西区ホームページトップへ

西区ホームページ(スマホ版)西区ホームページ

  • 音声読み上げ リードスピーカーを起動します
  • 文字サイズ 拡大標準
  • 背景色 青黒白

校区・地区の情報

最終更新日:2023年12月1日
西区役所 区民部 西区 総務企画課TEL:096-329-1142096-329-1142 FAX:096-329-1314 メール nishisoumukikaku@city.kumamoto.lg.jp 担当課の地図を見る

古町

概 況

 

【地勢】

 西区の南東部に位置し、東側を白川、西側を坪井川が流れています。坪井川はかつては長六橋付近で白川に合流していましたが、加藤清正の熊本城築城に合わせた城下町整備に伴い、祗園橋から白川橋間に築かれた石塘により白川から分離され現在の形状となりました。

 

【交通】

 都市計画道路二本木小碩線が校区中央を東西に横断し、さらに田崎交差点から南側に向かって南北に通っています。
 また、校区南側をJR豊肥線が通っています。

【歴史】

 平安時代には国府が置かれ古府中と呼ばれていました。加藤清正が熊本城築城時、残っていた寺社や商家を新城下町に移転させています。
 また、熊本市との合併時に城下の古町と混同される恐れがあり、二本木町と改称されています。
 明治5年~8年(1872年~1875年)白川県庁が置かれ、11年(1878年)には京町の遊郭が移転してきました。
 明治24年(1891年)に九州鉄道が開通して春日駅(現熊本駅)ができると遊郭は隆盛を極めましたが、戦後、衰退しました。

【産業】

 熊本駅に近いこともあり、ホテルや旅館、飲食店が多く立地しています。

【熊本市との合併】

 大正10年6月1日 古町村(当時人口 4,680人)を編入

【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で3,476人。高齢化率は26.2%で、西区平均31.3%を5.1ポイント、熊本市平均27.1%を0.9ポイント下回っています。

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数

100%

3,476人 1,613人 1,863人

0~14歳

9.8%

341人 168人 173人

15~64歳

64.0%

2,224人 1,080人 1,144人

65歳以上

26.2%

911人 365人 546人

  

         

【面積】

 0.55平方キロメートル(西区 16校区地区中 15番目の広さ)

 

まちづくり活動の状況

 

熊本駅周辺の再開発事業に伴い、春日校区、古町校区、白坪校区と連携したまちづくり事業が展開されています。
平成26年度に二本木音頭が完成し、夏祭りの盆踊りで紹介されるなど校区の親睦と融和に活用されています。

各種施設

【公共施設】

 古町地域コミュニティセンター  電話 096-356-5454 

 古町小学校 学級数8    児童数132人(令和5年5月現在)

 花陵中学校 学級数16  生徒数412人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 春日橋右岸緑地、二本木公園、二本木五丁目南公園、古町公園

 

【幼稚園・保育園】

 すぎのこ保育園   電話 096-355-6725

 古町幼稚園     電話 096-352-4907

【警察・消防】

 南警察署熊本駅交番 電話 096-353-5987

 西消防署田崎出張所 電話 096-356-2263

 

【病院・診療所】

 山下内科医院    電話 096-322-6511

 末永産婦人科医院  電話 096-352-7280

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ花陵   電話 096-247-6030

自然・名所・旧跡等

【水遺産等】外部リンク新しいウインドウで

1.旦過の瀬  

 旦過の瀬は二本木(古町)と世安を結ぶ渡し場であったといわれ、現在の世安橋あたりと推定されています。

 旦過の意味は、旦が早朝を意味し、修行僧が一夜の宿泊する庵が旦過といわれ、旅人は朝にこの「旦過の瀬」を渡ったとされています。
 旦過の瀬では、天正8年(1580年)阿蘇家の武将甲斐宗運と島津方連合軍(隈本城主城親賢ら)との間で一大合戦が行われた場所で、熊本城下唯一の古戦場といわれています。
 

2.石塘  

  加藤清正は、城下町を洪水から守るため、春日付近で合流していた白川と井芹川を分離して、井芹川を高橋方面に向ける治水事業を行っています。この分流のため築いた堤が春日、二本木地区に残る「石塘」です。日本で最も古い分流工事の一つとされています。

 

イベント・特産品

【イベント】

☆どんどや  

 平成27年から世安橋下流右岸の白川河川敷で熊本駅周辺の3校区(春日、古町、白坪)合同による「どんどや」が1月に開催されています。

 この一年の無病息災を祈念しての火祭り行事です。

【特産品】

☆熊本ラーメン

 校区内には有名な熊本ラーメンの店が数件あり、地元常連客に混じって観光客の姿も見られます。

 

春日

概 況

【地勢】

 校区の西側に坪井川が流れ、北側に花岡山(132m)、中央東側に万日山(138m)があります。

【歴史】

 春日の地名は6世紀前半、大和朝廷が筑紫君磐井(いわい)の乱の平定後に支配強化のためにおかれた屯倉の一つ「春日部屯倉(かすがべのみやけ)」に由来するといわれています。
 花岡山は加藤清正公が熊本城築城の折、必要な石をこの山から切り出したといわれ、頂上には、清正公ゆかりの「腰掛石」が残されています。また、札幌、横浜と並ぶ日本キリスト教の3源流の一つ、「熊本バンド」ゆかりの地で「熊本バンド・奉教の碑」が建てられています。頂上にはインドから寄贈されたお釈迦様の骨である仏舎利を納めた仏舎利塔もあり、夜景や桜の名所ともなっています。

 明治7年(1874年)に春日村、久末村、阿弥陀寺村が合併し春日村となり、明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に春日村として発足、明治39年(1906年)4月1日町制に移行しました。

【交通】

 校区の東側を南北に九州新幹線・JR鹿児島本線が通っており、熊本市の陸の玄関熊本駅を擁しています。
 また、東・南側に県道28号線(熊本高森線)が通っています。この県道内を南北に熊本市電が通っています。

  

【産業】

 熊本駅や行政施設である森都心プラザ、合同庁舎が立地することから、飲食業、宿泊施設、金融機関などの第三次産業の割合が高い地域となっています。


【都市計画】

 熊本駅周辺地域は平成17年に熊本県と熊本市が締結した「熊本駅周辺地域整備基本計画」に基づき鹿児島本線の鉄道高架化や熊本駅西土地区画整理、熊本駅東A地区再開発(森都心プラザ)、合同庁舎の移転、都市計画道路整備など、現在も陸の玄関にふさわしい地域となるよう整備を進めています。

 

「熊本駅周辺地域整備基本計画」はこちら

https://www.city.kumamoto.jp/hpKiji/pub/detail.aspx?c_id=5&id=4219&class_set_id=3&class_id=666

 

【熊本市との合併】

 大正10年6月1日 春日町(当時人口 5,758人)を編入

 

 【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で7,364人。高齢化率は26.0%で、西区平均31.3%を5.3ポイント、熊本市平均27.1%を1.1ポイント下回っています。

 
(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口) 

区分

構成比

合計

総数

100%

7,364人

3,427人

3,937人

0~14歳

12.7%

937人

480人

457人

15~64歳

61.2%

4,509人

2,178人

2,331人

65歳以上

26.0%

1,918人

769人

1,149人

 

【面積】
 1.68平方キロメートル     (西区 16校区地区中 14番目の広さ) 

まちづくり活動の状況

 熊本駅周辺の再開発事業に伴い、春日校区、古町校区、白坪校区と連携したまちづくり事業を展開中。
 地元小学生を対象に、毎月1回「民謡おてもやん」他の歌、三味線・太鼓の練習などが行われており、夏祭りや各種行事等で披露されています。
 地域有志により結成した「春日人おてもやん」により、熊本駅を利用する観光客等への案内も実施されています。

 
 

各種施設

【駅及び公共施設等】

 

  JR熊本駅       在来線 電話 096-352-0212

             新幹線 電話 096-354-8200

 
 熊本駅総合観光案内所       電話 096-352-3743
 くまもと森都心プラザ       電話 096-355-7400
 熊本地方合同庁舎         電話 096-211-9111 (代表)
 
 春日小学校 学級数 15  児童数 289人(令和5年5月現在)
 花陵中学校 学級数 16  児童数 412人(令和5年5月現在)
 

【主な公園】

 花岡山公園、春日五丁目公園、沖公園、春日万日屋敷公園

【幼稚園・保育園】

 春日保育園(市立)     電話 096-352-6953 
 誠櫻幼愛園         電話 096-353-2927 
 仁愛乳児園         電話 096-354-6515 

 

【警察・消防】

 南警察署熊本駅交番     電話 096-353-5987 
 南警察署西大橋交番     電話 096-324-6981 

 西消防署田崎出張所     電話 096-356-2263 

 

【金融機関等】

 肥後銀行熊本駅前支店      電話 096-352-4151

 九州ろうきん熊本駅前支店    電話 096-322-2440

 熊本第一信用金庫熊本駅前支店  電話 096-353-0521

 熊本第一信用金庫田崎支店    電話 096-326-2161

 熊本春日郵便局         電話 096-356-8437          

 くまもと森都心郵便局      電話 096-351-0993 

 

【病院・診療所】

 浦本医院          電話 096-352-2960
 立石内科          電話 096-322-6565
 春日クリニック       電話 096-351-7151

 島津クリニック       電話 096-354-1525

 くりあ診療所        電話 096-247-6363

 杉野クリニック       電話 096-352-8247

 永知医院          電話 096-353-5087

 はせがわクリニック     電話 096-322-7701

 アラキ整形外科       電話 096-326-8000

 

 森都心歯科クリニック     電話 096-356-8118

 熊本駅前矯正歯科クリニック  電話 096-342-4148

 たんご歯科医院        電話 096-322-6300

 前田歯科医院         電話 096-352-3663

 うちだ歯科医院        電話 096-355-4618 

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ花陵        電話 096-247-6030

 

 

自然・名所・旧跡等

【主な神社・仏閣】

1.北岡神社新しいウインドウで(外部リンク) 

 祇園宮とも称され、熊本市域において藤崎八旛宮と並ぶ由緒を持つ古社です。

 社伝によれば、承平4年(934年)、藤原保昌が肥後国司として下向のおり、鎮護のため京都の祇園社(八坂神社)の分霊を湯ノ原(現熊本市西区二本木)に勧請したのが創祀であるといわれています。
 佐々成政領国の頃に衰退し、加藤清正により復旧。のちの細川家代々の藩主より厚い崇敬を受けています。正保4年(1647年)、現在の北岡の社地に遷座されました。
 明治元年(1868年)、北岡宮と改め、さらに明治4年(1872年)に北岡神社と改称されました。
 また、明治10年(1877年)の西南戦争の際には、薩摩軍の本営が境内に置かれたこともありました。
 

 

【文化財等】

(市指定文化財 史跡)花崗山陸軍埋葬地 

 花岡山中腹の官祭招魂社の石祠の裏手高台にある陸軍墓地で、南側入口に「花崗山陸軍埋葬地」という石柱が立っています。
 そこから階段を登るとすぐ左手(墓域東南部)に将校の墓、その後(墓域西南部)に下士官の墓があり、北側は全部兵卒の墓があります。
 これらはいずれも明治9年10月24日の神風連の変の際の戦死者で、総数は116名に達します。
 将校では鎮台司令長官種田政明少将、高島茂徳中佐、大島邦彦中佐をはじめとし、尉官7、少尉試補4名の墓が並び、砲兵営の坂谷敬一少尉、歩兵営で奮戦した多羅尾少尉などの名も見えます。
 なお墓地の北東隅に鎮台創設期以来の死者136名の霊を慰める合葬碑も設けられています。
 
【水遺産等】新しいウインドウで(外部リンク)
 1.乳水(ちちみず)
 花岡山の中腹にある湧水で、岩肌より水がしみ出すように湧水しているのが確認できます。量はさほど多くありませんが、絶えず湧水していて下段には水が溜まっています。
 乳水について肥後国誌では、「古祇園 祇園平ニアリ。祇園社ノ旧址ナリ。僅ノ清水湧出ス。里俗嬰子ノ此乳味乏シキニ水ヲ乳母ニ飲シメ賽ニ醴(こざけ:甘酒)ヲ供シ其ノ応アリト云。」と記載される歴史ある湧水です。
 
 
 2.石塘(いしども)
 加藤清正は、城下町を洪水から守るため、春日付近で合流していた白川と坪井川を分離して、坪井川を高橋方面に向ける治水事業を行っています。
 この分流のため築いた堤が春日、二本木地区に残る「石塘」です。
 日本で最も古い分流工事の一つとされています。
 

 

  

観光スポット・特産品

【観光スポット】

【自然】

1.花岡山新しいウインドウで(外部リンク)

 熊本駅のすぐ北側に位置し、駅から徒歩20分程で気軽に登ることができる標高133mの小高い山です。
 熊本市街地を一望でき、夜景がきれいな展望スポットとして有名です。
 加藤清正公が熊本城を築城する際、花岡山から多くの石を切り出したといわれ、工事の指揮をした清正公が、休憩のとき兜を脱いで腰掛けたといわれる「兜石」や「腰掛石」が残されています。
 また、ここは札幌、横浜と並ぶ日本キリスト教(プロテスタント)の3源流の1つ、「熊本バンド」ゆかりの地でもあります。
 熊本洋学校教師であったジェーンズからキリスト教を学んだ徳富蘇峰や海老名弾正ら生徒約40人が、明治9年(1876年)、キリスト教信奉を誓ったのがこの花岡山で「熊本バンド・奉教之碑」が建てられています。
 花岡山は仏舎利塔があることでも有名です。1954年に建てられた白い仏塔には、インドのネール元首相から贈られた御仏舎利(お釈迦様の骨)と第二次世界大戦における県下の戦死者の御霊石を納めてあります。
 そのほか、春には桜が咲き花見の名所としても知られています。
 花岡山山頂から見る景色も、熊本駅周辺の再開発によって年々変わってきています。

 

2.万日山

 万日山は、標高138mで隣の花岡山(132m)よりわずかに高い山です。万日山のふもとには通潤橋を建設した布田保之助の墓、そこから山を少し登ったところには山の名前の由来となった万日塔、「活人形」が保存されている来迎院などの名所があります。
 山の中腹には万日山公園も整備されており、公園から山頂までは1kmほどあります。途中には展望ポイントもあり、ここからは正面に熊本駅やくまもと森都心プラザ、北には熊本城、東には遠くに阿蘇山を望むことができます。
 
 
 
 
 
3.森都心プラザ新しいウインドウで(外部リンク)
 熊本駅の白川口の正面に位置する森都心プラザは「熊本駅東A地区市街地再開発事業」として整備され、平成23年10月にオープンしました。
 県都の陸の玄関口である熊本駅前を魅力と活力を創出する起点とし、駅周辺の発展と熊本市全体の活性化に寄与することを目的としています。
 森都心プラザは2階から6階までの複合公共施設となっており、2階には、観光・郷土情報センターがあり、観光案内のほか、熊本の郷土菓子やくまモングッズなどを販売している「特産品市場」があります。
 3階~4階にあるプラザ図書館は、約15万冊の書籍を有し、図書の貸出しのほか、アート作品の展示や、読み聞かせなど、様々な催しを実施しています。また、学習室も併設し、持ち込みパソコンの無線LANも利用可能です。
 4階のビジネス支援センターでは、経営や創業に関する相談窓口を設け、様々なビジネスに役立つ講座も開催しています。PCコーナーでは、様々な商用データベースを無料で閲覧できます。また、同じ4階には託児室(有料)もあり、小さいお子さん連れの方でもプラザの各施設を利用できます。
 5階のプラザホールは、各種講演会や音楽会・演劇などの催し物ができる劇場形式のホール(座席数489席・移動観覧席)と、リハーサルなどに利用できる多目的室があります。
 6階には30~45人用の会議室が4室ありますので、会社の研修や講座を行うのに便利です。
森都心プラザは、「訪れる人の好奇心をくすぐる知の拠点」として多くの市民に利用されています。
 
 

4.活人形 聖観世音菩薩像

 「聖観世音菩薩像(しょうかんぜおんぼさつぞう)」は文政8年(1825年)、熊本の井手ノ口町、現在の熊本市中央区迎町に生まれた活人形師(いきにんぎょうし)・松本喜三郎(まつもときさぶろう)の作品です。
 来迎院に保存されており、高さは110cmで喜三郎の代表的な作品の一つです。
 活人形とは、歴史上の人物や当世人物を動作、表情の細部にまで再現した人形のことで、喜三郎がつくりあげた大衆文化です。
 江戸時代の終わりごろから明治時代の終わりごろまで、見世物として一世を風靡するほどの人気を博し、その評判は海外にまで及びました。
 スミソニアン自然史博物館にも喜三郎の作品が所蔵されているところからも、その人気をうかがうことができます。
 喜三郎は明治24年(1891年)、67歳で亡くなるまで数百体以上に及ぶ人形を造りあげましたが、来迎院の菩薩像をはじめ十数体しか現存していません。
 
5.熊本民謡 おてもやん
 この歌ができたのは明治時代で詞曲は熊本市中央区米屋町生まれの永田稲(イネ)です。
 おてもやんのモデルは現在の熊本駅近くに住んでいた小作農の娘、富永登茂(チモ)といわれています。
 永田イネはその類稀なる芸事の才能を活かして熊本駅開業後(明治24年)春日村に三味線、踊りなどの稽古場を設けました。チモも稽古に通い二人は仲の良い女友達でした。
 チモの天性の明るさがメロディーを形成し、歌詞はイネの人生観を表現しています。独特の熊本弁だからこそ面白く陽気で調子がよい歌になっています。
 第四回・第六回(昭和28・30年)の紅白歌合戦に赤坂小梅が出場し、唄ったことで全国的に知られるようになりました。
 
 昭和60年(1985年)に熊本民踊会の創立25周年を記念して、同会から熊本市に寄贈された「おてもやん像」ですが、桜町再開発事業に伴い県民百貨店前から熊本駅新幹線口に平成27年8月に移設されました。
今では熊本駅での記念撮影のスポットになっています。
 
7.春日人おてもやん
 地域住民のボランティアにより、熊本駅を利用する観光客の旅先案内人として「春日人おてもやん」が結成されています。
おもてなしの心により、熊本のイメージアップに大きく貢献していただいています。
 
 
 
 【イベント】

1.大凧揚げ大会

 毎年3月、熊本駅周辺の賑わい創出に向けて、春日校区まちづくり委員会主催による大凧揚げ大会が白川の河川敷で開催されています。地域の皆さんで製作された40畳、50畳、80畳の大凧が揚がるのは壮観です。
  

2.春日ぼうぶらまつり

 春日ぼうぶらは肥後野菜の一つでぼうぶらはかぼちゃのことです。
 明治時代、熊本駅ができたころの春日一帯はぼうぶら畑が多くあったそうです。
 ぼうぶらまつりは毎年8月に校区の祭りとして開催されています。

城西

概 況

【地勢】

 校区東側には荒尾山、三淵山、石神山など金峰山系の山々があり、東端の鎌研坂を源流とする麹川が校区中央部を流れ、西側を南北に流れる井芹川に注いでいます。

【歴史】

 江戸時代には城下町にほど近いことから、麹川沿いの景勝地はお茶屋など別荘地として利用されていました。
 その頃に造られた釣耕園(ちょうこうえん)、叢桂園(そうけいえん)、百梅園などの庭園のほか、長命水、延命水などの水遺産も多くあり、自然環境に恵まれた住宅地です。
 都心部に近い校区西側はマンションなどの集合住宅が多く見られます。
 かつて石神山では角閃石安山岩である「島崎石」が産出され、九州一の建築石材として全国的にも有名でした。
 現在は石神山公園として市民の憩いの場となっています。

【交通】

 校区の南東部を西回りバイパス(都市計画道路野口清水線)が通っています。

 

【産業】

 島崎本通り沿いにはスーパーマーケットや小売店などの商業施設が立地しています。

 

【熊本市との合併】

 大正10年6月1日 島崎村(当時人口 2,422人)、横手村(同4,383人)を編入

 

 【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で11,702人。高齢化率は33.1%で、西区平均31.3%を1.8ポイント、熊本市平均27.1%を6.0ポイント上回っています。

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数

100%

11,702人 5,342人 6,360人

0~14歳

11.9%

1,392人697人 695人

15~64歳

55.0%

6,433人 3,109人 3,324人

65歳以上

33.1%

3,877人 1,536人 2,341人

 

        

【面積】
 4.95平方キロメートル  (西区 16校区地区中 7番目の広さ) 

まちづくり活動の状況

校区自治協や自主防災クラブを中心とした、安全・安心のまちづくりやまちづくり委員会を中心とした、校区の自然や史跡を生かしたまちづくりに積極的に取り組まれています。

健康まちづくり活動の目指す姿

深い歴史ときれいな水が澄みわたり世代を超えた温かなあいさつが飛び交う街

各種施設

【公共施設等】

 城西地域コミュニティセンター 電話 096-328-8828

 三賢堂                       電話 096-328-2039 熊本市文化振興課

 熊本市立千原台高等学校    電話 096-355-7261

 熊本県立熊本かがやきの森支援学校   電話 096-319-2000

  

 城西小学校 学級数 25  児童数 654人(令和5年5月現在)
 西山中学校 学級数 18  生徒数 503人(令和5年5月現在)

  

【主な公園】

 島崎二丁目公園、横手四丁目四方池公園、古荘公園、石神山公園、本妙寺公園、三賢堂公園、叢桂園ほか

【幼稚園・保育園】

 熊本聖母愛児幼稚園      電話 096-353-2638
 暁幼稚園           電話 096-356-6622
 白羊保育園          電話 096-352-9540

 

【警察・消防】

 南警察署 島崎交番      電話 096-356-7250
 西消防署 島崎出張所     電話 096-356-4197

  

【金融機関等】

 肥後銀行 島崎支店      電話 096-322-1510

 肥後銀行 横手支店      電話 096-352-5100

 熊本島崎郵便局        電話 096-356-8458

 

【病院・診療所】

 医療法人 金澤会 青磁野リハビリテーション病院   電話 096-354-1731
 医療法人 聖粒会 慈恵病院  電話 096-355-6131
 島崎井上クリニック      電話 096-322-8333

 

 【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ井芹        電話 096-311-5311 

 

自然・名所・旧跡等

【自然】
1.石神山
 校区東側に位置するこの山は、荒尾山、三淵山とともに金峰山の外輪山の一部を形成しています。
山の裾野には公園も整備され、バーべキュー(要申込・有料)やドッグラン(要登録)などの設備も充実しています。
 また、標高125mの中腹には遊歩道が整備されており、山頂の展望所は市内を一望できるスポットとなっています。
 このほか、島崎地区には釣耕園・叢桂園・三賢堂などの歴史的名所旧跡もたくさんあり、周辺の散策もお勧めです。
 
2.荒尾山・三淵山(みぶちやま)
 標高は荒尾山が445m、三淵山(みぶちやま)が285mです。
 ともに石神山の西側に位置する金峰山の外輪山です。
 外輪山は安山岩質溶岩が主で以前は荒尾山、三淵山、石神山などで採石が行われ、石塔材や建築材として利用されていました。
 三淵山の8合目付近には石切場跡があり、切り出した大きな石が今もそのまま残っています。
 荒尾山、三淵山とも登山道はなく山頂までは登ることはできませんが、2つの山の間には、漱石も歩いたであろう鎌研坂が峠の茶屋へと続いており、当時を偲ばせます。
 
3.千原桜(ちはらざくら)
 「千原桜」は、ヤマザクラの変種で一般的なソメイヨシノより1週間ほど遅れて開花します。この桜は、西区島崎の千原台に原木があったことからこの名前が付いています。
 原木は、大正14年(1925)に道路拡張のため伐採されてしまいましたが、千原桜の名前の由来となったことで、城西小学校の正門横に標木と「千原桜原木の跡地」の石碑が建てられています。
 千原桜は、ソメイヨシノより花弁が大きく純白で、一枝に一重と八重が咲くのが特徴です。
 熊本市内では保存会の皆さんの努力で城西小学校や千原台高校・島崎二丁目公園や熊本城などで見られます。
 1.長命水
 その昔、茶の湯に重宝された名水とされ、明治の中ごろまではこの水を樽に入れて市街地に売りに行く人もいたそうです。
 現在ほとんど湧水はありませんが、地域の人が美しく維持されています。
 肥後國誌が長命の水と伝える歴史ある水場です。  
 
2.延命水
 釣耕園や叢桂園の水口が延命水です。
 共同の水場で石段があり、地域の人たちが野菜などを洗う姿を見ることができます。
 生活の結びつきが強い湧水です。  
 
3.少年の家跡
 少年の家は以前、貴族院委員・古荘健次郎氏の別荘で、昭和17年に市に青少年健全育成のための施設として寄贈されました。
 敷地内には湧水を生かした清楚な庭園がありました。
 
4.小山田の井川(おやまだのいがわ)
 小山田川に隣接した湧水井戸で、地元では井川(イガワ)さんと呼んでいます。水道が敷設されるまでは、この地域の貴重な水源でした。
 金峰山、本妙寺の登り口に位置し、登山者、参拝者たちはこの井戸で喉を潤し、水筒に入れて登っていったといわれています。
 深さは3m程度の井戸は、いつのまにか埋まってしまいましたが、近年地域の方々が、土砂等を取り除き、元の形に戻され、美化清掃に取り組まれています。
 
 
5.四方池の池(よもちのいけ)
 四方池の池は、かつて生活用水に利用されていた地域共同の水場です。
 湧出した清水が2坪ほどの池をつくっています。湧出口の近くには井戸もあります。
 地域では、災害時の生活用水として利用できるよう、毎年、池を浚い清掃し保全に努めておられます。
 池周辺には、お堂や放牛の石仏(38体目)があり、地域の貴重な水源であったことを物語っています。 
 
6.産女水(うぐめのみず)
 花岡山北麓の崖下の窪みに湧き、井戸のようにも見える湧水地です。
 名前の由来は、江戸時代、この付近の浪人の家に女の子が生まれた時、この水を産湯に使ったからといわれています。
 横手五郎の産湯に使ったからとの話もあります。
 かつて共同の水場で、人々が集う所であったことを物語るように、傍らに放牛の石仏(73体目)があります。
 
7.横手の井芹川旧河川
 井芹川は、かつては本妙寺附近を蛇行し、熊本城の西側、森本櫓の下から段山を廻り横手を経て坪井川に合流しており、特に段山附近から横手までの流域を祓川(しめかわ)と呼んでいました。
 現在、横手の鐘ヶ淵後附近にその面影がみられ、当地には雨乞い伝説も残っています。附近は、加藤清正と縁が深いお寺が多く、高麗門外で城下町並みの扱いを受けたといわれています。
 
8.三賢堂(さんけんどう)
 三賢堂には石神山の湧水を泉水とした庭園があります。
 三賢堂は明治時代の政治家で内務大臣などを務めた安達謙蔵の遺言により昭和24年に熊本市に寄贈されました。
 安達謙蔵が市民の精神修養の場として昭和11年に建てたもので、円形2階建て鉄筋コンクリート造りのモダンな建物です。
 内部は広くロビーのようになっており、奥には菊池武時、加藤清正、細川重賢の坐像が置かれています。肥後三賢人が見守る、静寂な佇まいの湧水庭園です。  
 
9.釣耕園(ちょうこうえん)
 細川家3代藩主綱利公がここに御茶屋を造ったことが始まりで、米田松洞が庭の景観を「釣月耕雲」と詠んだことが名の由来です。
 庭園は飛び石を配した広い池に山渓を取り入れて中心に置き、南側の崖には九重から持ってきたというシャクナゲの群落があります。  
 
【主な神社・仏閣】
1.岳林寺(がくりんじ)
 岳林寺は、曹洞宗の寺として天平宝字年間(757年~764年)に建立されました。明治30年(1897年)の大晦日、文豪・夏目漱石が、ここから天水町にある小天(おあま)温泉まで歩いたというエピソードが残っています。
 また、敷地内には、天正年間(1573年~92年)の城主・城親賢(じょうちかまさ)公の墓があり、「くまもと春の植木市」は城親賢が命じて始まったといわれています。
 植木市が始まる前の1月20日前後には岳林寺で墓前祭が行われます。
  

【文化財等】

(県指定文化財 美術工芸品) 紙本著色宮本武蔵像(島田美術館蔵)

 本画像は、「寺尾家伝来」で「武蔵自画像」との伝承を持ち、現在まで確認されている武蔵像の中で最も古くかつ優れていて、多くの武蔵画像の手本となっています。
 落款・印章、賛文など客観的な情報には欠けていますが、補筆はほとんど認められず、目の黒目部分が薄くなっていて瞳の部分にのみわずかに補筆してあり、異様にきつい目つきになっているようにみえる程度です。
 肖像画で最も重要視される面貌描写は着実で、的確な朱墨による肉身線と軽い暈かしとが相俟って適度な立体感を表出し、頭髪・眉毛・ひげも細墨線に薄墨を掃いて写実的です。
 唇は伝統的に外側を濃く暈かしをつけ、両端を墨で引き締めています。
 着衣の輪郭線や衣紋線には、特徴的な打ち込みとしなやかさがみられ、両袖口にも特徴があります。
 このような様式的特徴から江戸時代前期、狩野派正系の画人による作とみています。武蔵が向かって左向きに描かれていることからみて、武蔵没(1645年)後に描かれた可能性が高く、十七世紀後半と考えられています。

 

 

(市指定文化財 史跡) 釣耕園(ちょうこうえん)

 島崎は金峰山東麓の幽邃の地、湧水に恵まれた山渓の美を鑑賞でき、しかも城下からの距離も程遠くないため、詩文を楽しむ藩士達の清遊の地でした。
 細川家3代の藩主綱利もこの地にお茶屋を設けましたが、ある時ここに続弾右衛門を伴い、お茶屋とその周辺の土地を杖で指し示して弾右衛門に与えました。
 以来、続家ではこのお茶屋を「お杖先」と呼んで大切にし
てきました。弾右衛門の子在衛門のとき、米田波門がこの地に遊び、その景観を「釣月耕雲」と詩に詠じたことから、「釣耕園」と名づけられました。
 庭園は飛石を配した広い池に山渓を取り入れて中心に置き、南側の崖にはしゃくなげの群落があります。
 
 
(市指定文化財 史跡) 叢桂園(そうけいえん)
 釣耕園の下手にある叢桂園は藩の医学校再春館の師役村井家の別荘で見朴の子椿寿(琴山)が作庭したと伝えられています。
 庭には釣耕園の水を引いて曲水をつくり、その下手には中国の洞庭湖に模した池が設けてあります。
 簡素な茶室がその北にあり、西側の小窓を開けば荒尾山がその枠内に入って、一幅の絵となるつくりでした。園の入口の石には「来者不拒 去者不追」の文字が刻まれ、曲水の南は百日紅と楓の林で樹下は緑の毛氈を敷いたような苔庭となり、石の碁盤や腰掛も配置されています。
 かつて頼山陽が訪れたとき、椿寿は庭の造成中で、山陽は百日紅の植替や庭石の配置を終日手伝わされたと伝えられています。
 
(市指定文化財 史跡) 百梅園跡
 この百梅園の地も、はじめ細川藩の家老米田助右衛門の弟米田松洞の別荘として設けられました。
 松洞は別禄2000俵、中老職を勤め、詩人としても名高く、江戸で「四時園集」という詩集を刊行しました。天明元年(1781年)に隠居してこの地に移り、避竹園と名づけて、寛政9年(1797年)に亡くなるまで詩作にふけっていました。
 後に此の地は兼坂氏の所有となり、兼坂止水が明治3年家禄を奉還して帰農したときこの地を本拠とし、翌4年私塾衆星堂を開き、さらに蔵春堂を設けました。
 普通これを兼坂塾と呼んでいます。止水は此の地に茶や梅を多く植栽して百梅園と名づけました。
 

   

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.西の武蔵塚新しいウインドウで(外部リンク)

 宮本武蔵の弟子、寺尾信行一族の墓所で、自然石に武蔵の名である「玄信居士」という文字が刻まれています。
 寺尾信行の兄寺尾孫之丞(まごのじょう)は、武蔵から「五輪書」を相伝されました。
 龍田の武蔵塚には太刀だけを埋め、遺体は寺尾家の墓地に葬られたという説があり、西の武蔵塚と呼ばれています。
 平成27年5月19日(武蔵371回忌)に城西校区まちづくり委員会主催による第1回の墓前際が行われました。
 

 

 

2.島田美術館新しいウインドウで(外部リンク)

 熊本の武人文化に関する歴史資料や古美術品を収蔵している美術館。特に宮本武蔵ゆかりの武具・遺品、書画などを展示する常設展示が充実していることで知られています。

 年数回、企画展も開催されます。緑に囲まれた静かな雰囲気で、ギャラリーとカフェが併設されています。
 TEL 096-352-4597

 3.草枕の道
 明治30年(1897年)の暮、漱石は友人の山川信次郎とこの道を通り、小天の前田家別邸まで歩いて行き、離れに数日間、宿泊しています。
 城西校区の「岳林寺」から「鎌研坂」、芳野校区の「鳥越峠の茶屋」、「石畳の道」、「野出峠の茶屋」を通り、天水町の「前田家別邸」までの道16kmを「草枕の道」として、熊本市と玉名市で案内板や標識などの整備をしています。
 市民のみならず観光客にもハイキングコースとして親しまれています。
 

5.鎌研坂
 漱石の小説「草枕」の冒頭に「山路を登りながら、こう考えた」という一文がありますが、その山道が鎌研坂といわれています。
 岳林寺から鳥越峠の茶屋の間にあり、当時の面影をそのまま残す、急坂です。
 
6.三賢堂新しいウインドウで(外部リンク) 文化振興課 TEL096-328-2039 ※堂内見学は、事前に連絡が必要です。
7.釣耕園新しいウインドウで(外部リンク) 入園料:無料 駐車場:あり(無料)
8.百梅園新しいウインドウで(外部リンク) 入園料:無料 駐車場:あり(無料)
 

 

 

花園

概 況

【地勢】

 西区の北東部、熊本城の北西部に位置し、校区内を南北に井芹川が流れ、校区の西側は金峰山系の山裾で、起伏に富む地形となっています。
 清らかな湧き水に恵まれた柿原地区では、初夏にゲンジボタルの乱舞が見らるなど自然が豊かな校区です。

 

歴史】

 明治のころ、校区の高台は梅や桃の果樹園が多く、春先に熊本城方面から望むと、まるで花園のようにみえたことから、花園村と呼ばれるようになったといわれています。
 熊本城を築城した加藤清正公が眠る浄池廟およびその菩提寺であり日蓮宗九州総本山でもある本妙寺があります。

 明治7年(1874年)牧崎村、中尾村、井芹村、柿原村が合併し花園村となり、明治22年(1889年)4月1日町村制施行時も花園村として発足しました。

 

【交通】

 校区の東側を南北にJR鹿児島本線が通っています。新幹線建設工事に合わせて高架化されたことから、市中心部への交通アクセスが大きく改善されました。
 現在、熊本西環状道路及び花園インター線並びにJR上熊本駅西側の都市計画道路の整備が急ピッチで進んでいます。

 

 

【産業】

 本妙寺通り沿線には商店街が形成されています。

 

【熊本市との合併】

 大正10年6月1日 花園村(当時人口 3,646人)を編入

 

【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で9,806人。高齢化率は35.8%で西区平均31.3%を4.5ポイント、熊本市平均27.1%を8.7ポイント上回っています。

  

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数

100%

9,806人 4,592人 5,214人

0~14歳

10.0%

977人 471人 506人

15~64歳

54.2%

5,317人 2,624人 2,693人

65歳以上

35.8%

3,512人 1,497人 2,015人

 

         

【面積】
 5.27平方キロメートル(西区 16校区地区中 5番目の広さ)

 

まちづくり活動の状況

 本妙寺桜灯籠や寺フェスなど積極的な地域活動が展開されています。

 西環状道路花園インターの建設をきっかけに、柿原地域の自然を生かした仮称「日溜りの里」などの構想もあり、都市に近接した里山の魅力づくりも検討されています。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

 健康への意識を高め、ゆとりをもち、地域に見守られる安心感を得ながら、心も体も元気な暮らしを維持できる。

 

各種施設

【公共施設等】

   花園まちづくりセンター        電話 096-359-1122
   花園交流室(花園公民館)       電話 096-359-1261
   花園地域コミュニティセンター     電話 096-323-0211
   職業訓練センター           電話 096-325-6947

   花園高齢者生きがい作業所       電話 096-351-6470 

 

 花園小学校 学級数 16  児童数 404人(令和5年5月現在)
 井芹中学校 学級数 11  生徒数 271人(令和5年5月現在)

  

【主な公園】

 柿原公園、本妙寺公園、本妙寺山緑地公園、小萩山公園、花園閑久女公園
 

【幼稚園・保育園】

 えい光保育園     電話 096-353-5815
 つくし保育園     電話 096-356-6766
 本妙寺保育園     電話 096-354-4222

 

 【警察・消防】

 北警察署上熊本交番  電話 096-324-6984
 西消防署島崎出張所  電話 096-356-4197

 

【金融機関等】

 本妙寺郵便局     電話 096-356-8443

 花園簡易郵便局    電話 096-354-9828

 

【病院・診療所】

 いなだ眼科      電話 096-311-2830
 花園内科クリニック  電話 096-325-0800
 稲葉内科医院     電話 096-352-3427

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ井芹    電話 096-311-5311 

 

自然・名所・旧跡等

【水遺産等】外部リンク新しいウインドウで

1.お手水 

 成道寺から500mほど下ったお手水の森に入り、池の間を奥に進むと、崖を伝い細い幾条もの清水が流れ落ちています。

 神武天皇の皇孫・健磐龍命(たけいわたつのみこと)が手水に使ったことに由来しています。
 加藤清正や細川家3代藩主綱利も使用した伝承をもつ湧水です。
 水量が豊富で養鱒などに利用されています。
 
2.鳴岩の湧水
 鳴岩は高さが優に10mはある高い岩塊で、『肥後國誌』が「岩の中から水流の音がする」と名の由来を伝えています。
 岩の割れ目から湧水しており、パイプで引かれた水を汲みに多くの人が訪れています。
 
3.前川の井川端
 地域の人が「イガワさん」と呼ぶ水場です。水道が普及して今日では生活に利用されていませんが、昔は炊事や洗濯に使われていました。
 ご近所の方から「寒い日でも湧水だから温かかった」と昔を懐かしむ声も聞かれ、今でもきれいに保たれています。 

 

 
4. 天福寺
 延宝6年(1678年)に肥後藩主細川綱利の発願により開山された寺で、細川家歴代の祈願所として知られています。
 金峰山の湧水が引かれ、参拝者は境内の手水として触れることができます。
 
5.成道寺
 応永33年(1426年)に建立された臨済宗南禅寺派の寺で、細川家家老、沢村大学の菩提寺。

 木々に囲まれた境内には、熊本県の熊本名水100選にも選ばれた美しい水が湧き出しています。
 夏目漱石をはじめとする多くの文人が訪れ、秋には美しい紅葉を目にすることができます。

 
6.成道寺川流域の水域生態系
 成道寺川は、井芹川の支流の一つで、花園柿原の成道寺やお手水などの湧水を水源とし、童謡「春の小川」を彷彿とさせる川です。
 非常に短い川ですが、川岸などがコンクリートで整備されていないため、絶滅危惧種の野生希少動植物が数多く生息し、市内の川では稀な水域生態系を有しています。
 NPO法人コボックル・プロジェクトが、この流域を対象に自然観察会や調査を行うなど環境保護活動を行っています。

 

  

【主な神社・仏閣】

 本妙寺新しいウインドウで(外部リンク)

 開創から約400年の歴史がある日蓮宗の名刹です。
 天正13年(1585年)に、清正が父・清忠の菩提寺として、大坂に建立したものを肥後入国後に熊本城内に移し、清正の逝去後の慶長19年(1614年)火災で焼失した本妙寺を浄池廟下の現在地に移転しました。
 その後、明治時代の神仏分離令によって浄池廟と本妙寺は神社と寺として分けられ、明治4年(1871年)に社殿だけが熊本城内に移され加藤神社となりました。
 大本堂までの参道は、両側に塔頭(たっちゅう)と桜の木が並び、春には桜灯篭(はなとうろう)まつりが行われ多くの見物客が訪れます。
 大本堂から浄池廟までの急勾配の石段は胸突雁木(むなつきがんぎ)と呼ばれ、その石段を登りきった中門の正面に拝殿があり、拝殿の裏には本殿があります。
 拝殿の右側には清正公の遺品や加藤・細川家に関する国の重要文化財が収蔵、展示されている宝物館、さらに浄池廟の奥に300段の石段があり、登ると長烏帽子姿の清正像が立っています。
 ここからは熊本市内が一望できるほか、石段を登ることで体力作りにも役立つことから、部活動のランニングコースや、近所の方々の散歩コースとして利用されています。
 清正公の命日である7月24日の前夜には、本妙寺第三代高麗日遥上人(こうらい にちよう しょうにん)が清正公の一周忌に法華経を一夜で写経し、追善供養したことが起源とされる頓写会(とんしゃえ)が行われます。頓写会では、僧侶や信者が写経した法華経が奉納され、たくさんの露店も並び多くの参拝客で賑わいます。

 

 

【文化財等】

<国指定文化財 工芸品> 短刀 銘光世(めい みつよ)(本妙寺蔵)

 鎌倉時代中期の刀工で、筑後国三池の住人として知られた三池典太光世の作品、光世の銘が刻まれており、とくに貴重なものです。

 平づくりの分厚な短刀で、地金のよくつんだ板目、直刃でところどころ二重になっています。
 鋩子(ぼうし)は小丸、表裏に幅の広い棒樋(ぼうび)があり、拵えは蝋色鞘(ろうしょくさや)に鮫皮の柄を配し、銀金具で飾っており、付属品としては鶴の浮彫のある小柄がついています。
 肥後8代藩主細川斉茲(なりしげ)公が差料(自分が腰に差すための刀)として使用していましたが、のち本妙寺に寄進されたもので、寄進状がそえられています。
  

<国指定文化財 工芸品> 蒔絵調度類(本妙寺蔵)

 加藤清正の菩提寺である本妙寺に清正所用のものとして伝えられている蒔絵の大名調度類。
 その内、桐、桔梗、折墨紋を散らした調度類7点は、寺伝及び細川家の家譜である『綿考輯録』等によると、元は豊臣秀吉の家臣尾藤知宣が所有していたもので、九州征伐の時の過失により尾藤知宣が失脚した後、清正に下されたとされています。
 また、菊、桐紋を配した調度類3点は、秀吉からの拝領品と伝えられています。
 その他の蒔絵調度類は、黒漆地に桐、桔梗、折墨といった家紋を散らした椀、膳などの食器類と、梨子地に菊、桐紋を配した懸盤、盃台や香箱などです。
 いずれも桃山時代における漆工技法を駆使した優品であり、椀、膳類における蒔絵を施した早期の遺例を含む一群として、また、近世初期において大名調度の格式が成立する以前の調度類の様相を知ることができる資料として大変貴重です。


<国指定文化財 書跡> 紙本墨書日本紀竟宴和歌(上・下)(本妙寺蔵)

 日本紀竟宴和歌とは、宮中で日本書紀の進講が終了したとき宴会が開かれ、その時に参加した人々が詠進した和歌で、日本書紀の中の神名や人物を題として歌がつくられています。

 本妙寺所蔵のものは巻子装で表紙は薄縹色です。
 上巻の巻首に養老5年(721年)より承平6年(936年)に至る6度の進講例を示し、上・下巻にわたって元慶6年2首と延喜6年40首、天慶6年41首の詠歌が収められています。
 筆者は鎌倉時代の能書家宗尊親王であす。本書は加藤清正遺愛の歌集であると伝承し、藩主細川家の御用以外は門外不出とされてきました。

 

<国登録有形文化財> 本妙寺仁王門
 熊本城の北西にある本妙寺の総門で、仁王門又は山門と呼ばれています。 
 仁王門は、小倉市の小林徳一郎氏の寄贈により建設された大正9年3月21日竣工のRC造りです。
 当時、RC造の建築物はまだ少なく、河川に架けられている橋などの多くはRC造ですが、普及したのはレンガ造や石造に大被害があった関東大震災以降といわれています。
 熊本県内に残るRC造では大正3年の黒川発電所の建屋、大正8年の旧第一銀行(レンガとの混構造)等がありますが、大正9年より古いものは現在ではほとんど残っていないため貴重な建物といえます。
 鉄筋コンクリート造りの三間三戸八脚門で間口13m、前後に軒唐破風を付設し、直径74cmもの円柱が並び立っています。
 両脇後間の上部に 仁王像、中央間の境にライオンの阿牛像が飾られています。
 正面には久邇宮邦彦(くによし)殿下の染筆の「発星山」の扁額が架かっています。この額は時代を反映した自由な発想が見られます。 

 

<市指定文化財 史跡> 天福寺裏山古墳群
 天福寺裏山の標高100m程の地点にあります。
 東から1号墳・2号墳・3号墳と呼び、3基とも横穴式石室を有する円墳で、早くから開口していました。
 古来この古墳を「鬼穴」とか「バクチ穴」とか称しています。
 1号墳は羨道の長さ1.80m、石室の奥行き2.16m、横幅1.76m、2号墳の羨道部は破壊されており、石室の奥行き2.5m、幅1.65mです。
 3号墳は古来隠れ場所として利用され、羨道の蓋石には「明治十年」の落書が刻まれています。羨道部の長さ1.51m、石室奥行き2.42m、幅2.1mで3墳ともに古墳時代後期の巨石墳です。
 なお、この古墳群の下に細川家の祈祷所と伝えるところがあり、ここに豪潮の宝篋印塔が建てられていましたが、現在では尾ノ上4丁目に移されています。この塔は昭和46年8月11日、内蔵する銘文2枚と共にこの古墳群の付として指定されました。

 

<市指定文化財 建造物> 成道寺六地蔵塔

 六地蔵塔(ろくじぞうとう)は、主に戦国時代に造られた石塔で、側面に6体の地蔵像が彫られていることからその名が付けられています。
 仏教では、人生は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のいずれかの境遇で悩み苦しみ、その救済を求めるとされています。
 そこでこの六道のそれぞれに救済の手を伸ばしてくれる仏として、6体の地蔵を祀る風習が中世からはじまりました。
 供養塔として街道に面して建てられた例が多く、九州に分布が集中しています。

 

<永享四年銘>
 元々は上熊本方面から柿原に入る平小路橋のそばの崖下にありましたが、昭和47年に成道寺境内に移されています。
 塔身の上部には突出しがあり、中台と龕部(がんぶ:仏像を納めるための窪み)は中空でその突出しにはめ込むようになっています。

 但し龕部は磨滅が甚しく、特に中央部が細くくびれていて六地蔵の姿などは全く残っていません。

「肥後国古塔調査録」には、塔身に「永享四年壬子十一月□□□」(1432年)と刻まれている旨の記載がありますが、今はそれもほとんど失われ、僅かに「十一月」だけが何とか判読できます。
   
<延徳四年銘>
 これも、もとは参道の外の今の駐車場にありましたが、昭和47年に寺内に取り込まれました。全体の高さは約300cmで、塔身は高さ153cm、六角形の一辺は43~45cmで、永享の六地蔵に比べて塔身の高さが縮み幅がふくらんでいます。

 中台は2段になっていて高さ38cm、龕部は高さ56cmで、龕部の六地蔵もよく残っています。
 製作は延徳4年(1492年)で、成道寺の木谷叟の銘があります。

 

<市指定文化財 建造物> 成道寺五輪塔 

 成道寺の庭園、囲いの塀の内側にある高さ220cmの大五輪塔です。

 凝灰岩製で、台石には「天文五白 丙申三月十八日」(1536年)「久布白対馬守 妙佶」の銘があります。

 成道寺には久布白対馬守の位牌があり、同じ年月日卒とあります。また、天福寺東の「ネコン塔」にも久布白対馬守の名があります。

 
<市指定文化財 建造物> 成道寺板碑群
 六地蔵塔の傍らに4基の板碑があります。
 安山岩製で、一番東のものは笠石をのせ、正面中央に地蔵像を刻み、享禄3年(1530年)の紀年銘をもち、成道寺の包仲をはじめ多くの奉讃者名が刻まれています。
 残り3面は南を向いており、東側の2つは地蔵像を彫り、天文7年(1538年)と文正元年(1466年)の銘を持っています。
 西側の1つは昭和47年駐車場から移されたもので、観音の種子を彫り、大永6年(1526年)の紀年銘があります。 

 

 

観光スポット・特産品

【観光スポット・イベント】

1.本妙寺新しいウインドウで(外部リンク)

 

2.本妙寺桜灯篭(はなとうろう)新しいウインドウで(外部リンク)

 本妙寺桜灯籠は、加藤清正の菩提寺でもある本妙寺を舞台として、地域住民と崇城大学の協力によりはじまりました。

 参道には住民手作りの数千個の和紙灯籠、満開の夜桜、参道の各寺院からは様々な幽玄の調べが聞えてきます。
 毎年一夜限り。夢のような一刻(ひととき)を味わえます。
 

3.お手水の森(旧 柿原養鱒場)新しいウインドウで(外部リンク)

 成道寺から500mほど下ったお手水の森に入り、池の間を奥に進むと、崖を伝い細い幾条もの清水が流れ落ちています。

 昔、神武天皇の皇孫・健磐龍命が火の国巡狩の際、ここで手水を使ったことが名の由来といわれています。

 加藤清正も築城のとき、たびたび早駆けでやってきては、のどを潤したといわれています。

 養鱒場の敷地内には、昭和37年(1962年)にお手水の湧水を利用してつくられた水面総面積3000平方メートルの大小の池があり、ニジマスが泳いでいます。


お手水の森 電話 096-352-9606

  

【特産品】

☆桃

 花園・島崎地区を中心にハウスや露地で桃が栽培されています。桃は花園の地名の由来ともなっており、満開の頃のこの地区は、まるで桃源郷のようです。
 ハウス桃は5月の中旬から出荷が始まり、露地桃は6月上旬から出荷が始まります。桃は、デリケートで日持ちがあまりしないため、早朝に収穫し、その日のうちに出荷されています。

 


 

池田

概 況

【地勢】

 池田校区は西区の北東部に位置しており、校区の東側は丘陵地帯(京町台地)で住宅街が形成されています。

【歴史】

 江戸時代には飽田郡池田手永(手永=細川藩の行政区の呼び名)に属し、会所(役所)が置かれています。

 明治7年(1874年)に7村が合併し、池田村となりました。

【交通】

 南北に旧国道3号線が通り、西側は井芹川が流れ南北にJR鹿児島本線・九州新幹線、県道熊本田原坂線(旧熊本鈴麦線)が通っています。
校区内にはJRの上熊本駅及び崇城大学前駅の2駅があります。
 JR上熊本駅には熊本電鉄(上熊本駅)及び熊本市電(上熊本駅前電停)が結節しており、交通の要衝となっています。

  

【産業】

 井芹川左岸の低地では稲作も見られますが、その他の地域には住宅地が広がっています。上熊本駅周辺には熊本製粉(株)や金剛(株)などの工場が立地し、旧国道3号線や県道熊本田原坂線沿線には飲食店やコンビニなどの商業施設が立地しています。

 また、西区内唯一の大学として崇城大学があります。

 このように上熊本駅周辺は公共交通機関や商業施設、医療機関などが充実していることから、熊本市の15の地域拠点の一つとなっています。

 

【熊本市との合併】

 大正10年6月1日 池田村(当時人口 2,429人)を編入

 

 【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で13,292人。高齢化率は28.7%と西区平均31.3%を2.6ポイント下回っているものの、熊本市平均27.1%を1.6ポイント上回っています。

  

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数

100%

13,292人 6,369人 6,923人

0~14歳

11.2%

1,489人 782人 707人

15~64歳

60.1%

7,990人 3,988人 4,002人

65歳以上

28.7%

3,813人 1,599人 2,214人

        

【面積】
 3.01平方キロメートル     (西区 16校区地区中 11番目の広さ)

 

まちづくり活動の状況

池田いきいきふれあいサロンが設置され、子どもから高齢者までの見守り活動や給食提供サービスなど高齢者生活支援活動が活発に行われています。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

「みんなで つくろう 住みよいまち」
”みんな”とは、若い人も年寄りも一緒に
若い力と年寄りの知恵を活かして”つくる”
”住みよいまち”とはふれあい、やさしさ、笑顔あふれ、地域がつながっていくまち

各種施設

【駅及び公共施設等】

 JR上熊本駅           電話 096-352-0211

 JR崇城大学前駅         電話 096-359-4487

 市電上熊本駅前電停・車両工場 電話 096-352-9826

 九州森林管理局        電話 096-328-3500

 熊本県立総合体育館      電話 096-356-1233

 池田地域コミュニティセンター 電話 096-328-8668

 熊本市立総合ビジネス専門学校 電話 096-352-1768

 

 池田小学校 学級数 19  児童数 446 人(令和5年5月現在)
 井芹中学校 学級数 11  生徒数 271 人(令和5年5月現在)

 京陵中学校 学級数 24  生徒数 650 人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 池田公園、稗田公園、池田一丁目西児童遊園、池田二丁目西公園、池亀公園

【幼稚園・保育園】

 京町台保育園(市立)     電話 096-352-6280
 熊本すみれ保育園       電話 096-325-6520
 報徳保育園          電話 096-322-8577

 

【警察・消防】

 北警察署京町交番       電話 096-324-6983
 北警察署上熊本交番      電話 096-324-6984

 西消防署池田庁舎       電話 096-356-4315

 

【金融機関等】

 肥後銀行上熊本支店      電話 096-355-6344

 熊本銀行崇城大学通支店    電話 096-352-9611

 上熊本郵便局         電話 096-323-1313

 JA上熊本支店         電話 096-352-7121

  ゆうちょ銀行熊本支店崇城大学内出張所

 

【病院・診療所】

 イエズスの聖心病院      電話 096-352-7181
 桜が丘病院          電話 096-352-6264
 医療法人 くだか眼科     電話 096-325-8200

 出町おがたこどもクリニック  電話 096-351-4970

 くどう皮ふ科医院       電話 096-324-7011

 

 緒方脳神経外科医院      電話 096-353-5300

 佐藤医院           電話 096-355-0200

 出町内科           電話 096-322-7752

 外間整形外科医院       電話 096-352-7277

 たなか益田クリニック     電話 096-352-0131 

 医療法人社団 青葉会 石神クリニック  電話 096-322-6018

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ井芹        電話 096-311-5311

 

 

  

自然・名所・旧跡等

【主な神社・仏閣】

1.往生院 

  安貞2年(1228年)弁長(聖光上人- 嘉禎4年/1238年)が白川の辺に白川山往生院として開山しました。これを加藤清正が古鍛冶屋町に移し、その後、元禄年中(1688年 - 1703年)に飽田郡古町村に替地されましたが、堂宇が完成しないうちに、享保9年(1724年)現在地の池田村に移されました。
 江戸時代にはこの地域における浄土宗の触頭(ふれがしら:寺社奉行の命令を配下の寺院に伝達すること)の任に当たっていました。
 往生院は明治10年(1877年)の西南戦争の時、熊本城攻撃の時の薩軍熊本隊本営ともなりました。
 境内には往生院の開基弁長の墓、熊本洋医学の振興に努めた奥山静叔の墓、熊本洋学校の生みの親である横井太平の墓があります。
 

 

【文化財等】

(市指定文化財 史跡)富ノ尾古墳

 桜が丘病院の西隣にある装飾古墳です。
 直径10m、高さ3m、の円墳で南側に開口しています。
 内部は安山岩の割石小口積の石室で、奥行3.14m、幅3m、高さ2.55mです。
 石室内には周囲に低い石障をめぐらし、屍床を区分する仕切石が残っています。羨道は現在僅か1mほどしか残っていませんが、当初は西壁面に円と三角の装飾があったと記録されています。

 

 

 

(市指定文化財 史跡)山伏塚(やんぼしづか)

 県道熊本四方寄線(旧国道3号線)に沿ったNTT研修センターの向い、道路西側の高台にあります。

 ここにはかつて大榎があり、その根本に1基の板碑がまきこまれ、これを山伏塚と呼んでいました。
 伝承では「加藤清正が熊本城築造のとき、地割の法を行うために呼んだ龍蔵院という修験者を、秘密が洩れぬようにとここで殺して埋葬した」とされています。
 昭和30年代に榎は枯損伐採され、いまでは折損した2枚の板碑片が祀られています。
 この碑のほかに、天明元年(1781)の「南無妙法蓮華経鎮護国家塔」と天保6年(1835)の地蔵石像などもあり、今もなお地域の尊崇を集めています。
  

 

   

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.JR上熊本駅

 上熊本駅は、明治24年(1891年)に池田停車場という名前で設置されました。
 文豪、夏目漱石が明治29年に第五高等学校に赴任した際に降り立った駅として有名です。
 明治34年(1901年)に上熊本駅と改称され、大正2年(1913年)には、洋風木造の駅舎に建て替えられました。
 この駅舎は大正初期の駅舎の現存例として、また歴史と文化の香り漂う対象ロマンを感じさせてくれる場所として、多くの人の注目を集めてきましたが、JR九州新幹線・在来線高架化工事に伴い、平成18年に解体・移築されました。現在は熊本市電上熊本駅前電停の上屋として使われています。
 連続立体交差事業の完了に伴い、2015年3月14日より高架化された4代目の新駅舎で営業が開始されました。新駅舎はJR九州の駅舎や車両デザインを手がけている水戸岡鋭治氏の設計によるもので、7両まで対応したホームの床はウッドデッキとなっています。

 

2.夏目漱石銅像

 熊本市電上熊本駅前電停の道路を挟んで反対側の三角公園内に設置されています。漱石の等身大の銅像ですが想像よりも背が低いと感じられるのではないでしょうか。

 記念撮影には絶好のスポットで、観光客も多く見られます。
 
 
 

【イベント】

1.草枕の駅コンサート

 夏目漱石が明治29年(1896年)4月、上熊本駅(当時の池田駅)に降り立ったことにちなんで名付けられたこのコンサートは、平成14年(2002年)から始まりました。

 毎年春と秋に開催され、平成27年11月1日開催のコンサートは31回目を数えています。
 主催は上熊本商栄会や上熊本駅舎を活かしたまちづくりの会、地元自治会、崇城大学などで構成される「草枕の駅コンサート実行委員会」です。
 JR鹿児島本線の高架化に伴い、移築保存された旧駅舎が残る市電上熊本駅前で開催されています。
 地元小中学生の合唱やジャズバンドの演奏などもあり、レトロな駅舎に心地よい旋律が漂います。

白坪

概 況

【地勢】

 校区の東側から南側に白川が東側から中央部を西に向かって坪井川が流れています。校区の名前は白川と坪井川の頭文字を取って名付けられています。

【歴史】

 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に飽田郡の田崎村、蓮台寺村、新土河原村が合併して白坪村となりましたが、昭和6年の熊本市との合併で地名としての白坪の名称は無くなり、明治38年創立の白坪小学校の名に残るのみとなりました。
かつての農村地帯は熊本総合卸売市場(田崎市場)、JR蓮台寺操車場、熊本市中部浄化センターや住宅街となっています。(熊本県大百科事典)

【交通】

 校区内を東西に県道28号線(熊本高森線)が横断しており、沿線には大型ショッピングセンターや電気店などが集積しています。

  

【産業】

 校区内には地方卸売市場として九州一、全国でも有数の田崎市場があり、県民の生鮮食料品の安定供給に重要な役割を果たしています。

 

【熊本市との合併】

 昭和6年6月1日 白坪村(当時人口 4,600人)を編入

 

 【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で10,813人。高齢化率は30.4%で、西区平均31.3%を0.9ポイント下回っているものの、熊本市平均27.1%を3.3ポイント上回っています。

  

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数

100%

10,813人 4,886人 5,927人

0~14歳

11.0%

1,186人 566人 620人

15~64歳

58.6%

6,335人 3,034人 3,301人

65歳以上

30.4%

3,292人 1,286人 2,006人

        

【面積】
 2.30平方キロメートル     (西区 16校区地区中 13番目の広さ)
 

まちづくり活動の状況

再開発が進む熊本駅地区の後背地として、周辺環境が大きく変化してきており、駅周辺のまちづくりの一員として大きな役割を担っていることから、まちづくりへの取り組み体制の強化が課題となっています。

 

各種施設

【公共施設及び行政施設等】

 埋蔵文化財資料室         電話 096-322-4390 

 

 白坪高齢者生きがい作業所 

 中部浄化センター         電話 096-356-6600 

  

 白坪小学校 学級数 17  児童数 417 人(令和5年5月現在)
 花陵中学校 学級数 16  生徒数 412 人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 蓮台寺公園、蓮台寺八反公園、新土河原公園、田崎一丁目公園、田崎南原公園、八反坪公園

【幼稚園・保育園】

 こずえ保育園      電話 096-288-1972
 花陵幼稚園       電話 096-353-0745

 

【警察・消防】

 南警察署西大橋交番      電話 096-324-6981 
 西消防署田崎出張所      電話 096-356-2263 

 

【金融機関等】

 肥後銀行熊本市場支店     電話 096-354-1361 

 熊本銀行田崎支店       電話 096‐354-3531 

 田崎郵便局          電話 096‐353‐4210 

 田崎本町郵便局        電話 096‐356‐8438 

 

【病院・診療所】

 山口病院           電話 096‐356‐0666 
 田崎橋耳鼻咽喉科クリニック  電話 096‐354‐1133 
 池沢小児科医院        電話 096‐354‐6123 

 天野整形外科皮ふ科医院    電話 096‐326‐2002 

 田島医院           電話 096‐352‐2433 

 かねみつ胃腸科外科医院    電話 096‐326‐1500  

 

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ花陵        電話 096-247-6030

 

自然・名所・旧跡等

【主な神社・仏閣】

1.蓮台寺

 開基年代は不明です。第65代花山天皇の頃(984~986年)、新古今和歌集や後撰和歌集等で知られる女流歌人・桧垣が、晩年、肥後国白川のほとりのこの地に草庵を結び、観音像を安置して信仰の日々を過ごしたのが寺歴の始めといわれています。
 このことから寺は「桧垣寺」とも呼ばれ、寺には桧垣にまつわる「桧垣の塔」「桧垣媼像」などが伝わっています。
 桧垣については、この地で井戸の水を汲んで岩戸観音に日参したと言われ、また、三十六歌仙の一人で清少納言の父であった清原元輔が肥後国司であったとき、桧垣が元輔と交わした歌、「年ふれば わが黒髪も 白川の 水は汲むまで 老いにけるかな」「白川の 底の水ひて 塵立たむ 時にぞ君を 思い忘れん」はこの地で詠んだとされています。
 正保年間(1645~1648年)、顕空文海上人が総本山禅林寺から来て寺の再興に努め、寛文6年(1666年)、中興開山となりました。
寛文11年(1671年)には、熊本藩主・細川綱利より寺領及び恵心僧都の手になる阿弥陀仏等の寄進を受け、興隆しました。
  また、熊本藩最初の富講(富籤)興行は、浪人・平塚藤右衛門の願いにより、元文2年(1737年)、この寺の境内で行われたといわれています。
 

2.桧垣

 桧垣は平安時代の女流歌人で、勅撰和歌集にも歌が載るすぐれた歌人でした。
 白川に面した蓮台寺は「桧垣寺」とも呼ばれ、ここに庵を結んでいたといわれています。「桧垣の井戸」や「こぼし坂」、歌など、水と関わりの深い物語をもつ熊本ゆかりの人物です。
 
 

 

 

3. 千体地蔵

 寛政年間、当時の蓮台寺住職であった明空上人が白川の氾濫による死者の供養のため、千日念仏行脚の上、境内に千体の地蔵を安置し、これにより「千体地蔵寺」とも呼ばれました。

 
 
 
 

4.桧垣の井戸

 蓮台寺の旧境内、寺の西南の天満宮敷地に残る廃井は、桧垣が水を汲んだ井戸と伝えられています。
 
 
 
 
 

5.桧垣の塔

 蓮台寺の境内には桧垣の墓石と伝えらている塔があります。
 この塔は室町時代にはすでに著名であったようで、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に従った細川忠興(三斎)も蓮台寺へ桧垣の塔を見に行っています。
 塔は加藤氏統治時代に熊本城内に移置されましたが、加藤忠広が改易され、小倉から細川忠利(忠興の子)が移封された後、熊本城内でこれを見た忠興が、桧垣は三代集の内にも隠れなき者で、塔は「国ノ古跡」であるから昔のところに戻すようにと忠利の御伽衆に伝えたことから、蓮台寺に戻されたといわれています。

高橋

概 況

【地勢】

 熊本市で一番面積が小さい校区です。
 金峰山麓の南側、高橋稲荷神社の西側に位置し、校区中央を東西に坪井川が流れています。

【歴史】

 古くから高橋の津と呼ばれた港町で、加藤清正公が入国して坪井川を開削したときから本格的な河口港として整備されました。

 加藤氏改易の後に入国した細川忠利公は寛永11年(1,634年)肥後五ヶ町制度を設け、高橋を、熊本、高瀬、川尻、八代と並ぶ町の一つとしました。高橋は城下と海路を結ぶ河口港として、城下の日用消費物資の大半を積み降ろし発展しました。
 安政4年(1,857年)の舟路改修工事は熊本への貨物輸送をさらに盛んにしました。
 高橋港には島原、筑後、柳川、天草、八代、芦北などや大坂、鹿児島、長崎からも荷船が入っていました。貨物の主なものは天草、芦北の薪炭、天草の海産物、鹿児島の泡盛、焼酎、砂糖、三池の石炭、長崎の舶来品、その他陶磁器、瓦、石灰、塩などで、熊本から肥後米、雑穀などが移出されていました。町には問屋が軒を並べて繁栄し、これらの貨物は、高橋ひらた船で坪井川を上り下りしていました。
 港は明治以後、九州鉄道の開通とともに衰えていきました。(熊本県大百科事典から)

 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に高橋町として発足。昭和19年(1944年)2月11日に高橋町、池上村、城山村が合併し、三和町となりましたが、米の出荷問題で混乱があり昭和24年(1949年)2月11日に池上村が分村、さらに翌年5月1日、高橋村と城山村に分村しました。

【交通】

 坪井川に沿って県道237号小島・新町線が横断しています。


【熊本市との合併】

 昭和28年7月1日 高橋村(当時人口 1,297人)を編入

 

 【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で365人。高齢化率は41.6%で、西区平均31.3%を10.3ポイント、熊本市平均27.1%を14.5ポイント上回っています。

  

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口) 

区分

構成比

合計

総数

100%

365人 168人 197人

0~14歳

8.8%

32人 15人 17人

15~64歳

49.6%

181人 87人 94人

65歳以上

41.6%

152人 66人 86人

        

【面積】
 0.12平方キロメートル  (西区 16校区地区中 最も狭い)
 

まちづくり活動の状況

コンパクトな校区の中で、住民の融和を大切にしたまちづくりを展開中です。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

家族や仲間たちといつまでも語り合えるまちづくり

 

各種施設

【公共施設等】

 西部高齢者生きがい作業所     熊本市西区高橋町1丁目5番11号  

 

 高橋小学校 学級数   7  児童数  97 人(令和5年5月現在)
 三和中学校 学級数 19  生徒数 526 人(令和5年5月現在)

 

【警察・消防】

 南警察署西大橋交番      電話 096-324-6981
 西消防署小島出張所      電話 096-329-1080

 

【金融機関等】

 高橋郵便局          電話 096-329-8035

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ三和        電話 096-329-6743 

 

  

自然・イベント等


【坪井川改修】
 「高橋の百年」によれば最盛期には東西2.9km南北0.6km総面積15,000坪ほどの地域に地番440を数えていたことから、密集した港町であったといわれています。
 江戸時代には隆盛を極めた河港でしたが明治に入ると坪井川の土砂の堆積や明治32年の三角線開通、さらには熊本軌道の田崎~百貫石の開通により舟運は衰退していきました。
 このような中、熊本県により昭和7年~11年に坪井川、昭和6年~10年に井芹川の大改修が行われました。これにより町の南西部を流れていた坪井川の湾曲部は直線化され、町内の55戸が水没しました。
 また、この改修工事により一駄橋上流で坪井川に合流していた井芹川は万日山西側に付け替えられ現在に至っています。

 

 

 

 

【イベント】

☆鯉のぼり

 毎年4月から5月にかけて、坪井川の高橋稲荷大橋(赤橋)と天満橋(青橋)の間に約500匹の鯉のぼりを泳がせるイベントが高橋校区町興しの会により実施されています。
 鯉のぼりの泳ぐ様子を西区のフェイスブックにも掲載していますが、毎年トップクラスの「いいね!」を獲得するなど全国から注目を集めています。
 
 
 
 

池上

概 況

【地勢】

 校区の北側に三淵山、東側に万日山、南側に独鈷山、西側から中央に掛けて東平山、妙観山などがあり、山に囲まれた校区です。
 また、東から南に掛けて井芹川が流れています。

【歴史】

 1,300年前、肥後国司道君首名(みちのきみのおびとな)が味生池(あじうのいけ)を造ったため、その池の上手にあることから池上という地名になったといわれています。
 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に池上村、谷尾崎村、戸坂村が合併し、池上村として発足。
 昭和19年(1944年)2月11日に池上村、高橋町、城山村が合併し、三和町となりましたが、戦後、米の出荷問題で混乱があり、昭和24年(1949年)に分村、再び、池上村となりました。

【交通】

 校区の東側を西回りバイパス(都市計画道路野口清水線)が縦断しています。また、西回りバイパスと熊本駅を結ぶ都市計画道路春日池上線の万日山トンネル完成により、熊本駅へのアクセスが格段に向上しました。


 

【産業】

 井芹川周辺の低湿地には水田が広がっており、稲作が盛んです。

  (第一次産業 4.4% 第二次産業 14.5% 第三次産業75.3% H27国勢調査)

 

【熊本市との合併】

 昭和28年7月1日 池上村(当時人口 3,767人)を編入

 

 【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で6,232人。高齢化率は30.7%で西区平均31.3%を0.6ポイント下回っているものの、熊本市平均27.1%を3.6ポイント上回っています。


 

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数

100%

6,232人

2,940人

3,292人

0~14歳

14.0%

870人

448人

422人

15~64歳

55.3%

3,448人

1,683人

1,765人

65歳以上

30.7%

1,914人

809人

1,105人

  

        

【面積】
 7.13平方キロメートル  (西区 16校区地区中 4番目の広さ)
 

 

まちづくり活動の状況

 地域の史跡や伝承を生かしたまちづくりを積極的に展開中。
 国指定史跡「池辺寺」の整備完了を機会に、更なるまちづくり事業を模索中。

健康まちづくり活動の目指す姿

 ま~だ遅なか、若っかもんも年寄りも、皆(みーんな)仲良し健康なまち

各種施設

【公共施設等】

 西部上下水道センター     電話 096-351-3154

  

 池上小学校 学級数 12  児童数 250 人(令和5年5月現在)
 三和中学校 学級数 19  生徒数 526 人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 谷尾崎公園、上高橋公園、池上妙見平緑地、大石崎公園、上高橋北公園ほか

【幼稚園・保育園】

 池上保育園(市立)      電話 096-329-0344
 若葉保育園          電話 096-352-5772
 ちぐさ幼稚園         電話 096-356-5478

 亀の子幼稚園         電話 096-322-8416

 池上子育て支援センター    電話 096-329-0344

 

【警察・消防】

 南警察署西大橋交番      電話 096-324-6981
 西消防署田崎出張所      電話 096-356-2263 

【金融機関等】

 JA池上支店          電話 096-352-4479

  高橋郵便局           電話 096-329-8035

 

【病院・診療所】

 末次内科           電話 096-329-4755
 奈良歯科医院         電話 096-329-8318
 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ三和        電話 096-329-6743

 

 

 

自然・名所・旧跡等

【自然】
1.独鈷山(どっこざん)
 独鈷山は、校区の南側にある標高118メートルの小高い山です。
 昔、弘法大師として有名な空海が唐(中国)に勉強に行っていた時、日本で仏教がさかんになる土地はどこだろうと占いをして、3つの宝器(仏教の道具)を投げたところ、その中の1つである独鈷杵がここに飛んできたため、この土地を「独鈷山」と名づけたという伝説があります。
 また、山全体が祭祀の場で、古代・中世の祭祀の痕跡が発掘調査で見つかっており、雨乞いの祭祀などに独鈷が使われていたことから「独鈷山」の地名になったとも考えられています。
 独鈷山は、金峰山を取りまく山々の一部で、火山活動によってできた岩石からできており、独鈷山から切り出された石は熊本城の石垣に使われています。
 山頂からの眺望は、眼下に市街地、東は阿蘇山、西は有明海を望み、その向こうには雲仙普賢岳が見渡せます。
 
1.味生池(あじうのいけ)跡及び竜伝説
 池上小学校の北側一帯は「味生池跡」とされています。
 肥後の国司・道君首名が構築した農業用ため池で、肥後国最初の大規模な利水事業として知られています。池は埋められ今はありませんが、池上(いけのうえ)の地名が残っています。
 昔、この池には悪竜がすみ、村人を困らせていました。そこで池辺寺の住職が祈祷をしたところ、竜が出てきて「私は村に住んでいた女です。いじめられ、その仕返しに竜となり悪事をしたが、住職の祈りで目が覚めました。この罪滅ぼしに、日照りが続いたら、独鈷と鈴杵で雨乞いをすると降らせます」と言って消えたそうです。
 その後、大干ばつが続き、朝廷から雨乞いの勅令があり祈祷したところ、30日間雨が降り続いたので、寺は領地を与えられました。それ以来、池辺寺を竜池院(りゅうちいん)というようになったとのことです。
 
【主な神社・仏閣】

1.聖徳寺 

 高橋山聖徳寺は天台宗比叡山延暦寺の正覚院の末寺で、白河天皇在位の応徳2年の開基となっています。
縁起によると応徳2年(1085年)4月8日比叡山衆大僧法印良快坊が薬師如来のおつげによって肥後国に下り、この地で入り江の芦原からふしぎな光があらわれているのを見つけ、砂を掘ってみると、長さ三尺の観音像があらわれたそうです。像の背には聖徳太子作と記してあったので、寺を建てて聖徳寺と号したと伝えられています。
 

 2.高橋東神社

 天社さんとも呼ばれ、和銅3年(710年)、元明天皇の時代に建てられています。祭神は道君首名(みちのきみのおびとな)です。
公は大彦命の後胤にして、筑後の国主として、奈良朝廷の命により赴任、肥後国主を兼ね、生業を勧め、味生の池を興し、灌漑によって、農耕の便を図り、地方農民の信頼を集めました。 従来は天社宮と称し、高橋町、池の上村の田の神として、農業、商売繁昌の守護神として信仰されてきました。 明治6年、高橋東神社と改称され、現在、高橋西神社の飛地境内神社となっています。 境内の大楠は創建後、植樹されたもので、樹齢は1,200年を超え、今なお欝蒼として往時を偲び、市の天然記念物として、文化財の指定を受けています。(現地案内板より、一部修正)

 

3.高橋西神社

 高橋西神社の御祭神は、天照皇太神、住吉大神、天児屋根命、鍵盤龍命をはじめとする阿蘇十二宮の分霊で白河天皇の応徳乙丑2年(1085年)に高橋村の産土神として、ここ堂園に創祀され、若宮社と唱えました。 高橋はかって津(港)として栄えたことから若宮大神は海上の安全を祈って祀られました。 細川藩の時代に入ると第五代綱利公のご信仰が厚く、寛文12年(1672年)秋に大修造が行われ、弘化2年(1846年)には、正面の石鳥居が建立されていますが、その寄進碑には当時の町役人、高橋商人が多数刻まれ、商の港高橋町を物語っています。 明治に入り若宮社は高橋西神社と改称され、同6年10月に郷社に列せられました。大戦後の昭和28年に到り宗教法人に認証され、今日に至っております。(現地案内板より、一部修正)


 

【文化財等】

(国指定文化財 史跡) 池辺寺跡(ちへんじあと)

 池辺寺跡は、池上町の北西、金峰山山地の支脈より派生する標高141~128mに位置し、奈良時代に創建されたと伝えられる山岳寺院跡です。
 山間の平(たいら)集落を見下ろす広大な寺跡には、これまでに西側背後の斜面に規則正しく配置された100基の石塔群(百塚)が確認され、多量の瓦や土器なども見つかっています。
 金子塔(石碑)や縁起絵巻など池辺寺の伝承を伝える資料も残っていて、本市にとって重要な史跡です。建物や石塔の配置の独自性や、残存状態の良さなどから学術的価値もたいへん高く評価され、現在、本市では公開するために整備・保存を進めています。
 なお、見つかった出土品の一部は西区蓮台寺にある埋蔵文化財資料室に展示されています。
山間の平集落を見下ろす寺跡からは、南北にやや長い3間×3間の回廊を持つ塼(せん)敷きの建物基壇跡、その西側背後の斜面に規則正しく配置された100基の石積(塔)群が確認されました。
 この山岳寺院跡は「金子塔」の碑文に見る「天台別院肥後國池邊寺側号百塔當寺根本御座所」とみられ、9世紀に建てられた池辺寺跡と考えられています。
 
 
(県指定文化財 ) 独鈷杵(どっこしょ)・五鈷鈴(ごこれい)
池辺寺に関連する伝来宝物です。
独鈷は青銅鍍金で全長17.5cm、握の中央に人面4個を鋳出しています。
その昔、弘法大師が中国にあったとき、日本における三寺地を選定せんとして独鈷と三鈷と五鈷を投じたところ、独鈷がこの池上の山に落ちたため、山を独鈷山と呼び寺を独鈷山功徳池辺寺と号したと伝えられています。
また五鈷は青銅鍍金、全高19cm、口径7.8cmで、味生池に住む悪龍が盗みとったため、仙海僧正が水辺に祈って取り戻したとの伝承があります。この二つはともに平安期の作とみられています。
 
 
(市指定文化財 建造物) 金子塔(かなごのとう)
 西平山の山奥にある高さ2mの石塔で、建武4年(1337年)に建てられました。これに池辺寺の来歴が記されています。碑文の内容は以下のとおりです。
  碑文(現代訳文)
 天台別院である肥後国池辺寺のそばにある百塔は寺の根本御座所であり、ご本尊は正観音霊像である。伝えるところでは、元明天皇の御願により和銅年間に建立され、肥後国司綱家(字名は金子)の願望した寺であったという。
 仏像や百塔は草木が姿を変えたもので造形の□を知らないほどである。
貞 元(じょうげん)元年(976年)正月7日に焼失し、僧らが嘆き悲しんでいたところ、空から宝幡(はた)が堂の上に飛来し、翻って杉の木の上に止まった。僧らが宝幡を礼拝したところ、仏像が□して杉の枝に現れた。そこで、御在所を寺のそばに移し、三百余年という。以来、三宝常住・万行成就の地となった。そこで、霊法を末代に伝えるため、この石塔婆を建立し奉った。
 
 
(市指定文化財 建造物) 池辺寺関係石造物
 宝篋印塔(ほうきょういんとう)基礎・一字一石碑・自然石板碑を主体とし、これに付属する石燈籠竿石(いしどうろうさおいし)と孤峰秀晃池辺寺再興碑が文化財に指定されています。
 宝篋印塔基礎は凝灰岩製で下部側面に応永3年(1396年)の銘があります。
 一字一石碑も凝灰岩製で四面に願文と願主名があり、「嘉吉二年壬戌二月廿八日栄俊敬白」(1442年)と刻まれています。
 自然石板碑は石崎八幡の鳥居の脇にあり、磨滅が甚しく年号が明らかでありませんが、室町後期と推定されています。
 石燈籠竿石は安山岩製で、寛永16年(1639年)のものです。
 孤峰秀晃再興碑は円柱で天明3年(1783年)のもので池辺寺再興の経緯がわかります。
 

(市指定文化財 美術工芸品) 池辺寺仏像(県立美術館蔵)
 浮木観音・不動明王・金子観音の三像を主体とし、愛宕地蔵・勝軍地蔵と僧形男女神像三体を付として、合計8点が文化財に指定されています。
 浮木観音は高さ24cmの聖観音像坐像で、和州の真澄が池辺寺を造立し、味生池に浮かんだ一木を自ら刻んだと伝える本尊です。
 金子観音は金安治というものの娘が妙観山の観音に詣でたとき、平村で拾得したものと伝えられていますが、平安期の胎内仏です。
 不動明王は木造の立像で仏高72.5cm、火焔光背を負い岩座の上に立ち、全身を茶色で塗られています。愛宕地蔵・勝軍地蔵と三坐像は、現在の日露戦争記念堂の付近にその昔愛宕堂があったので、そこに祀られていた木像と考えられています。
 
 
(市指定文化財 美術工芸品) 池辺寺縁起絵巻
 池辺寺七勝について記した縁起絵巻です。
 紙本で詞書は墨書、絵は大和絵風に彩色された長巻です。
 もともとの物語は池辺寺観音講式などに記された縁起をもとにし、その内容をかな文にして絵をそえたもので、出来はたいへんよいものです。
 巻末のあとがきによれば、文化元年(1804年)12月に五雲斉見益が秀晃和尚(当時の池辺寺住職)に依頼されて書写したと記してありますので、それより早い原本が存在したのではないかとも考えられています。
 なお七勝とは、(1)浮木観音(2)独鈷(3)金鈴(4)仙海和尚の法験(5)山王出現(6)金子観音の奇瑞(7)快珍和尚の祈雨です。
 
 
(市指定文化財 書跡) 池辺寺古文書
 池辺寺関係の記録は、維新の廃寺の際に失われてしまって、宝物として保存されたこの古文書一巻7通だけが残っています。
 巻頭の文書は頭の方が欠けていますが、「………任先例可有執務之状如件 天文廿一年六月廿六日 源義鎮(花押)  法印快眞」とあり、池辺寺の快眞に対してその職務を安堵したものと推定されます。
 2・3・4通目の文書は、いずれも大友義鎮の書状で、池辺寺同宿中に宛てた祝儀の礼状です。
 5通目は菊池義宗の書状、池辺寺本堂再興に関するもので6月5日の日付となっています。
 6・7通は大友家老臣吉岡長増の返書で、いずれも戦国期の池辺寺を知る上の貴重な史料です。
 

(市指定文化財 美術工芸品) 池辺寺伝来宝物
 池辺寺に関連する伝来宝物です。龍の鱗・経キン・千手観音画像の3点が市指定となっています。
 弘法大師が独鈷と三鈷と五鈷を投じた際に龍が鱗を落としていったと伝られています。
 経キンと千手観音画像はともに江戸期の秀晃上人の時代のものです。

(市指定文化財 美術工芸品) 松尾焼
 池上町の日露戦争記念堂正面、本尊の前に供えられていた、一対の花瓶と2個の香炉で、すべて松尾焼です。
 一対の花瓶は緑茶色の釉がかかり、瓢箪型の胴上に朝顔型の口縁がのり、両耳がついています。
 胴の中央には唐草文がめぐっており、朝顔部の中央には雷文帯があります。
 高さは31cm、口縁経22cmで、底面には「天明三 卯十一月…」(1783年)の墨書があります。
 香炉の一つは丸型で脚付、全高15.4cm、上縁径21.5cm、表側には牡丹の花、裏には「奉寄附」「楽氏」「松尾ニテ作之」の銘を象嵌しています。
 かつては胴に耳がありましたが、今は片耳の下半分しか残っていません。
 もう一つの香炉は四角で、唐草文帯がありますが、惜しいことにひびが入り、たがで締めてあります。
 
 
(市指定文化財 天然記念物) 天社宮の大クスノキ
 推定1,200年以上を経た大クスノキで、根廻り幹囲り23m、目通り幹囲り12m、地上4mのところでも幹囲り9.5mで、樹高は22m、枝張りは東西23m、南北26mです。本樹は地上6mのところまでは壮大な直幹で、県内の大クスノキの中でも屈指のものです。
 この樹は奈良時代の肥後国司道君首名を祭る高橋東神社の御神体であったと考えられています。
  
 
 
 

  

 

   

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.国指定文化財 池辺寺跡

 池辺寺跡保存整備事業新しいウインドウで

 整備計画は短期・中期・長期の3段階で実施する計画になっており、まず、短期整備として平成24年度から27年度までの4ヵ年にわたり百塚地区と金子塔の整備が行われています。

総事業費 約3億6,000万円

事業概要
 H24年度 百基の石塔が並ぶ区域の整備工事
 H25年度 本堂建物域・西平山公園設備・崖面盛土工事
 H26年度 展望広場・本堂建物基礎復元展示工事、模型製作
 
 

 

2.谷尾崎梅林公園(武蔵ゆかりの座禅石)

 この地は、加藤清正の時代に戦のために常に蓄えておく軍用梅が栽培されていたところです。
 その後は、細川家菩提寺の妙解寺(北岡自然公園)の別院で臨済宗の谷隠軒寺城があった場所でもあります。
 公園には紅や白など約300本のさまざまな梅の木があり、きれいな花を咲かせます。
 また、このほかに、少し山手を登ると2畳ほどの岩があり、この岩は宮本武蔵が五輪の書を書く前に座禅を組んだと伝えられ座禅石と言われています。座禅石からは公園内すべての梅林が見渡せ、まさに絶景ポイントです。
 2月下旬から3月上旬には梅祭りも開催され、見ごろを迎えた梅の花とその香りに多くの来園者で賑います。

  

【イベント】

1.味生祭(あじうさい)

 毎年2月、池上小学校の運動場で「池上ふれあいフェスタ~味生祭~」として、池上小PTAをはじめ、体育協会、消防団など多くの地域の皆さんが協力して開催される、恒例のイベントになっています。
 バザー、農産物や物品の販売、ステージでの歌や演奏の披露、また、消防車やパトカーも駆けつけ、小さな子どもから高齢者まで楽しめる、大変賑わいのあるお祭りです。

城山

概 況

【地勢】

 校区北部に城山(じょうやま)があり、その山の名をとって城山(じょうざん)と名づけられています。

 校区西側は干拓地で田園地帯が広がっています。

【歴史】

 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に城山村として発足。昭和19年(1944年)2月11日に城山村、高橋町、池上村が合併し、三和町となりましたが、昭和24年(1949年)2月11日に米の出荷問題で混乱があり、池上村が分村、さらに翌年5月1日、城山村と高橋村に分村しました。

 

【交通・産業】 

 県道28号熊本高森線沿いに、ショッピングセンター、飲食店やコンビニなどの商業施設のほか診療所も多く立地しており、その北側に住宅地が広がっています。
 このエリアは公共交通の利便性も高く、都市機能も充実していることから、熊本市の15の地域拠点の一つとなっています。

 

【熊本市との合併】

 昭和 28年7月1日 城山村(当時人口4,251人)を編入

 

 【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で、10,915人。高齢化率は西区の中で最も低い25.6%で、西区平均31.3%を5.7ポイント、熊本市平均27.1%を1.5ポイント下回っています。

 

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口) 

区分

構成比

合計

総数

100%

10,915人 5,129人 5,786人

0~14歳

15.6%

1,705人 853人 852人

15~64歳

58.8%

6,413人 3,106人 3,307人

65歳以上

25.6%

2,797人 1,170人 1,627人

 

          

【面積】
 4.33平方キロメートル     (西区 16校区地区中 10番目の広さ)

 

まちづくり活動の状況

 西区でも人口や児童数が増加している地域で、新旧住民を巻き込んだ融和、協働のまちづくりに向けた取り組みが進められています。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

 豊かな自然と歴史の中で、人と人との絆を大切に、
 夢と希望のあふれるまちづくり

各種施設

【公共施設等】

 城山小学校 学級数 28  児童数 705人(令和5年5月現在)
 三和中学校 学級数 19    生徒数 526人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 城山公園、白川城山半田緑地、竹崎公園、宮下公園、城山上代公園、下代菅原神社公園、大塘小伝木公園、城山大塘公園、城山下代公園、城山半田公園、城山半田三丁目公園、城山墓園 他

【幼稚園・保育園】

 城高保育園              電話 096-329-8107

 幼保連携型認定こども園 城山保育園  電話 096-329-2323

 幼保連携型認定こども園 城山幼稚園  電話 096-329-4680

 

【警察・消防】

 南警察署西大橋交番          電話 096-324-6981
 西消防署小島出張所          電話 096-329-1080

 

【金融機関等】

 肥後銀行 稲荷前支店         電話 096-329-4134

 熊本城山簡易郵便局          電話 096-329-8866

 JA城山支店                電話 096-329-4171

 

【病院・診療所】

 城山病院               電話 096-329-7878

   みずもとこどもクリニック       電話 096-325-1238
 西部脳神経外科内科          電話 096-329-6611

 城山小澄皮膚科クリニック       電話 096-329-6677

 重永内科クリニック          電話 096-322-3355

 わたなべ眼科クリニック        電話 096-329-6011

 

 かたおか整形外科・リウマチ科     電話 096-329-2222

 三和クリニック            電話 096-329-6777

 城山耳鼻咽喉科            電話 096-329-0888

 池田内科医院             電話 096-329-8818

 

   歯科医院 オレンジ          電話 096-329-6633

 城山椿歯科クリニック         電話 096-312-5711

 慶 歯科医院             電話 096-329-3920

 ホワイト歯科西廻りバイパス      電話 096-288-2841

 えふく歯科医院            電話 096-329-5522

 

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ三和            電話 096-329-6743

 

 

 

自然・名所・旧跡等

【自然】
 1.城山
 上代9丁目にある標高47mの城山(じょうやま)は、花岡山、御坊山、独鈷山とともに金峰山の外縁部にあたり、中世に「上代城」という城がありました。
 上代城は、東西約80m、南北約100mの広さに隈本城の出城として築城され「城山(じょうざん)」という地名はここから来ているといわれています。
 山頂には城跡の石碑が建っているほか、本市の指定史跡の城山古墳群があります。
 現在は、配水池が設置され、墓地公園にもなっています。
 また、山の西側には、日本五大稲荷の一つに数えられる「高橋稲荷神社」があり、毎年2月の初午大祭では多くの参拝者が訪れています。

 
【主な神社・仏閣】

1.高橋稲荷神社新しいウインドウで(外部リンク)

 日本五大稲荷の一つです。

 古来「衣食住の大祖にして萬民豊楽の神霊なり」と仰がれ日本人の生活生存の霊力(エネルギー)をあたえてくれる最大最良の食物の守護神、福徳を授け受けた賜える福の神と崇められ、商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、交通安全、漁業繁栄など世事百般の守護神として萬民の間に極めて密着した信仰の厚い神様です。
 毎年2月の初午(はつうま)の日に行われる初午大祭には、商売繁盛や五穀豊穣を願う大勢の参拝者が訪れます。数回に分けて行われる「福餅まき」では、高い石垣の上からまかれる紅白の福餅を拾おうと人々が詰めかけ、盛り上がります。
 神社の前には江戸時代から続く老舗の田楽屋があります。
 
 

2.上代阿蘇神社

 阿蘇市一ノ宮にある阿蘇神社の末社(全国に約500社ある)の1つです。
 上代阿蘇神社は、上代3丁目の住宅地にあり上代郷の守護神として1442年の創建以来地域の方々に親しまれ、平成24年(2012年)には570周年の奉祝記念式典・大神楽の奉納が盛大に行われました。
 境内は城山小学校(明治11年創立)が出来るまで上代小学校として使われていた歴史もあります。
 神社には、クスノキとイチョウ2本の御神木があり、熊本市指定保存樹木にもなっています。
 特にクスノキは、樹齢は不明ですが幹囲が8.1m、樹高が26mと非常に大きく見事な姿でそびえています。
 このクスノキにはアオバズク(フクロウ科)が巣をつくることもあるそうです。
 
 

【文化財等】

(市指定文化財 史跡) 城山古墳群(一の塚・二の塚・三の塚)

 城山は、戦国時代の上代城跡です。本丸跡は西側の水源地のあるところで、東側の水源地のあたりが二の丸です。
 この二の丸に3基の高塚式古墳があります。最高所にあるものを一の塚、その西にあるものを二の塚、南側斜面上にあるものを三の塚と呼んでいます。
 いずれも円墳ですが、一の塚は墳丘の直径約40m、高さ5.6mで、墳丘の形はよく残っています。
 二の塚は周囲を削られていますが、現在直径17m、高さ2.9mで、南西側に昭和初期の教育会発掘の痕跡が残っています。
 三の塚は大正15年12月に採石のために発掘され、石室の半分まで露出していますが、石室の奥に石屋形があり、金環・鉄直刀や轡の破片などが出土しています。
 6世紀中頃のものと考えられています。
 
 
(市指定文化財 建造物) 衛兵所
 明治初期の建築様式が顕著にあらわれた洋風土蔵造でフランス式(寄棟屋根)を模した衛兵所です。
 明治後期以後はドイツ式(切妻屋根)となりました。
 木ずり下地に張り瓦、漆喰中塗り、上塗りをされた洋風トラス組みで分銅おもりによる上げ下げ窓やレンガ積み基礎を持っていました。
〔解体保存中〕
 
 
 
 

   

観光スポット・特産品

【観光スポット】 

 高橋稲荷神社新しいウインドウで(外部リンク)

  

【特産品】

1.キャベツ

 城山地区では稲刈りの終わった水田などを利用したキャベツ栽培が盛んに行われています。

 西区のキャベツの栽培面積は42haで市全体(59.2ha)の約70%を占めており、西区は市の中でキャベツの一大産地となっています。
(平成24年度調べ)

2.アリウム(花き)

 全国に出荷されているアリウムの9割を熊本県、うち5割を西区(中島及び城山校区)で栽培出荷しています。
 出荷時期は、2月中旬から6月まで。おもに生け花の季節商材として重宝され、根強い人気があります。
 この花は、控え目な華やかさと造形の面白さが特徴です。
 華頂の美しさとともに、茎の曲がり具合とバランスが価値を大きく左右します。
 最近では、生け花以外にも花束やアレンジメントなどに主役として使われることも増えていて、テレビ番組や雑誌で見かけることも多くなりました。

松尾東

概 況

【地勢】

 熊本市の南西、金峰山の麓に位置し、西には遠く有明海、島原半島、南には宇土半島、熊本平野が望めます。

 地区中央を南北に流れる松尾川沿いには古くから農業を主とした集落が形成されています。また、地区の南、坪井川に沿って通る県道237号線(小島新町線)北側は近年、住宅地として開発されています。

 

【歴史】

 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に平山村、近津村、上松尾村が合併して松尾村が発足しました。
 松尾東地区は旧上松尾村のうち、現在の上松尾町、中松尾町、松尾1~2丁目の区域です。
平成29年4月より松尾東小学校は松尾北小学校、松尾西小学校と共に小島小学校に統合され、松尾東地区となりました。

 

【交通・産業】 

 主な産業は農業で松尾川中流域の山麓ではみかん栽培が盛んで、下流の低地では稲作も行われています。
また、県道237号線沿いには飲食店や自動車販売店などが立地しています。

 

【熊本市との合併】

 昭和 30年4月1日 松尾村(当時人口4,072人)を編入

 

 【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で、6,537人。高齢化率は35.2%で、西区平均31.3%を3.9ポイント、熊本市平均27.1%を8.1ポイント上回っています。

(注)小学校区毎の統計であるため、小島校区(松尾北・西・東地区を含む)の人口を掲載しています。

 

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)  

区分

構成比

合計

総数

100%

6,537人3,142人 3,395人

0~14歳

12.6%

823人

419人

404人

15~64歳

52.2%

3,413人

1,733人 1,680人

65歳以上

35.2%

2,301人 1990人 1,311人

 

           

【面積】
 5.15平方キロメートル  (西区 16校区地区中 6番目の広さ)

 

まちづくり活動の状況

 小島小学校と松尾3小学校が統合したことから、地域が目指すまちづくりについて模索中。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

 「和」~ひとつになろう松尾東~

 

各種施設

【公共施設等】

 松尾地域コミュニティセンター     電話 096-329-4433

 

 小島小学校  学級数 17  児童数  307人(令和5年5月現在)

 城西中学校  学級数 11    生徒数 217人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 上松尾一の口公園、松尾広田公園

 

【警察・消防】

 南警察署松尾駐在所          電話 096-329-3734
 西消防署小島出張所          電話 096-329-1080

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ熊本西           電話 096-329-2016

 

 

 

自然・名所・旧跡等

【主な神社・仏閣】

1.松尾八幡宮

 創建は600年以上昔の南北朝時代(1336年~1392年)ともいわれています。戦前は社格も高く郷社として登録されていました。
 毎年10月14日の後夜から15日にかけてお祭りが行われています。
 

2.うぐいすの観音さん

 観音山に祀られている観世音菩薩で、言い伝えに寄れば、その昔一羽の鶯が一枝の花をくわえて、ほら穴に入ったので、これを見た里人が不思議に思い中を覗いてみると観音様がおられたそうです。
 以後、鶯の観音さんと呼ばれるようになったとのことです。
 観音さんが祀られている祠の下には広場があり、天和二年(1682年)と刻まれた石塔や寛政8年の銘があるお地蔵さまなどもあり、地元の信仰の霊場として崇められています。

 

3.臨済禅寺跡

 威徳山臨済禅寺。宝永6年(1704年)鉄関和尚が下益城郡吉野村にあった廃寺を移築したと伝えられています。
 しかし、明治維新の廃仏毀釈で廃寺となっています。
 境内には歴代住職の墓のほか芭蕉の句碑「初しぐれ 猿も小蓑(こみの)ほしげなり」が建っています。

 
【保存樹木】
 歳の神(イチョウ)
 

 
 

観光スポット・特産品

【特産品】 みかん

松尾西

概 況

【地勢】

 西区の西側中央部に位置し、有明海に面しています。
 地区の東側には金峰山系の山が迫り、南側に坪井川が有明海に注いでいます。
 
 

【歴史】

 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に平山村、近津村、上松尾村が合併して松尾村が発足しました。
 松尾西地区は旧近津村及び旧上松尾村のうち、現在の西松尾町の区域です。平成29年4月より松尾西小学校は松尾北小学校、松尾東小学校と共に小島小学校に統合され、松尾西地区となりました。

【交通】 

 地区の西端を南北に国道501号線が通っています。


【産業】

 海苔の養殖やみかん栽培などの農水産業が主です。
 梅洞地区や近津地区の干拓地では稲作も盛んです。


【熊本市との合併】

 昭和 30年4月1日 松尾村(当時人口4,072人)を編入

 

 【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で、6,537人。高齢化率は35.2%で、西区平均31.3%を3.9ポイント、熊本市平均27.1%を8.1ポイント上回っています。

(注)小学校区毎の統計であるため、小島校区(松尾北・西・東地区を含む)の人口を掲載しています。

 

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)  

区分

構成比

合計

総数

100%

6,537人3,142人 3,395人

0~14歳

12.6%

823人 419人 404人

15~64歳

52.2%

3,413人 1,733人 1,680人

65歳以上

35.2%

2,301人 990人 1,311人

 

           

【面積】
 4.77平方キロメートル  (西区 16校区地区中 9番目の広さ)

 

まちづくり活動の状況

 小島小学校と松尾3小学校が統合したことから、地域が目指すまちづくりについて模索中。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

 地域と家族で語り合い あたたかい心で助け合う 自然豊かな松尾西

各種施設

【公共施設等】

 松尾西地域コミュニティセンター    電話 096-329-6050

 

 小島小学校  学級数 17 児童数  307人(令和5年5月現在)

 城西中学校  学級数 11   生徒数  217人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 百貫石公園、松尾町梅洞公園

 

【警察・消防】

 南警察署松尾駐在所          電話 096-329-3734
 西消防署小島出張所          電話 096-329-1080

 

【金融機関】

 松尾簡易郵便局            電話 096-329-7566

 

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ熊本西           電話 096-329-2016

 

 

 

自然・名所・旧跡等

【自然】
1.権現山
 標高は273mで8合目付近には、乃茂権現(のもごんげん)と呼ばれる社があります。長崎の野母崎に祭られていた野母権現がこの地に渡り祭られたと伝えられ、権現山の由来となったと言われています。
 また、中腹には国指定史跡の「千金甲古墳」甲号と乙号があります。甲号は標高110mの雑木林の中に、乙号は甲号より南に下った標高60m程の高城山の付け根にあり、いずれも6世紀ごろの築造と推定されています。一帯はみかん栽培が盛んです。
 
2.浪先岩
 
 
☆いんの川
 梅洞地区の集落の中にひっそりと佇む湧水で、生活用水として利用され、野菜などを洗う姿が今も見られます。奥の水口は囲われていて、覗き込むと砂を巻き上げながら湧水しています。
 
【主な神社・仏閣】

1.近津鹿嶋宮

 社伝によれば、もともと宇土宮という前宮が祀られていました。

 宇多天皇の治世(893年)に藤原南家4代目民部卿藤原保則が、常陸国鹿島神宮より分霊を勧請し、宇土宮を改築造営して、鹿嶋宮と改称し奉斎したとされています。
 また、その昔「吾は鹿島大神である。此地に鎮まり座する」と白馬に乗じた白髪の老翁が海底より現れる神夢をみたので、明くる朝、海岸にでてみたところ、波打ち際に馬の形に見える大石がありそこに神の姿が見えたので、その石を鹿島大神の神体として祀った、との言い伝えもあります
 
 

2.綿津見神社

観光スポット・特産品

【祭り】

☆火ノ神祭り

  近津集落の中心にある近津鹿嶋宮で、年に一度行われる男たちの荒々しい火の攻防が「火ノ神祭り」です。

 10月14日に行われるこの祭りは、9世紀、近隣の海を荒らし近津の港を襲ってきた新羅国(しらぎのくに)の海賊を、住民達が背後の山から木を切り出し、火を点けて海賊に投げ防戦したという戦いに由来するといわれています。
 地元の男たちは攻め手と守り手の既婚者と独身者に分かれ、攻め手となる既婚者が火のついた木の枝を拝殿に向かって投げつけると、守り手となる独身者が木の棒でたたき落とし、火の粉が激しく飛び散ります。
 祭りを通して結束が図られ、地域の伝統と産業が守られています。
 

【特産品】

1.近津みかん

 

2.海苔

松尾北

概 況

【地勢】

 松尾北地区は、熊本市の北西部にそびえる金峰山(665m)の西側に位置し、周囲を山に囲まれた豊かな自然環境の中にあります。

 また、地区内には、宮本武蔵が「五輪之書」を書き著した霊巌洞のある岩戸観音や五百羅漢等の史跡、鼓ケ滝などの水遺産が点在しています。

 

【歴史】

 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に平山村、近津村、上松尾村が合併して松尾村が発足しました。
 松尾北地区は旧平山村の区域となっています。平成29年4月より松尾北小学校は松尾東小学校、松尾西小学校と共に小島小学校に統合され、松尾北地区となりました。

【交通】 

 地区の北側に県道101号線(植木河内港線)が通っています。


【産業】

 金峰山麓ではみかんの栽培が盛んで主要な産業となっています。

 

【熊本市との合併】

 昭和 30年4月1日 松尾村(当時人口4,072人)を編入

 

 【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で、6,537人。高齢化率は35.2%で、西区平均31.3%を3.9ポイント、熊本市平均27.1%を8.1ポイント上回っています。

(注)小学校区毎の統計であるため、小島校区(松尾北・西・東地区を含む)の人口を掲載しています。

 

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)  

区分

構成比

合計

総数

100%

6,537人

3,142人 3,395人

0~14歳

12.6%

823人 419人 404人

15~64歳

52.2%

3,413人 1,733人 1,680人

65歳以上

35.2%

2,301人 990人 1,311人

 

 

【面積】
 2.47平方キロメートル (西区 16校区地区中 12番目の広さ)

 

 

まちづくり活動の状況

 小島小学校と松尾3小学校が統合したことから、地域が目指すまちづくりについて、現在、検討が行われています。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

 互いの健康を思いやり、心も体も元気にみんな仲良く暮らせるまち

各種施設

【公共施設等】

 松尾北地域コミュニティセンター    電話 096-329-9855

 

 小島小学校  学級数 17 児童数  307人(令和5年5月現在)

 城西中学校  学級数 11   生徒数  217人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 岩戸の里公園

 

【警察・消防】

 南警察署松尾駐在所          電話 096-329-3734
 西消防署小島出張所          電話 096-329-1080

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ熊本西           電話 096-329-2016

 

 

 

自然・名所・旧跡等

1.雲巖禅寺
 宮本武蔵が五輪書を書いた霊巌洞があることで有名です。本尊の岩戸観音は平安時代女流歌人桧垣も厚く信仰しました。古くから金峰山西麓の湧水を生活用水に使い、清澄な湧水が境内の水屋に溢れています。
 
2.平山の湧水
 みかん畑に囲まれた平山地区の生活を支えてきた湧水で、北と南の湧水があります。
 
3.鼓ヶ滝
 金峰山カルデラの渓谷にあり、景勝地「肥後耶馬渓」の見所の一つ。
 平安時代には、清少納言の父とされる肥後国司・清原元輔がこの滝を詠んでいます。
 現在は、道路が高いため滝つぼに近づけず、また山が荒れるなどして、かつての魅力が薄れています。
 
 4.桧垣のこぼし坂
 平安時代の美しい女流歌人として知られている桧垣は、岩戸観音を深く信仰し、白川のほとりの蓮台寺から松尾を経てこの旧道をとおり岩戸観音に水を供えたといわれています。
 「こぼし坂」という名は、桧垣が水をこぼし、こぼし、この坂を登ったという言い伝えによって名付けられたということです。
なお、桧垣が白川を詠みこんだ次のような和歌が残されています。
       「年ふればわが黒かみも白川の
             水はくむまで老いにけるかな」
 桧垣はのちに岩戸観音の近くの山下庵に移り住み、その和歌集は『桧垣嫗集』と呼ばれています。
 
 
【主な神社・仏閣】

1.雲巖禅寺(うんがんぜんじ)

 金峰山の西麓にあり、南北朝時代に日本に渡来した元の禅僧・東陵永璵(とうりょう えいよ)が建立したと伝えられる曹洞宗(そうとうしゅう)の寺。

 九州西国三十三観音第14番霊場としても知られています。
 隣接する雲巌禅寺宝物館には宮本武蔵の木刀、自画像などを収蔵しています。
 熊本市立熊本博物館には、東陵永璵の木像が展示されており、鎌倉時代の作風を残す室町時代の優れた作品として国の重要文化財に指定されています。
  
 
【文化財等】
(国指定文化財 美術工芸品) 木造東陵永璵(とうりょうえいよ)禅師倚像 (熊本博物館蔵)
 雲巌禅寺に伝わる倚像で、八角形・衝立式の変った椅子に腰を掛けた姿につくられています。
 本像は禅宗で最も大切にされる祖師像で、玉眼・彩色されており、身には法衣・袈裟をまとい、右手は持物を持つ形をとり、両足を垂れています。
 顔や着衣は写実的で小像ながら堂々とした風格を示しています。東陵永璵は中国の元時代の人で、観応2年(1351年)に来朝し、夢窓疎石のすすめで西芳寺に入り、ついで天龍寺・南禅寺・建長寺・円覚寺の諸大刹に歴住、貞治4年(1365年)に81歳で亡くなっています。
 
 
 
(県指定文化財 史跡) 雲巌禅寺境内
 古くから岩戸観音として知られた由緒ある霊場で景勝の地です。
 既に平安時代の頃、霊巌洞には石体四面の観音が祀られて人々の尊崇の対象であったことは、清原元輔や桧垣の伝承によって知ることができます。雲巌禅寺が創設されたのは南北朝の頃で、開山は元僧東陵永璵です。
 室町時代には衰退しましたが、加藤氏・細川氏の庇護によって江戸時代には再び整備の手が加えられました。
 細川家の重臣沢村大学助吉重が深く信仰し、宮本武蔵も霊巌洞に籠って「五輪之書」を著したことはよく知られています。
 宝永5年(1708年)にできた釈迦三尊と十六羅漢の石像、さらに安永8年(1779年)から24年かかって奉納された五百羅漢も有名です。
 
(市指定無形民俗文化財) 平山神楽
 松尾町平山の平山神社の大祭は、今日でも古式通りに10月13日から15日にかけて行われており、大祭最 後の夜執行されるのが、社前の火焚きとこの神楽です。
 神楽は古来継承されてきたと伝えられますが、時代は定かではありません。しかし、この祭礼中の14日に近津の下田家に幣物を受領に行くという行事があり、下田家は室町時代からの当地の豪族であるから、この地の祭事の古さを推定させます。
 神楽は太鼓・締太鼓・横笛・ジャガランを楽器に用い、舞人はすべて狩衣を着ます。
 11段構成で、10番目に国津があって、ここで神が鬼面をつけて出現し、神官と問答するところがクライマックスです。
 奉納には約3時間を要します。
 
 
【保存樹木】 
 平山神社(イチョウ)

 


 

 

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.雲巖禅寺(上記の【主な神社・仏閣】に記載しています。)

 

2.五百羅漢

 五百羅漢は、熊本市西部に位置する金峰山の西側の麓にある雲巌禅寺内にある石仏群。

 岩山を削って作られた細道に面した岩の斜面に安置されています。雲巌禅寺は、宮本武蔵が「五輪の書」を書いた霊巌洞を境内に持つ曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院。
 この五百羅漢は、熊本の商人渕田屋儀平(ふちだや ぎへい)が、約200年前、24年の歳月をかけて奉納したと言われています。座る姿も表情もすべて違うたくさんの石仏は、見ていて時間を忘れるほど興味深く、岩山にずらりと並んだ様は、神秘的な空気に満ちています。
 
3.岩戸観音
 雲巌禅寺の奥の院にあたる「霊巌洞」に安置されている石体四面の観音像。
 平安朝の歌人檜垣(ひがき)が参拝したことで知られ、家内安全・商売繁盛などを願う参詣者が全国各地から訪れています。
 また、この岩戸観音がある洞窟「霊巌洞」は、宮本武蔵が『五輪書』を著した場所としても知られています。

 熊本市の西方、金峰山山麓にある洞窟。うっそうと茂る樹木におおわれ、神秘的な霊場として知られる雲巌禅寺の裏山にあり、洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像が安置されています。
 晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵が、この洞窟にこもって兵法書「五輪書」を著したことは、あまりにも有名です。
 霊巌洞の歴史は寺より古く、いい伝えによれば異国から観音像を運んでいるときに舟は転覆しましたが、観音像だけは板にのって流れ着き、霊巌洞に安置されたといいます。
 この洞窟には武蔵だけでなく、平安期の女流歌人・桧垣(ひがき)が日参したといわれています。
 また、雲巌禅寺から霊巌洞に至る岩山を削った細道には、五百羅漢が安置されており、さまざまな表情を見せてくれます。
 

 

5.肥後耶馬渓 

 岩戸の里公園内にあり、宮本武蔵(みやもとむさし)が五輪書(ごりんしょ)を記した霊巌洞(れいがんどう)があることで有名な雲巌禅寺(うんがんぜんじ)周辺は、大分県の耶馬渓になぞらえて肥後耶馬溪と呼ばれています。奇岩と紅葉の美しい場所です。

6.鼓ケ滝
 肥後耶馬渓にある滝です。清少納言の父で三十六歌仙の一人である「清原元輔」がこの地を訪れたとき、異様なる法師がこの滝をみて「音に聞く鼓の滝を打ち見れば山川の鳴るにありける」という和歌を詠んだと「拾遺和歌集」に記載されています。
 
【特産品】 みかん

小島

概 況

 【地勢】

 校区の東側に御坊山がありますが、昔、この御坊山は島であり、白川から運ばれた土砂が堆積して、陸地となり、現在は小高い山(標高29m)となりました。
 御坊山が小さな島だったことから、小島と呼ばれるようになったと言われています。
 有明海に面しており、校区南側に白川、北側に坪井川が流れ、有明海に注いでいます。
 干拓地の新地地区には田畑が広がっています。

【歴史】

 江戸、明治時代は、熊本城下と長崎、江戸とを結ぶ物資の集散地として栄えた港町で、荷揚・集荷されたものは、百貫往還を通り、馬等で城下に運ばれていました。
 明治5年(1872年)には明治天皇が西国ご巡幸の際、当地に上陸され一泊されました。
 宿泊された建物は「明治天皇小島行在所」(市指定文化財)として、今日でも地元住民により大切に守られています。
 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に小島町、小島村、下松尾村が合併して発足しました。
平成29年4月に松尾北小学校、松尾西小学校、松尾東小学校が小島小学校に統合しました。

【交通】 

 国道501号線及び県道28号線(熊本高森線)が通っています。


【産業】

 米やたまねぎ・きゃべつ等の野菜などの農業及び海苔養殖などの漁業が主です。

 

【熊本市との合併】

 昭和 32年1月1日 小島町(当時人口4,665人)を編入

 

 【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で、6,537人。高齢化率は35.2%で、西区平均31.3%を3.9ポイント、熊本市平均27.1%を8.1ポイント上回っています。

(注)小学校区毎の統計であるため、小島校区(松尾北・西・東地区を含む)の人口を掲載しています。

 

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)  

区分

構成比

合計

総数

100%

6,537人

3,142人

3,395人

0~14歳

12.6%

823人 419人 404人

15~64歳

52.2%

3,413人 1,733人 1,680人

65歳以上

35.2%

2,301人 990人 1,311人

 

            

【面積】
 4.9平方キロメートル  (西区 16校区地区中 8番目の広さ)
 

まちづくり活動の状況

 スカイフェスティバルin小島や、小島行在所などの地域の史跡を生かした積極的なまちづくり活動を展開中です。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

 声かけあって、幸福感いっぱいの小島に

各種施設

【公共施設等】

 西区役所              電話 096-329-1111

 西部まちづくりセンター       電話 096-329-7205

 (公民館、児童館、図書室)

 西老人福祉センター         電話 096-329-2347 

 小島地域コミュニティセンター    電話 096-329-8033

 

 小島小学校 学級数 17  児童数 307人(令和5年5月現在)

 城西中学校 学級数 11    生徒数 217人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 小島公園         管理棟  電話 096-329-8875

 白川中原緑地

【幼稚園・保育園】

 小島保育園(市立)         電話 096-329-7250

 小島子育て支援センター       電話 096-329-7250

 有明保育園             電話 096-329-7889

 

【警察・消防】

 南警察署小島駐在所         電話 096-329-3749
 西消防署小島出張所         電話 096-329-1080

 

【金融機関等】

 肥後銀行小島支店          電話 096-329-7021

 小島郵便局             電話 096-329-7897

 JA西部支店             電話 096-329-2626

 

【病院・診療所】

 ゆみこ歯科クリニック        電話 096-319-4181

 三宅クリニック           電話 096-329-5600

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ熊本西          電話 096-329-2016

 

 

 

自然・名所・旧跡等

【自然】
 ☆御坊山
 この山は「おんぼさん」「おぼうやま」などと呼ばれていますが、地元では「おんぼさん」と呼ばれています。
 西区役所の西側にあり、標高29mと本市の山で最も低い山です。
 御坊山はもともと海に浮かぶ小さな島でしたが、白川から運ばれてきた土砂が周辺に堆積し、平坦地の小高い山となりました。
 小島の地名は御坊山が小さな島であったことに由来するといわれています。
 頂上には小島阿蘇神社がありますが、室町時代の嘉吉3年(1443年)の大洪水の際になまずが御神体を守ったと伝えられています。そのため、なまずの神様とも呼ばれ、皮膚病にご利益があるとされています。
 
【主な神社・仏閣】

1.専照寺(上の寺)

 真宗西派光専寺(山鹿湯町)の末寺として、寛永15年(1638年)了玄によって開基されました。
 本堂欄間の彫刻2点と二間四枚続きの襖絵は桃山時代の作といわれています。
 本堂の前の水盤は中央に平四ツ目の紋を浮き出し彫りとし、外枠には「嘉永元年戊申八月潟筑後屋新エ門 石工楢崎吉エ門」と刻まれています。
 潟は現在の小島下町御幸のことで、当時このような商人で小島の港が栄えていたことがわかります。楢崎には現在も石工が残っています。
 
2.光應寺(中の寺)
 真宗西派順正寺(中央区河原町)の末寺で寛永12年(1635年)祐仁によって開基されました。
 明治天皇行幸の節、護衛の鎮台兵100名が本堂に宿泊、桐野利秋は庫裏(くり)の座敷に宿泊しました。
 現在も座敷はそのままの姿で残されています。明治天皇ご使用の茶碗は行在所に保管されています。
 
3.正泉寺(下の寺)
  天正16年(1588年)旧宇土城主村上弾正重行の孫、浄尊によって開基されました。
 7世大忠は寛政4年の雲仙眉山の崩壊に伴う大津波の際、堂宇の破壊も顧みず罹災者の救出供養等に尽くし、その功によって細川公より九曜の紋を賜りました。現存する千人塚はそのときに大忠が築いたものです。
 
【文化財等】
(国指定文化財 史跡) 千金甲古墳(甲号)新しいウインドウで(外部リンク)
 ※「熊本市の指定文化財等」>「史跡 国指定11」>3千金甲古墳(甲号)参照

 雲校区の北にそびえる権現山の中腹、海抜110mのところにある装飾古墳を千金甲(せごんこう)古墳の甲号と呼びます(第1号墳)。
 墳丘は斜面の少しなだらかなところの山沿い(北西斜面)を削って半周溝状に掘り、その土を盛り上げてつくっています。
 南西方向に羨門を設けた円墳で、羨道は埋没していますが長さは約3m、石室は安山岩の割石平積みで高さ2.5m、奥行2.7m、幅2.6mです。
 石室内には凝灰岩板石6枚を使って、石障(せきしょう)をめぐらし、その内壁に同心円と対角線と靱の文様を刻み、赤・青・黄の三色で彩色しています。
 早くから石室の天井部近くが開口していたため、副葬品は残っていませんが、6世紀の初め頃の築造と推定されています。
 
(国指定文化財 史跡) 千金甲古墳(乙号新しいウインドウで(外部リンク)
 ※「熊本市の指定文化財等」>「史跡 国指定11」>4千金甲古墳(乙号)参照

  甲号墳より南に下がった海抜60m程のところ、権現山と高城山の鞍部にあるのが乙号墳(第3号墳)です。
 円墳で、羨道の長さ2.6m、石室の奥行き3.6m、幅3m、高さは天井部が早く開口しているのではっきりしませんが、4mを越えていたと推定されています。
 石室は安山岩の割石平積みで、奥に巨大な石屋形があります。
 石屋形の高さは1.17m、内側の幅は1.75m、奥行1mで、架石の厚さは30cmもあります。
 この石屋形の内面に三重の同心円や弓・靱・舟・太刀などが描かれ、赤と緑で彩色されていましたが、永く開口したまま風雨に晒されていたので、今ではその痕跡をとどめる程度に薄れています。
 昭和35年に覆屋がかけられました。6世紀半ば頃の築造と推定されています。
 
 

 (市指定文化財 建造物) 明治天皇小島行在所(あんざいしょ)
 明治5年、明治天皇西国御巡幸の際に、6月17日に一泊され、同20日の夜に休憩された行在所の建物です。
 ここは旧藩時代には、藩米の集荷積出しを手広く行っていた米村家の所有地でした。米村家は当時小島第一の豪家であったため、藩主が小島に来られたときはその宿泊所(御旅所)に当てられていました。
 このため明治天皇御巡幸の際にも、白川県(現在の熊本県)は天皇の行在所を米村家と指定しました。
 当主米村基三郎は天子様が来られるというので、別荘用に用意していた材料を使い、大急ぎで二階建を新築しました。この2階10畳の間に玉座があります。二階への上り段が急なので、天皇がつかまって上られるように白と緋の縮緬で練った紐を上から垂らしていたそうです。紐は現在も行在所に保存されています。
 
 
 
 (市指定文化財 史跡) 楢崎山古墳群
 金峰山南側の山塊、権現山から南東側に半島状に伸びる通称楢崎山の山頂付近を中心に展開する古墳群で、昭和42年から43年にかけて調査が行われ、円墳10基と箱式石棺3基が発見されています。
 墳丘が現存するものは2・4~9号の7基、そのうち5~9号の5基が指定となっています。
 いずれも山頂に近い側を半周溝状に削って盛土しており、横穴式石室を持つと考えられています。
 4号墳の石室内は赤彩されていることが分かっています。
 5号墳は石室内部に石障をめぐらし、内側は「コの字形」に区画してあります。石室からは挂甲や鉄鏃が出土しています。
 7号墳は石室奥に石屋形を持ち、須恵器や金具などが出土しています。
 これらの古墳は、その構造や出土遺物から、5世紀から6世紀にかけて造られたものと考えられています。 
 
(市指定文化財 史跡) 千金甲丙号古墳群新しいウインドウで(外部リンク)
 ※「熊本市の指定文化財等」>「史跡 市指定33」>3千金甲丙号古墳群 参照

 大正年間の京都大学の報告書に、千金甲古墳のうち丙号としてあげられている三つの内の2基で、残りの一つは消滅していますが、おそらく箱式石棺であったと考えられています。
 2基の内1基は乙号墳の少し北側にある円墳(2号墳)で、天井と羨門が開口しています。
 乙号墳によく似たつくりで、大きな石屋形があり、もとは赤く塗られていましたが、今では彩色は全く消失してしまい、遺物も全く残っていません。6世紀中頃のものと考えられています。
 残りの1基は高城山の南西端、千金甲集落の真上にある円墳(5号墳)で、これも天井部分が開口し、盛り土はほとんど流失しています。石屋形はかなり省略されており、6世紀後半の所産と考えられています。 
 
(国指定登録有形文化財) 濱田醤油の建物群新しいウインドウで
※「熊本市の指定文化財等」>「国 登録有形文化財25」>15浜田醤油の建物群 参照

 浜田醤油は安政年間(1854~1860年)に創業された老舗の商家です。
 浜田家の初代卯七は穀物商で身を起こし屋号を「浜屋」と定め、明治20年(1887年)の3代目卯作の時に醤油・味噌の醸造業を手がけるようになりました。
 店舗は幅12メートル、奥行10メートルの木造2階建で、通り沿いに東面して建ち、外壁を白漆喰で塗り込め、北半分は腰を海鼠壁(瓦を張り目地として漆喰を半円形に盛り上げるように仕上げた壁)に、南半分は深い庇を設けて開口とするなど意匠を違える工夫をし老舗の風格を見せています。
 浜田醤油は老舗にふさわしい重厚で風格ある外観を持ち、連続する土蔵白壁、煉瓦造の給水塔、煙突は美しい景観を形成し地域のシンボルとなっており、近代熊本の醸造業の歴史を知ることのできる資料としても貴重な建造物です。
 登録されている建物は主屋、洋館、三番蔵、旧圧搾機室、旧原料倉庫、旧石室、給水塔、煙突の8つとなっています。
 
 
☆白川の石刎(いしはね)
 石刎は加藤清正が治水・土木工事に良く用いた工法で川岸に亀の甲羅のように石を積み上げ、河川の水の勢いを弱めて川岸を侵食から守るための構造物です。
 小島公園内の旧白川の河川敷にはかつて4基ほどあった石刎のうち1基が残されています。
 なお、昭和28年の6.26水害を機に白川は改修され、蛇行していた河道は直線化され、現在の姿になっています。 


 

 

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.明治天皇小島行在所(上記の【文化財等】に記載しています。)

2.濱田醤油(上記の【文化財等】に記載しています。)

 

【イベント】

☆スカイフェスティバルin小島

 毎年4月、グライダーの試乗等が楽しめる小島校区挙げてのイベントとして、小島の白川河川敷で開催されています。

 このフェスティバルでは地元農水産物を使った料理の提供をはじめ、明治天皇小島行在所等の史跡や古い町並みの探索などが実施されており、小島校区の魅力を広く県内外に紹介する絶好の機会となっています。
 今日では、九州管内から4,000名を超える来場者が訪れています。
 
【特産品】 
農産物 たまねぎ
 稲刈りが終わった田んぼで裏作を中心に栽培されています。本市の全栽培面積約40haのほとんどが西区管内にあり、収穫は2月下旬から始まり5月上旬をピークに6月下旬まで続きます。
 たまねぎの効能としては新陳代謝の促進、疲労回復、食欲増進のほか「血液をサラサラにする」働きがあります。
 小島地区のたまねぎは辛味が少なく、みずみずしく甘いので、生のまま食べても十分おいしさを味わえます。
 

中島

概 況

【地勢】

 西区の最も南西部に位置し、有明海に面しています。
 また、校区の北側に白川、南側に除川が流れています。

【歴史】

 校区の大半は干拓地でその歴史は慶長時代に遡ります。
 明治22年(1889年)町村制の施行に伴い中島、中原、沖新の3村で組合村がつくられ、昭和16年(1941年)に合併して中島村となりました。

【交通】 

 本市の海の玄関である熊本港を擁しており、校区内を県道熊本港が横断しています。

 

【産業】

 干拓地には田畑が広がっており、トマト、メロンをはじめとする野菜の栽培が盛んで、特に高砂地区ではハウスによる早出しレンコンが栽培されています。
 また、有明海の干潟では、海苔の養殖やアサリの採貝なども行われています。

 

【熊本市との合併】

 昭和 33年4月1日 中島村(当時人口4,600人)を編入

 

 【人口】

 人口は、令和5年4月1日現在で3,964人。高齢化率は30.8%で、西区平均31.3%を0.5ポイント下回っているものの、熊本市平均27.1%を3.7ポイント上回っています。

 

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)  

区分

構成比

合計

総数

100%

3,964人 1,918人 2,046人

0~14歳

14.6%

580人

313人 267人

15~64歳

54.6%

2,163人

1,107人

1,056人

65歳以上

30.8%

1,221人 498人 723人

 

            

【面積】
 8.43平方キロメートル  (西区 16校区地区中 3番目の広さ)
 

まちづくり活動の状況

 「みんなが集い・ふれあう・ふるさと」を創ろうと、平成9年7月、「中島校区まちづくり委員会」が発足しました。委員会では、港の景観を住民でつくろうと、道路沿いに花植えを行う「熊本港花いっぱい計画」や、校区自治協議会などの協力のもと、「熊本港みなとまつり 中島納涼花火大会」などを実施しています。

健康まちづくり活動の目指す姿

 家族や地域とのつながり(ひっぱりこっぱり)を大切にし、笑顔で暮らせる健康なまち

各種施設

【公共施設等】

 熊本港    管理事務所    電話 096-329-4411

 水産振興センター        電話 096-311-4010

 西部浄化センター        電話 096-329-0707

 中島コミュニティセンター    電話 096-329-2100

  

 中島小学校 学級数 14  児童数 269人(令和5年5月現在)

 城西中学校 学級数 11  生徒数 217人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 中島中央公園

【幼稚園・保育園】

 中島保育園(市立)            電話 096-329-7309

 かおる保育園               電話 096-329-2525

 幼保連携型認定こども園 西部音楽幼稚園  電話 096-329-7889

 

【警察・消防】

 南警察署中島駐在所         電話 096-329-3801
 西消防署小島出張所         電話 096-329-1080

 

【病院・診療所】

 ひらやま整形外科クリニック     電話 096-329-5000

 山脇歯科医院            電話 096-329-7930

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ熊本西          電話 096-329-2016

  

自然・名所・旧跡等

【自然】
 ☆有明海
 中島校区はそのほとんどが有明海の干拓によって生まれました。
 有明海は日本最大の干潟を有し、独自の生物相を特徴とする海です。総面積は約1,700平方キロメートルで、東京湾や大阪湾より大きく伊勢湾と同規模の大きさです。
 また、干満の差が大きく、緑川河口(南区)では干潮時に6キロメートル沖合いまで干潟が出現します。
 この干潟にはシオマネキやゴカイ、アナジャコ、アサリ、ハマグリなど多様な生物が生息しています。
 本市の有明海での魚類や貝類の漁獲高は減少傾向にありますが、養殖海苔は年によって変動はあるものの毎年60億円前後の生産額となっています。
 

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.熊本港

 白川河口と緑川河口との間にはさまれた熊飽海岸の地先に、物流港湾として熊本県により整備が進められています。
 熊本市中心部からわずか10kmの圏内に入る有利な地理的条件の下にありながら、港を建設するうえで全国的にも希な厳しい自然条件があり、長らく港湾建設が着手されないままでした。
 しかし、土木技術の発達によりこうした厳しい自然条件下でも港湾建設が可能となり、新港建設に対する多方面からの要望に対し、産業流通港としての計画が策定され、昭和49年4月重要港湾の指定を受け建設が始まりました。
 現在も熊本都市圏と結ぶ物流・人流の拠点に向けた港湾整備が進められています。
 熊本港の施設は、フェリー岸壁(-5m:2バース)、公共岸壁(-4.5m:2バース、-5.5m:3バース、-7.5m:1バース)及び漁船・官公庁船だまりが完成・供用されており、引き続き物流機能の強化に向けた航路や防波堤の整備とともに、港湾機能を保持するために必要な整備が着実に進められています。(熊本県ホームページより)

 

 

 

2.熊本港物産館

 熊本港行きのフェリーが発着するターミナルビルの1階にあり、菓子、食品、酒類など熊本のおみやげ・特産品が豊富に取り揃えてあります。
  
 

【イベント】

☆熊本港みなとまつり・中島校区夏まつり花火大会

 熊本市の海の玄関口で観光、物流、交通の拠点である熊本港をより多くの人に知ってもらい、西部地区の発展に繋げるとともに子どもたちの健全育成を図ることを目的に8月上旬に熊本港で開催されています。

 主催は地元中島校区の各種団体からなる熊本港みなとまつり実行委員会で、200人を超える校区住民が事業スタッフとして参加されており、校区挙げての一大イベントとなっており、来場者は毎年15,000人に上っています。
 
 
【特産品】 
1.農産物 れんこん
 本市でのレンコンの栽培は昭和24年頃沖新町高砂地区で栽培されたのが始まりとされています。
 初夏、この地区のレンコン田には、みずみずしい葉っぱと美しい蓮の花のじゅうたんが広がります。
 ハウスで栽培される高砂地区の早出しレンコンは、全国でも有数の産地として、5月中旬頃から全国に先がけて出荷が始まり、主に関東や中国地方、九州では福岡などに出荷されています。
 みずみずしさとあくが少なくサクサクの食感が高砂レンコンの特徴で、有明海に面した温暖な気候と本市の豊かな水資源を活かして栽培されたレンコンはまるで白い宝石のようです。
 
 
2.水産物 海苔、あさり
 
 
3.アリウム(花き)
 全国に出荷されているアリウムの9割を熊本県、うち5割を西区(中島及び城山校区)で栽培出荷しています。
 出荷時期は、2月中旬から6月まで。おもに生け花の季節商材として重宝され、根強い人気があります。
 この花は、控え目な華やかさと造形の面白さが特徴です。華頂の美しさとともに、茎の曲がり具合とバランスが価値を大きく左右します。最近では、生け花以外にも花束やアレンジメントなどに主役として使われることも増えていて、テレビ番組や雑誌で見かけることも多くなりました。
 

芳野

概 況

【地勢】

 金峰山の北側に位置し、玉名市との境界にある金峰山の外輪山二ノ岳や三ノ岳などの山々に囲まれており、平地が少ない地域です。
 校区の南側には金峰山の山裾に沿って河内川が流れています。
 また、校区の北側には井芹川の支流である西谷川、立福寺川などが流れています。

【歴史】

 明治22年(1889年)4月1日町村制施行時に面木、嶽、東門寺、大多尾、野出の五ケ村が合併して芳野村となりました。

 金峰山系の連峰の美しい自然環境に囲まれ、桜などの花咲くところという意味から「芳野」という呼び名になったといわれています。
 昭和31年(1956年)には河内村と合併し河内芳野村となり、さらに昭和46年(1971年)に町制が施行され河内町となっています。

 明治35年(1902年)河内、船津、白浜の3村が合併し河内村となり、昭和31年(1956年)芳野村と合併し河内芳野村となりました。
 その後、昭和46年(1971年)に町制施行し河内町となっています。
 

 

【交通】

 校区内を東西に県道1号線(熊本玉名線)が横断し、101号線(植木河内港線)が縦断しています。  

  

【産業】

 主な産業は農業で、山の南斜面等には温州みかんや梨などの樹園地が広がっており、河内川などの川沿いには棚田での稲作も見られます。

 

【熊本市との合併】

 平成3年2月1日 河内町(当時人口 8,525人)を編入

 

 【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で1,707人と昭和31年9月(芳野村と河内村合併時)の3,344人の5割に減少しています。
 高齢化率は45.4%と西区平均31.3%を14.1ポイント、熊本市平均27.1%を18.3ポイント上回っています。

(令和5年4月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数  

100%

1,707人

814人

893人

0~14歳

9.3%

158人

77人

81人

15~64歳

45.4%

774人

392人

382人

65歳以上

45.4%

775人

345人

430人

 

         
【面積】
 23.03平方キロメートル (西区 16校区地区中 最も広い) 

まちづくり活動の状況

【めざす校区の姿】

1.健康で明るい活気あふれるまち

2.他の地域から多くの人が訪れるまち

3.若い人たちが住みたいと思えるまち

 

【まちづくり活動の状況】

 自治会をはじめ、町内の各種団体の代表者を構成員として地域住民と行政による金峰山エリアの魅力発信事業が行われています。

 その他、有志による各種団体のまちづくりに関連した活動が増えています。 

 
 
 

健康まちづくり活動の目指す姿

  三世代、豊かな自然、豊かな心、笑顔あふれるまち芳野
 

各種施設

 【公共施設】

   芳野コミュニティセンター     電話 096-277-2001

 河内まちづくりセンター芳野分室  電話 096-277-2001

 河内グラウンド          電話 096-277-2148

 金峰森の駅みちくさ館       電話 096-277-2727

 

 芳野小学校 学級数 8  児童数  76人(令和5年5月現在)

 芳野中学校 学級数 5  生徒数  41人(令和5年5月現在)

 

【主な公園】

 金峰山県立自然公園、野出峠の茶屋跡

 峠の茶屋公園     電話 096-277-2157  

 

【幼稚園・保育園】

 幼保連携型認定こども園

  芳野保育園     電話 096-277-2036 
  

【警察・消防】

 南警察署河内駐在所  電話 096-276-1382
 西消防署河内出張所  電話 096-277-2767

  

【金融機関等】

 芳野郵便局      電話 096-277-2042

 JA芳野        電話 096-277-2002

 河内塩屋簡易郵便局  電話 096-276-1817

 JA河内支店      電話 096-276-1117

 

【病院・診療所】

 芳野診療所      電話 096-277-2007

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ金峰    電話 096-277-2588

 

自然・名所・旧跡等

【自然】

1.金峰山県立自然公園

 金峰山を中心とする自然公園で玉名市、玉東町にも広がっています。面積は73.19平方キロメートルで 1955年に指定されました。
 山と渓谷の豊かな自然美と果樹園,多くの史跡などを特色としています。
 金峰山からは熊本市街、有明海、雲仙岳、阿蘇山などが眺望できます。

 

2.金峰山新しいウインドウで(外部リンク)

 西区のシンボルともなっている標高665.2mの火山で別名「飽田山」とも呼ばれています。
 現在、火山活動はしていません。本来は金峰山というと一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳、権現山、荒尾山を含むカルデラ一帯を指す言葉ですが、一般的には一ノ岳のことを金峰山といいます。
 「新熊本市史」によると、この金峰火山は、カルデラを持つ二重式火山であり、二ノ岳や三ノ岳などの外輪部の多くの山は古い火山で構成されています。そのカルデラ内には芳野層と呼ばれる湖の堆積物が分布しており、以前カルデラ内には湖があったそうです。その芳野層を15万年から37万年ほど前に貫いて溶岩ドームである金峰山が形成されました。
 金峰山系には長命水、鑪水、天水湖など多くの湧水があり、国の「平成の名水百選」として金峰山系一帯に点在する20か所の湧水が「金峰山湧水群」として認定されています。
 

3.二ノ岳 

 市内一の標高(685.5m)を誇り、別名「熊ノ岳」とも呼ばれています。
 野出公民館前に登山道入り口があり、野出春日神社の境内を抜け、林の中の自然歩道をおよそ30分登ると頂上に着きます。
 山頂からは東方に熊本市街地、雁回山、阿蘇の山々を一望することができます。また、西方には、有明海、天草の島々、雲仙島原、普賢岳などの広大な眺めが広がっています。
 三ノ岳へと縦走するこのルートは市民の人気コースとなっています。
 

4.三ノ岳

 別名を那智岳といい、標高は681.5mで熊本市の山としては二の岳に次ぐ高さです。

 山頂からは二ノ岳同様、美しい景色を一望できます。
 頂上付近の林から少し入った場所では三角点の標石を見ることができるほか、近くには鎌倉時代に創建された三ノ岳聖徳寺奥の院があります。
 

 

【名 所】

拝ケ石巨石群新しいウインドウで(外部リンク)

  金峰山の北側にある「拝ヶ石」と呼ばれる巨石群です。

 最も大きな石は約9mの高さがあり、巨石文明の遺跡ではないかという説もありましたが、その後の調査で、中世の宗教遺跡ではないかと考えらています。
 岩にペトログラフといわれる古代文字が刻まれていると話題になったり、方位磁石が回転するなどの磁気異常が見られ、パワースポットとして注目が集まっています。
  
 

【水遺産等】外部リンク新しいウインドウで

1.金峰山湧水群

 金峰山系一帯に点在する20箇所(熊本市内19箇所、玉名市1箇所)の湧水群を指しています。
 九州巡幸をされた明治天皇に水を献上した「天水湖(てんすいこ)」、細川藩のお茶屋として造られた「釣耕園(ちょうこうえん)」、宮本武蔵が「五輪書」を著した霊巌洞がある「雲巌禅寺(うんがんぜんじ)」、夏目漱石など文人画人が多く訪れた清雅な山水庭園をもつ「成道寺(じょうどうじ)」などがあります。
 この地域では、地元自治会が地域の湧水を活かして、地域の観光マップを作成し、地域の活性化を図ったり、地域の祭り等に活用したりしています。また、NPOが、自然観察会などを開催し、自然環境保全の大切さを伝えています。

 

 2.上川床(かみかわどこ)の湧水

 県道沿いの崖地に、一見バームクーヘンのような地層が露出しています。

 これは芳野層といい、金峰山カルデラ内が湖だった頃の地層で、その上部から湧水しています。
 
3.鼓ケ滝(つづみがたき)
 金峰山カルデラの渓谷にあり、景勝地「肥後耶馬渓」の見所の一つです。
 県道101号線(植木・河内港線)と「岩戸の里公園」への分岐点側の河内川にあり、滝の水のこだまする音が鼓の音に似ていたことから鼓ケ滝と名付けられました。
 滝の上方に歌詠場があり、ここで平安時代の歌人、清原元輔(清少納言の父)が歌を詠んだと言われています。
 
4.棚田
 水をたたえた田植え時期、黄金色に輝く稲刈り時期が見ごろです。面木(おものぎ)地区、大将陣(たいしょうじん)地区の棚田が有名です。 

 

【主な神社・仏閣】

1.金峰山神社

2.野出春日神社

 

 

【文化財等】

(市指定文化財 美術工芸品) 面木(おものぎ)木造十一面観音坐像

 旧河内町には本像を含めて室町時代の作と推定される仏神像が10体余り存在しますが、銘文によって造立年代がはっきり知られるのは本像だけです。

 この時代の仏神像は素人の手になると思われる素朴なものがほとんどで実際の造立年代を知ることは極めて難しいのですが、本像には墨書銘天文4年(1535年)があり、当時を知る上で大変貴重なものです。
 
(市指定文化財 美術工芸品) 増福寺銅造誕生仏 
 増福寺の誕生仏は既に鍍金が失われていますが、元は金銅仏であったと思われます。
 この像も左手を挙げ襷をかけたような形をとり、頭は露頂で台座の蓮弁が尖り気味に造られています。中国あるいは朝鮮の作であり製作は明あるいは高麗時代と推定されます。
 誕生仏とは、釈迦が生まれたとき七歩歩き天地をさして、「天上天下唯我独尊」と言ったという故事に基づいてつくられたものです。
 
(市指定無形民俗文化財) 野出(のいで)春日神社大神楽
 遠く大永元年(1521年)に地区の守神に対して国家安泰、子孫繁栄、五穀豊穰祈願のための奉納神楽として始められたと伝えられています。
 野出春日神社の祭りは年7回ありますが、神楽が全部奉納されるのは10月15日の大祭の日だけで延々6時間程度11種を演舞しています。
 野出神楽は、肥後神楽の系統に属するもので、まず神を招きよせる演目に始まって最後に地面を踏む「地固め」が演じられますが、この形式は神楽本来の意味をよく示しているといえます。
 
(市指定無形民俗文化財) 大多尾(おおたお)大神楽 
 10月15日の秋祭など年6回大多尾日吉神社に奉納される神楽で、肥後神楽に属します。
 肥後神楽は、基本的には採物(御幣・鈴・剣・弓等)を手にして舞われるものであり、「国津」においては、仮面が用いられ詞章が語られます。
 この点大多尾神楽は肥後神楽の特色を保持しています。
 演目数は、12番で通常の演目数です。
 舞の動きがゆるやかで、太鼓の音ともよく合い洗練され県下の肥後神楽のなかでもよく出来た神楽です。
 地区氏神に国家安泰、五穀豊穰を祈願する奉納神楽であり、文献等はありませんが、古い形を残しています。
 
 (市指定文化財 史跡) 道家之山の墓
 道家之山は名を一徳、通称角左ヱ門、隠居後之山と称します。
 禄高百石奉行兼用人となり、維新後権大参事に任ぜられています。
 後、官を辞し隠居、川床に居を移しました。
 隠居後も藩政に影響をもつ実学党の一人でした。
 明治17年5月4日没66歳。
 
(市指定文化財 史跡) 嶽麓寺(がくろくじ)跡の中世石造物群
 板碑2基は大永5年卯月吉日(1525年)と永禄2年8月22日(1559年)、五輪塔7基の中には天文22年4月3日(1553年)と天正元年10月5日(1573年)の紀年銘があります。
 その外は16世紀後半から17世紀前半の造立で、宝篋印塔1基は16世紀の造立です。
 嶽麓寺は古くは天台系統の寺院であったとみられていますが、江戸時代になって曹洞宗寺院として復興、明治になって廃寺となりました。
 
 (市指定文化財 史跡) 畳ヶ石
 中世に初めて河内の地名が出るのは、南北朝初期暦応3年(1340年)の「三池心応四方指写」によります。
 河内村を含む飽田郡池上庄の支配者三池心応が河内村を支配する五郎兵衛に対し池上庄と分村の河内村の境を指示したものです。
 その北境の起点となったのが畳ヶ石です。
 西に向いて切り立った岩で上部は平坦で畳のように細長いため付けられた名といわれています。
 この畳ヶ石は、白浜地区と野出地区の双方にまたがっています。
 
 (国登録有形文化財) マミフラワーデザイン熊本教室花峰館(旧鐘淵紡績熊本工場診療所)
 花峰館(旧鐘淵紡績熊本工場診療所)は、明治44年鐘淵紡績(株)熊本工場内に新築された診療所で、平成14年まで使用されていました。
 明治期に作られた工場付属の診療所や町の病院建築は、殆ど現存していませんが、この診療所は、大きな改変も行われず当初の姿を保っており、また用途もそのままで近年まで使用されており、当時の医療事情や社会事情、病院建築を知るうえでも貴重な資料です。
 平成15年に現在地に移築後、平成16年よりフラワーデザイン教室として活用されています。

 

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.草枕の道

  夏目漱石の小説「草枕」の舞台となった道が芳野校区を横断しています。

 明治30年(1897年)の暮、漱石は友人の山川信次郎とこの道を通り、小天の前田家別邸まで歩いて行き、離れに数日間、宿泊しています。
 城西校区の「岳林寺」から「鎌研坂」、芳野校区の「鳥越峠の茶屋」、「石畳の道」、「野出峠の茶屋」を通り、天水町の「前田家別邸」までの道16kmを「草枕の道」として、熊本市と玉名市で案内板や標識などの整備をしています。
 市民のみならず観光客にもハイキングコースとして親しまれています。
 
 漱石が小天旅行の時に通った峠が、鳥越峠と野出(のいで)峠です。
 当時この2つの峠には茶屋があり、有名な「草枕」の一節「おい、と声をかけたが返事がない」はこのどちらかの茶屋が舞台といわれています。
 現在、野出峠は有明海や島原半島を望む展望公園として整備されていますが、茶屋はありません。
 しかし、この鳥越峠には茶屋が再建され、峠の茶屋公園として整備されています。公園には、休憩所や売店があり、今も、ハイキング途中の人々やドライブ途中の人々が一服する場所となっています。
 また、再建された峠の茶屋の内部は、漱石に関わる資料を展示した資料館として公開されています。
 

3.石畳の道新しいウインドウで(外部リンク)

 石畳の道は漱石が歩いた当時の面影をほとんどそのまま残しているといわれており、竹林や石畳に笹の葉が積もり、趣きのある道として人気があります。

 案内板が整備されているので、初めて訪れる人でも気軽に散策ができます。
 

4.野出峠の茶屋公園新しいウインドウで(外部リンク)

 漱石が小天旅行の時に通った峠が、鳥越峠と野出(のいで)峠です。
 当時この2つの峠には茶屋があり、有名な「草枕」の一節「おい、と声をかけたが返事がない」はこのどちらかの茶屋が舞台といわれています。
 現在、野出峠に茶屋は残っていませんが、有明海や島原半島を望む展望公園として整備されています。
 
 有明海や雲仙岳を展望できる名所のひとつです。
 昭和37年、天皇陛下が皇太子のとき皇后陛下とご一緒に立ち寄られました。
 漱石の「降りやんで 蜜柑まだらに 雪の舟」の句碑もあります。
 


6.金峰山山頂
 山頂のテレビ塔が目印の金峰山。熊本市内のどこからでも見渡せる市のシンボルとして、地元の人々に親しまれています。
 標高665mの山頂からの眺望は素晴らしく、熊本市街をはじめ、有明海や雲仙、阿蘇、九州山地、天草の島々など広大な景色が一望できます。
 また、夜景の名所としても知られています。
 金峰山はその山自体が御神体として古より、祀られてきており、山頂には金峰山神社があります。
 
 
【特産品】

1.芳野なし

 金峰山東山麓の岳地区や二ノ岳、三ノ岳東山麓の東門寺、大多尾地区では梨の栽培が盛んで、 県内でも荒尾市や氷川町と並んで有数の梨生産地です。
 7月中旬から10月上旬まで幸水を皮切りに、露地栽培の幸水・豊水・秋麗・あきづき・新高とその時々の旬の梨が出荷されています。
 
 

 

2.河内みかん新しいウインドウで(外部リンク)

 芳野校区においても河内みかんの栽培は盛んで、金峰山や二ノ岳、三ノ岳山麓で栽培されており、主要な農産物となっています。

 

3.ゆず

 栽培面積は約3haで、生産量はおよそ40tです。

 「ユズ」は、中国揚子江上流が原産と言われ、日本には飛鳥時代・奈良時代に渡来したと考えられています。
 芳野地区は、温州みかんや梨、梅などの栽培が盛んですが、「ユズ」は柑橘類の中でも耐寒性が強いため、温州みかんの作付けに向かない寒が溜まりやすい場所などで約25年前から栽培が始まりました。芳野地区の「ユズ」は、県内をはじめ県外にも出荷されています。
 
4.その他農産物

 梨やみかんのほかにも菊などの花き、桃や梅などの果樹も栽培されており、春先にはタケノコも出荷されています。

河内

概 況

【地勢】

 西区の北西に位置し、金峰山系の河内山(363.2m)などの山々が海岸部まで迫っており、平地が少ないところです。
金峰山麓を源流とする河内川が校区を横断し、有明海に注いでいます。
 北西端の白浜地区には干拓地が広がっています。

【歴史】

 河内阿蘇神社の創建は1,300年前といわれ、古より人々が生活していたことが伺えます。また、天明2年(1,782年)に温州みかんがこの地に伝わり、広く栽培されるようになりました。昭和9年の県果樹試験場の開設により、栽培技術や生産性の向上により全国的にも有数のみかんの産地となりました。

 明治35年(1902年)河内、船津、白浜の3村が合併し河内村となり、昭和31年(1956年)芳野村と合併し河内芳野村となりました。
 その後、昭和46年(1971年)に町制施行し河内町となっています。
 

 

【交通】

 海岸線沿いに国道501号線が、河内川沿いに県道河内港線が通っています。  

  

【産業】

 主な産業は農水産業で、海岸に面した丘陵地では温州みかん(河内みかん)や不知火、河内晩柑など柑橘類の栽培が盛んです。
 また、白浜地区ではハウス栽培によるイチゴ等の生産も行われています。
 有明海では海苔の栽培が行われています。

  

【熊本市との合併】

 平成3年2月1日 河内町(当時人口 8,525人)を編入

 

 【人口】

 人口は令和5年4月1日現在で3,603人と昭和31年9月(河内村と芳野村合併時)の7,345人の5割に減少しています。
 高齢化率は43.3%と西区平均31.3%を12.6ポイント、熊本市平均27.1%を16.7ポイント上回っています。

 

(令和5年5月1日現在 住民基本台帳人口)

区分

構成比

合計

総数

100%

3,603人 1,725人 1,878人

0~14歳

9.4%

337人 178人 159人

15~64歳

46.8%

1,687人 868人 819人

65歳以上

43.8%

1,579人 679人 900人

 

         
【面積】
 10.7平方キロメートル  (西区 16校区地区中 2番目の広さ) 

 

まちづくり活動の状況

  自治会をはじめ、町内の各種団体の代表者を構成員として地域住民と行政による金峰山エリアの魅力発信事業が行われている。その他、有志による各種団体のまちづくりに関連した活動が増えています。

 

健康まちづくり活動の目指す姿

仕事に誇りを持ち、親みたいに生涯仕事を続け、気の合う仲間と一緒に楽しみながら生活をする。

各種施設

 【公共施設】

   河内まちづくりセンター       電話 096-276-1111
   河内交流室・公民館       電話 096-276-0133
   河内地域コミュニティセンター  電話 096-276-0066
   河内老人福祉センター      電話 096-276-1428

   河内住民広場

   白浜グラウンド

 

 河内小学校 学級数 9  児童数  162人(令和5年5月現在)
 河内中学校 学級数 5  生徒数  71人(令和5年5月現在)

  

【幼稚園・保育園】

 たちばな保育園    電話 096-276-1481
 河内からたち保育園  電話 096-276-1186
  

【警察・消防】

 南警察署河内駐在所  電話 096-276-1382
 西消防署河内出張所  電話 096-277-2767

  

【金融機関等】

 河内郵便局      電話 096-276-0042

 河内塩屋簡易郵便局  電話 096-276-1817

 JA河内支店     電話 096-276-1117

 

【病院・診療所】

 聖ケ塔病院      電話 096-276-1151
 堀尾内科医院     電話 096-276-1515
 安田歯科医院     電話 096-276-1933

 ひろた歯科医院    電話 096-276-1080

 

【地域包括支援センター(高齢者の総合相談窓口)】

 ささえりあ金峰    電話 096-277-2588

 

 

自然・名所・旧跡等

1.天水湖 

 明治5年(1872年)明治天皇の熊本巡幸の際に献上された水で、この水を「天長水」、湧水地を「天水湖」と呼ぶようになったという由緒ある湧水です。

 
2.鑪水
 樹齢6百年以上という銀杏の根元から湧水しています。
 古名は轟水といい、製鉄を意味する鑪(たたら)の名を冠し、その昔製鉄に使われた歴史を物語る湧水で、熊本名水百選の一つです。
 
 

 

 

3.恵比寿まつり

 恵比寿まつりとは、豊漁、豊作と航海安全を祈願する民間信仰で、漁業が盛んな地域で行われています。

港などに恵比寿像を祀り、神事や海上パレード、会食などが行われています。
 漁協主催で行われるところが多く、漁師さんをはじめ地域住民も参加するところもあります。
  

4.鮎帰橋

 肥後耶馬渓の下流、河内川に架かる橋で、弘化3年(1846年)に肥後の石工により造られました。橋長12.3m、橋幅6.5m、径間7.9mのアーチ形の石橋です。
 橋の下流には鮎帰滝があり、近年、水車小屋も整備されています。

 

 

【主な神社・仏閣】

1.河内阿蘇神社

 藤原鎌足の5代目子孫にあたる藤原泰忠が、霊亀元年(715年)に阿蘇神社を祀り、天下泰平、五穀豊穣を祈願したのが由来とされています。
 2015年7月20日には鎮座1300年の記念祭が開かれました。

 

2.蓮光寺

 開基は正保元年(1644年)。初代住職は京都出身の明玄。明玄は小川内から聖ヶ塔に至る丘の中腹に小庵を建立し、碧海山蓮光寺と号しました。
 その後、代を重ねるにおよび現在の敷地に移転しました。本尊は阿彌陀如来です。

  

 

【文化財等】

(市指定美術工芸品)江月院銅造誕生仏 

 江月院の誕生仏は既に鍍金が失われていますが、誕生仏として年々の祭に甘茶をかけられて、地肌があらわれたものと思われます。

 左手を挙げ(日本の誕生仏は普通右手を挙げる)襷をかけたような形をとり、頭が露頂で台座の蓮弁が尖り気味に造られています。
 中国あるいは朝鮮の作であり製作は明あるいは高麗時代と推定されています。

  

 
(市指定歴史資料)尾跡地蔵講帳・恵美須祭礼帳・西之宮講帳
 地蔵講帳は文化7年(1810年)、西之宮講帳は嘉永元年(1848年)の各1年間、恵美須祭礼帳は安政元年(1854年)から昭和30年代までの記録帳で、農民の書いた村の歴史です。
 輪番製で祭礼をとりおこない各年の祭主が記録したもので、特に農業に関する事柄、天候、農作物の出来・不出来、価格、世情一般、事件の記録が書かれています。
  

(市指定歴史資料)河内町役場文書

 宝暦14年から昭和までの役場文書であり、特に近代初頭の町村制施行、河内、船津、白浜三村合併の状況を知る上で貴重な資料です。

 また、近代の町村史料としては県下でも最も充実した稀有な行政資料です。
 

(市指定歴史資料)津波供養塔・津波供養碑

 寛政4年(1792年)4月1日雲仙岳眉山の山崩れによる津波は有明海沿岸地方に甚大な被害を与えました。
 供養塔は、翌年4月造立された宝篋印塔形のもので、願主は熊本市坪井泰陽禅寺第8世太釣円忠、石工は対岸の肥前永石昌豊です。
 また、供養碑は4か所6基あり、その中には船津村、河内村、白浜村、近津村の四か村の罹災死者「人数765名」と刻まれているものもあり、当時の被害の甚大さが窺えます。
 
 
   

(市指定無形民族文化財)白浜岩戸神楽

 毎年10月15日に白浜神社祭礼で行われる白浜岩戸神楽は、肥後神楽に属するもので、11種の演目で構成されています。

 舞う範囲は極めて狭く小太鼓を使用する点が肥後神楽に共通しています。
 さらに、この神楽の舞子は全て子ども達であり、小学4年のときから舞いはじめて年齢が大きくなり、進学や就職で人数がそろわなくなるまで大体6年から8年をひと区切りとして交替しています。
 国家安泰、五穀豊穰祈願奉納の神楽です。
  

 

(市指定天然記念物)河内晩柑原木

 下記の特産品に記載しています。

 

 

(市指定史跡)塩屋北ノ崎古墳

 昭和42年7月山林の果樹園造成工事中に発見された古墳です。

 石室の奥行き3.3m、羨道の奥行き0.8m、玄室の奥行き2.5m、玄室への入口は幅0.66mです。
 石室構築手法より、6世紀前半もしくは中期頃のものと考えられています。
 河内町の古墳は果樹園造成によりほとんどが壊され、現存する古墳は2基であり、貴重なものです。
  

(市指定史跡)砂鉄水路跡

 中川内、平、鵜通洞(うつどう)の字境に鉄砂(鉄砂開、鉄砂うち)と呼ばれる所があります。

 鵜通洞で砂鉄が取られていたことから名付けられたものです。
 砂鉄を取り出すため、岩戸から鵜通洞までの約3キロの水路が、北斜面の中腹に樋を架け或いは岩を掘り造られています。
 現在2か所が遺溝として確認されています。この砂鉄採集が行われたのは、安政年間の頃で外国からの開国要求で沿岸防備等のため大量の鉄が必要な時期でした。
 当時の砂鉄採集法は「カンナ流し」と称する方法で、傾斜地に樋を架け水を流し砂を投入し分離するものでした。
  

(市指定史跡)加藤家墓地

 細川家に仕えた加藤家歴代の墓地です。

 先祖加藤半右衛門は伊勢国の人で慶長7年(1602年)細川忠興に召し出され代官役を勤めました。
 その子右兵衛景尚は寛永3年(1626年)に知行高百石を与えられ細川忠利の肥後入国のお供をし、のちに白浜定御番に任命され慶安元年(1608年)8月に没し、この墓地に葬られ、以後加藤家累代の墓地となりました。

 中には寛政4年4月1日の大津波で死亡した人の墓も見えます。 

 

   

観光スポット・特産品

【観光スポット】

1.天水湖

2.鑪水

3.有明オレンジ園

4.肥後耶馬渓

 河内川の上流、岩戸の里公園内にあり、宮本武蔵が五輪の書を記した霊巖洞(れいがんどう)があることで有名な雲巖禅寺(うんがんぜんじ)周辺は、大分県の耶馬渓になぞらえて肥後耶馬溪と呼ばれています。       奇岩と紅葉の美しい場所です。

 

 
 

【特産品】

1.河内みかん新しいウインドウで(外部リンク)

 河内町には主峰となる金峰山に相対して、北に二つの岳があり、これより西南に広がる裾野を切り開き、みかん園の大集団が形成されています。
 この地においては、古から主に小みかんが植えられていましたが、天明2年(1782年)に現在の温州みかんの栽培が伝わりました。
 当時の河内領主牛島七郎佐衛門橘公基が小みかんより優良なものとして栽培を奨励したことが始まりとなり、昭和9年には県立果樹実験場が河内に設置され、高度な栽培技術の普及によって飛躍的な生産の向上と温州みかんの増殖が図られました。(JA熊本市柑橘部会ホームページより)

 

 平成25年度(2013年度)の西区における温州みかんの生産量は45,098トン、産出額は70億円と熊本市の9割強を占めており、全国でも有数のみかんの産地となっています。

 国道501号線沿いに建っている河内公民館(旧みかんの里振興センター)から市道「船津野出線」を登っていくと目の前に山全体がみかん畑となっている光景が広がります。みかん畑は先人の苦労が偲ばれる見事な石積みにより造られています。

 

 

2.河内晩柑

 名称は、品種が発見された河内町から「河内」と晩生の柑橘類の総称である「晩柑」からつけられています。

 外観から和製グレープフルーツとも称されます。名称にもあるように晩生であり、5月に開花してから翌年の8月や9月まで実がついているという特徴があります。晩生で越冬する必要があるため、ほとんど降霜することのない地域での栽培が必要です。そのため、生産地は河内町のほか天草市や愛媛県愛南町など少数しかありません。
 全国の生産量は、平成17年(2005年)が7,078 トン、平成22年(2010年)が8,822 トンでその内訳は愛媛県63%、熊本県35%です。
 西区での生産量(中晩柑)は平成25年度3,571トン、産出額10億円となっています。

  

3.デコポン

 熊本の特産「デコポン」。「デコポン」とは商標名で、品種名は「不知火」と「不知火」をもとに熊本県農業研究センターで改良された「肥の豊」があります。その中から、糖度などを検査して一定の基準をクリアしたものだけが「デコポン」の称号を与えられます。

 西区管内の金峰山一帯を中心に、河内地区、芳野地区、松尾地区、池上地区などで栽培されています。
 西区では、ほとんどが露地で栽培されており、出荷は2月から始まり、3月~4月にかけてピークを迎えます。
  

4.イチゴ

 河内といえばミカンが有名ですが、イチゴの栽培も盛んに行われており、河内町白浜産の糖度の高いおいしいイチゴが今年も全国各地に発送されています。

 春の代表的な果物であるイチゴは、ビニールハウスで栽培され、11月中旬から翌年の6月まで出荷されています。白浜地区を中心に、40年程前からミカンに代わる作物として栽培が始まりました。
 最近では毎日の栽培管理や収穫作業が楽になるよう、立ったままで作業ができる「高設栽培」の導入が図られています。
  

5.海苔新しいウインドウで(外部リンク)

 山と海に囲まれた風光明媚な河内町は海苔の生産日本一の有明海の中部に位置し、遠くは阿蘇山、近くは熊本市のシンボル金峰山や河内みかんの段々畑から海苔の生育に必要な栄養豊富な伏流水が注ぎ込まれ良質の海苔が生産されています。

 河内漁協は熊本県第一位の海苔の生産量で、品質の良さも評価されています。
 (河内漁協ホームページ参照)
 
このページに関する
お問い合わせは
西区役所 区民部 西区 総務企画課
電話:096-329-1142096-329-1142
ファックス:096-329-1314
メール nishisoumukikaku@city.kumamoto.lg.jp 
(ID:28376)
※資料としてPDFファイルが添付されている場合は、Adobe Acrobat(R)が必要です。
PDF書類をご覧になる場合は、Adobe Readerが必要です。正しく表示されない場合、最新バージョンをご利用ください。
熊本市西区役所〒861-5292熊本市西区小島2丁目7-1代表電話:096-329-1111
[開庁時間]月曜~金曜日の午前8時30分~午後5時15分(ただし、祝・休日、12月29日~翌年1月3日を除く)

プライバシーポリシー別ウィンドウで開きます著作権・リンク・免責事項別ウィンドウで開きますサイトマップ

copyrights(c) 2013 Kumamoto City Allrights Reserved
copyrights(c) 2013 Kumamoto City Allrights Reserved