〈8〉漱石の新婚旅行
「新婚旅行」という言葉は使っていませんが、漱石も結婚後の初めての夏休みに鏡子と旅行をしています。明治29年(1896)9月25日付正岡子規宛ての手紙で「当夏は一週間程九洲(州)地方汽車旅行仕候」と報告しています。明治34年には徳田秋声らの『新婚旅行』という小説が出ているので、「新婚旅行」という言葉が徐々に知られるようになっていたのかもしれません。
鏡子は「福岡にいる叔父を訪ねて、筥崎八幡や香椎宮や太宰府の天神やにお参りして、それから日奈久温泉などに行きました」(『漱石の思い出』)と述べていますが、日奈久温泉は、船小屋温泉の間違いです。二人がどこに行ったのかは、漱石が前述の手紙に添えて送った俳句の冒頭の10句で推測できます。それらには「博多公園」「箱(筥)崎八幡」「香椎宮」「天拝山」「太宰府天神」「観世音寺」「都府楼」「二日市温泉」「梅林寺」「船後(小)屋温泉」という前書がついています。おそらくこの順序で見て回ったのでしょう。
まず「博多公園」ですが、これは福岡市の「東公園」のことです。当時、東公園から筥崎宮まで千代の松原と呼ばれる松林が広がり、筥崎宮・一の鳥居から数百メートル先は砂浜でした。漱石はこの松林を「初秋の千本の松動きけり」と詠みました。秋風に見渡す限りの松林が大きくざわめく様子が見事に描かれました。漱石たちは箱崎駅から汽車で香椎に向かったのでしょうか。次は「香椎宮」です。『新古今和歌集』にも詠まれた「綾杉」がご神木として有名で、漱石はこの綾杉を詠んでいます。漱石たちが、その日福岡に泊まったのか、太宰府天満宮に直行したのかわかりません。しかし、妻を連れての旅ですから翌日、二日市に向かったのかもしれません。
博多駅から二日市駅まで当時汽車で30分ほどしかかかりませんでした。二日市温泉も天拝山もともに筑紫野市です。「天拝山」は菅原道真が、九州に左遷された際、この山に登り、無実を訴えたとされる山です。頂上には、大きな松があり「天拝の松」と呼ばれていました。それは遠く博多湾からも見えたそうです。駅から、二人は太宰府天満宮に向かったのでしょう。観世音寺、都府楼跡を見物し、その日は二日市温泉に宿泊しました。
次に久留米の「梅林寺」を訪ねています。二日市駅から久留米まで約1時間。親友の菅虎雄の故郷ですから菅と会ったかもしれません。そして最後が船小屋温泉です。「ひやひやと雲が来る也温泉の二階」という句を残しています。
鏡子はこの旅行で「そのころの九州の宿屋温泉宿の汚さ」(『漱石の思い出』)にこりごりし、以後は誘われても行く気になれなかったそうです。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)

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大正時代の「筥崎宮」 福岡県立図書館提供 | 昭和初期の「天拝の松」 筑紫野市歴史博物館提供 |