その他特命事項に関すること
最寄駅・バス停
地下鉄
「麹町駅」 |
東京メトロ有楽町線 |
出口1 |
徒歩約4分 |
「永田町駅」 |
東京メトロ有楽町線・半蔵門線・南北線 |
出口4、5、9 |
徒歩約4分 |
「赤坂見附駅」 |
東京メトロ丸の内線・銀座線 |
出口D |
徒歩約8分 |
都バス
「平河町二丁目」 |
橋63 新橋⇔小滝橋車庫 |
徒歩約1分 |
JR
観光パンフレット等を配布しています
東京事務所で以下のパンフレット等を配布していますので、熊本市に興味がある方、熊本へのご旅行等をお考えの方は、是非、お立ち寄りください。
【配布物】
■市政だより
■熊本市PRパンフレット
■観光パンフレット
■企業立地補助制度のご案内
この他にも、多くの種類のパンフレットを配布しています。
明治神宮「清正の井戸」
東京で”運気上昇のパワースポット”とし人気の「清正の井戸」。
明治神宮御苑内にあり、その名は、江戸時代初期、加藤清正が藩主であった肥後熊本藩の下屋敷がこの地にあったことに由来しており、毎分60リットルの水量を有します。
その写真を携帯電話の待ち受け画面にすると運気があがると、今も多くの人が行列を作っています。
熊本市にも、地下水都市NO.1のパワースポット「健軍五号井(ごごうせい)」があります。
熊本市は生活用水の全てを地下水で賄う「日本一の地下水都市」。この健軍五号井は、日量1万4千立方メートルが湧き出る日本最大級の自噴井戸で、市全体の水道水の1/4を賄う熊本市最大の水源地内にあります。
土木の神様、治水の神様と称される加藤清正の偉業により、今も豊かな地下水の恩恵を受ける熊本市。
この健軍五号井は熊本の「清正の井戸」といえるかもしれません。
熊本の地下水については、「くまもとウォーターライフ」をご覧ください。
↓
https://www.city.kumamoto.jp/kankyo/hpkiji/pub/List.aspx?c_id=5&class_set_id=20&class_id=2655
加藤清正上屋敷跡、櫻の井
(憲政記念館内 千代田区永田町1-1-1)
■加藤清正上屋敷跡
憲政記念館がある公園一体は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。
加藤家は二代忠広の時に改易、屋敷も没収されており、その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています。
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)三月に、この屋敷から桜田門へ向かう途中、水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士に襲撃されました。
■櫻の井
また、加藤清正上屋敷跡の支柱の傍らにある「櫻の井」は、名水井戸として知られた「江戸の名所」です。
この井戸は、加藤清正が掘ったと伝えられている三連式釣瓶井戸で、縦約1.8m、横約3mの石垣で組んだ大井戸で三本の釣瓶を下ろし、一度に桶三杯の水が汲め、幕末当時江戸を訪れる通行人に豊富な水を提供し、重宝がられました。
熊本城内にも、現存している加藤清正が掘った井戸が現存しています。
加藤清正は、朝鮮出兵の籠城経験から、熊本城築城の際に120余の井戸を掘ったと伝えられています。内20本近くが現存していて、中には深さ約40mに達する井戸もあります。
加藤清正下屋敷跡
現在のニューオータニ付近に加藤清正は下屋敷を構えていたとされています。
関ヶ原の合戦後、この屋敷は井伊家の中屋敷に引き継がれました。
ニューオータニにある日本庭園内の池「清泉池」は、通称「加藤清正公の泉」と呼ばれ、今も庭園には、加藤清正公時代からの石灯籠や樹木がそのまま残っています。
清正公堂(清正公寺)
(中央区日本橋浜町2-59-2)
中央区浜町公園には、江戸時代には熊本藩主・細川氏の下屋敷があり、明治期以降も細川家の邸宅がありましたが、その後、庭園跡が区立公園として整備されました。
その一角にある加藤清正を祀る清正公堂(清正公寺)は、文久元年(1861)に肥後藩主細川斉護が、熊本市日蓮宗本妙寺から勧請したもので、一般の参拝も許されていました。
覚林寺
(港区白金台1-1-47)
通称「白金の清正公さま」として信仰をあつめる覚林寺は、加藤清正が文禄・慶長の役から帰国する際に連れ帰った日延上人が、清正の恩に報いるために開創したもので、清正公の守護仏である釈迦牟尼仏を本尊とし、併せて清正公も一緒に祀りました。
毎年5月4日、5日の両日に行われる清正公大祭には、菖蒲の葉っぱが入った「お勝守(運の強かった清正公にあやかって、人生の様々な苦悩に打ち勝ち、幸運に恵まれるよう、すべての「勝負に勝つ」という意味を持つ)」が授与されます。
また、本寺では、「清正公大神儀」と記されたご朱印をいただくことができます。
池上本門寺
(大田区池上1-1-1)
■此経難持坂(しきょうなんじざか):左上
この石段は、加藤清正の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品の偈文(げぶん)九六字にちなみ、九六段に構築されており、別称を「此経難持坂」といいます。
元禄の頃に改修されていますが、造営当時の祖型を残す貴重な石造遺構です。
■加藤清正の供養塔:左下
霊宝殿の裏手には、加藤清正の娘あま(瑤林院)が父清正の満三十八年目の忌日に当る慶安二年(1649)、その供養のために造立した供養塔があります。
■鐘桜:右上
この鐘桜は、正保四年(1647)、加藤清正の娘あま(瑤林院)が寄進した梵鐘です。
■大堂(祖師堂):右下
現在の大堂は、昭和三十九年に再建されたものですが、昭和二十年に焼失した旧大堂は慶長十一年(1606)、加藤清正が慈母の七回忌追善供養のために建立したもので、間口25間の大建築は、加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通ることができたと伝えられています。
富士見櫓
(皇居内)
本丸地区に現存する唯一の櫓で、遺構の中では最も古いといわれています。
この櫓が立つ石垣は加藤清正による築造とされ、「野づら積み」といわれる自然石をそのまま積んだ積み方は、乱雑ですき間が多く崩れそうですが、水はけもよく堅牢で、関東大震災でもまったく崩れなかったそうです。
現在は、本丸より富士見櫓の裏手までは行くことができますが、石垣の近くは一般に立ち入ることができません。
花の輪(熊本県:りんどう)
(皇居周辺)
今も多くのランナーで賑わう皇居ラン。その距離は約5kmといわれています。
皇居周回コースの歩道上には、47都道府県のシンボルとなる花をあしらったパネルが100m間隔に填め込まれています。
熊本の花は県花「りんどう」。
万延元年3月3日(陽暦1860年3月24日)、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の浪士たちが大老井伊直弼を殺害した事件の舞台となった桜田門の付近に設置されています。
皇居 都道府県の木(熊本県:くすのき)
(皇居内)
皇居東御苑内の二の丸庭園の一郭に都道府県の木のコーナーが有ります。
昭和43年10月に、それぞれ都道府県を代表する樹木が植樹されたもので、熊本県の木は、県木「くすのき」が植樹されています。
漱石公園~夏目漱石終焉の地 漱石山房~
(新宿区早稲田南町7)
明治二十九年(1896)、第五高等学校(現在の熊本大学)の教師として来熊した夏目漱石。彼は4年3か月熊本で過ごしました。
東京都新宿区は、漱石が生まれ育ち、その生涯を閉じたまち。その最後の9年間を過ごした、新宿区早稲田南町の「漱石山房」と呼ばれる家では、「三四郎」「それから」「こゝろ」などの作品を執筆しました。
その敷地の一部が漱石公園として整備されており、「漱石山房」のテラス(写真右上)が再現されいます。
小泉八雲公園
(新宿区大久保1-7)
怪談集「耳なし芳一」「雪女」で有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、明治二十四年、五高(現熊本大学)の英語教師として赴任、3年間を熊本で過ごしました。
その八雲が、晩年を過ごした地である東京都新宿区大久保に記念公園があり、この公園は、小泉八雲の生誕地ギリシアのレフカダと新宿区が友好都市提携を結んだことを契機としてつくられました。
蘆花恒春園
(世田谷区粕谷1-20-1)
「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、後半生を過ごした旧居の跡です。
蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、ロシアを旅行した際のトルストイの土に生きることに感銘し、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、「美的百姓」と称して晴耕雨読の生活を送りました。
この公園は、昭和11年の蘆花没後10周年忌に際し、愛子夫人から当時の家屋、耕地など旧邸地の一切が東京市に寄贈され、昭和13年に都立公園として開園されました。
永青文庫
(文京区目白台1-1-1)
江戸時代から戦後にかけて所在した細川家の屋敷跡の一隅にあります。肥後熊本五十四万石の大名、細川家に伝来する歴史資料や美術品など、約9万点の文化財を管理保存、研究し、一般に公開しています。昭和25年、16代護立公によって、細川家に伝来する文化財の散逸を防ぐ目的で財団法人として設立されました。名称は、菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と、初代・藤孝の居城青龍寺城の「青」の二字をとって護立公が名付けたものです。毎年4期にわけて所蔵品である美術工芸品を中心に公開展示しています。また熊本県立美術館にも永青文庫展示室があります。
開館時間 10:00~16:30(入館は16:00まで)
休館日 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、
展示替期間、年末年始
永青文庫HP http://www.eiseibunko.com/index.html
肥後細川庭園(旧:新江戸川公園)
(文京区目白台1-1-22)
一帯は、幕末には細川家の下屋敷でした。明治時代には細川家の本邸となり、現在では文京区が管理する公園となっています。このあたりは目白台からの湧水が豊富で、肥後細川庭園もその湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の庭園そのままの雰囲気を現在でも楽しむことができます。
また、敷地内には明治時代に細川下屋敷跡に学問所として建設された「松聲閣(しょうせいかく)」があります。大正時代に改修された木造2階建ての建物で、一帯が公園となってからは、集会施設として活用されています。老朽化により、文京区が修復と耐震補強工事を行い、2016年1月に新たにオープンしました。なお、その際新名称が公募され、平成29年3月18日から公園の名称はそれまでの「新江戸川公園」から、熊本との縁を示す「肥後細川庭園」となりました。
肥後細川庭園HP
https://www.higo-hosokawa.jp/