坪井川に明八橋と明十橋の二つの石橋が架かっている。その名が示すように明八橋は明治8年(1875)、明十橋は明治10年に造られた。両橋とも種山石工の橋本勘五郎の作とされる。種山石工は、江戸末期から明治中期にかかけて活躍した、石橋づくりの高い技術を持った石工集団で、現在の八代市東陽町(旧種山村)を本拠地に活躍していた。
橋本勘五郎は、種山石工の祖・藤原林七の孫で、もとの名は丈八といった。勘五郎が手掛けた橋は数多く、県内では御船川橋、通潤橋、下鶴橋などがある。種山石工のなかでも、特に勘五郎が有名なのは、卓越した技術の持ち主だったからだ。その優れた技術が認められ、明治6年に政府に招かれ東京で仕事をしている。東京では万世橋や浅草橋などの名橋を架けた。
東京から帰って最初の仕事が明八橋だった。路面が広く、平らなのは、東京で交通量の多さを目の当たりにし、熊本における交通の将来を見越していたのだろう。