1 漱石とくまもと
夏目漱石が熊本で過ごしたことは皆さんよくご存知のことと思います。
明治29年(1896)29歳のとき松山からやってきました。当時の第五高等学校(今の熊本大学)で英語を教え、33歳のときロンドン留学のため熊本を後にしました。実は漱石が熊本に来て来年(2016)がちょうど120年にあたります。
また来年は亡くなって100年、そして次の年は生誕から150年になります。この記念の年にぜひ熊本の漱石を盛り上げていこうと、県や市あるいは関係グループなどが100人委員会を発足させて準備に取り掛かっています。
そこでこれを機会に「熊本の漱石」を24回にわたって紹介していきます。
さて第五高等学校(五高)では「災害は忘れた頃にやってくる」との名言で知られる寺田寅彦が生徒として学んでおり、漱石と出会い、生涯の師として仰ぐことになります。漱石は生涯で作った俳句2600余りのうち1000句近くを熊本で作っています。漱石は江津湖にたびたび訪れており、修学旅行では天草や島原へ出かけました。
ところで熊本での4年3か月の間に漱石は6回引っ越しをしました。1軒目は光琳寺町でいまの銀座通りを下通りから西へ少しはいったところです。もちろん当時銀座通りはありません。漱石はここで東京からやってきた中根鏡子と結婚式を挙げました。
「すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺」という句があります。2軒目は合羽町(今の坪井町)そして3軒目は大江村(白川小の東側)で、この家は現在水前寺公園近くに移築保存されています。
漱石はここから小天温泉に出かけ、このときのことは作品「草枕」に反映されています。4軒目は明午橋際の井川渕町ですが今はありません。
第5旧居は内坪井町に当時のまま残っており毎日観光客が訪れ、漱石が触れたであろう柱や硝子戸に身を寄せその昔に思いを馳せています。ここでは長女筆子が生まれ(漱石32歳)庭には産湯に使ったといわれる井戸がそのままあります。「安々と海鼠の如き子を生めり」は有名です。
藤崎宮の参道から北へ入ったところに6番目の家があります。漱石はここからロンドンに向けて出発します。
この家は今は個人の所有になっていますが、記念の年をきっかけに文化遺産として保存できないものか検討されています。
旧居のほかにも漱石にはいろいろエピソードがあります。熊本での漱石についてお話ししてまいりましょう。
(くまもと漱石倶楽部 和田 正隆)
2 漱石の生い立ち
夏目漱石は、本名金之助。慶応3年(1867)1月5日(新暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(現東京都新宿区喜久井町)に夏目小兵衛直克・千枝の五男として生まれました。千枝は後妻で先妻に2人の娘がおり、漱石は五男三女(ただし、四男、三女は幼い時に死去)の末っ子でした。
生まれたのが庚申※1の日にあたり、この日は大泥棒石川五右衛門が生まれた日といわれ、うまくいけば大変な出世をするが、へたをすると大泥棒になるという言い習わしがありました。名前に「金」偏の字を付けると、それが避けられると言い伝えられていたため、「金之助」と名づけられたそうです。
生まれてまもなく里子(他人に預けて育ててもらうこと)に出され、やがて実家に戻ると今度は、子どものいなかった塩原昌之助・やす夫妻の養子となります。その時期については諸説ありますが、明治2年(1869)初めまでには塩原家に入籍しています。養父母は幼い金之助を甘やかし、わがまま放題に育てました。しかし、明治8年養父母の離婚に伴い、翌年の初めまでには塩原姓のまま夏目家に引き取られます。漱石は、年老いた実の父母を祖父母と思って暮らしていましたが、あるときそれが本当の父母であることを知ります。
漱石は、父直克には終生愛情を持てなかったようですが、母千枝に対しては敬愛の気持ちを抱き、「硝子戸の中」という作品の中で「一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心」と、懐かしみました。その母は、明治14年漱石が14歳の時、亡くなります。漱石は、長男大助には可愛がられたようですが、やはり家族愛には恵まれなかった人だと言えるでしょう。
塩原姓だった漱石が、夏目に復籍するのは、明治21年のことです。20年3月、6月と夏目家の長男、二男が相次いで結核で亡くなったためです。それまで漱石に冷淡だった父直克は、三男直矩を跡継ぎにすることに不安を覚え、漱石を復籍させるため、20年夏から冬にかけて塩原昌之助と交渉を始めました。しかし、昌之助はなかなか承諾せず、交渉は難航しました。
明治21年1月28日漱石は夏目家に復籍します。養父昌之助に「養育料」として240円支払うことになり、即金で170円、残り70円は毎月3円ずつ支払い、23年3月に完済しました。当時の物価では白米も年ごとに変動しているため、1円が現在のいくらに当たるかは難しい問題です。諸説あって1万円~2万円と幅がありますが、おおよその金額は想像できるでしょう。親たちの思惑によって夏目から塩原へ、そして再び夏目へ戻ったことが、漱石の人格形成に大きく関わったのは間違いありません。
漱石は後に自分自身を振り返って、「遊んで居るのを豪いことの如く思って怠けて居た」(談話「落第」)と言っていますが、そのような漱石が大変身を遂げた出来事があります。それは次回に。
※1 干支のひとつ。十干と十二支を組合わせて年や日時を表した。丙午はよく知られている。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
3 漱石落第す
明治19年(1886)7月、腹膜炎にかかった漱石は、進級試験が受けられず落第します。第一高等中学校予科2級から1級に進級する、19歳の時です。当時の漱石は勉強よりも遊ぶことに熱心で、怠けてばかりいたそうです。
追試願を出したのですが、なかなか教務の人が取り合ってくれません。その時、漱石は「教務係の人が追試験を受けさせて呉れないのも、忙しい為もあろうが、第一自分に信用がないからだ。信用がなければ、世の中へ立った処で何事も出来ないから、先ず人の信用を得なければならない。信用を得るには何うしても勉強する必要がある。」(談話「落第」)と思ったそうです。友人たちが追試験を勧めるのも振り切って漱石は進んで落第し、猛勉強を始めます。すると今まで不得意だった数学もよく分かるようになり、以後は卒業まで首席を通しました。人前で話すことも苦手だったのですが、教室での発表も積極的に行えるようになったのです。これは漱石にとって大きな変化でした。
落第したクラスには漱石より2歳年下の米山保三郎がいました。秀才で哲学を専攻し、変わった行動の多い人だったようですが、漱石は非常に尊敬し、親しく交際しました。建築科に進むことを考えていた漱石に、「文学をやれ」と勧めたのが、米山でした。
お金を得るための仕事しか考えていなかった漱石に、米山は文学ならば勉強次第で何千年も後の世に伝えるべき「大作」ができる、と主張しました。漱石は、米山の忠告に共感し、英文学を専攻しました。明治23年9月には、帝国大学に入学しますが、英文学科に入学したのは漱石ただ1人で、上級生は1人しかいませんでした。米山は哲学科に進みましたが、明治30年急性腹膜炎のため28歳の若さで亡くなりました。『吾輩は猫である』に登場する苦沙弥先生の旧友曽呂崎にその面影が描かれています。
帝国大学ではディクソン教授に英語・英文学を学びました。なかなか厳しい先生で、答案に綴り字や文法の誤りがあると減点するため、ほとんどの学生がやっと合格点を取る中で、漱石1人だけがいつも高得点でした。図書館に行っては多くの英文学書を読み、英語の勉強に励みました。ディクソンは漱石の英語力を高く評価し、学生である漱石に鴨長明の『方丈記』の英訳を依頼しました。その英文は現在も高く評価されています。
明治26年には大学院に進学しました。しかし勉強すればするほど、漱石の心の中には英文学がよく分からないという不安が起こっていました。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
4 漱石松山へ
明治28年(1895)4月、漱石は愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)の英語教師として赴任しました。帝国大学の先輩である菅虎雄の紹介でした。菅は漱石より3歳年上でしたが、漱石が生涯心を許した友人の1人です。
外国人教師カメロン・ジョンソンの後任として、優秀な日本人教師を探していた愛媛県参事官であった浅田知定が、同郷(久留米)の菅に人選を依頼したのでした。月給は校長より20円高い80円でしたが、これは特別待遇というわけではありません。当時、教頭の横地石太郎も80円で、同じ帝国大学卒業でした。給料は学歴によって決められていたのです。
生徒は、外国人教師と同じような発音をする漱石に驚きました。新任の先生を冷やかそうと下宿に押しかけた生徒たちは、1時間もしないうちに漱石の学識の深さにすっかり感心して、おとなしく帰って行ったそうです。教師をあだ名で呼ぶなど、生意気ざかりの生徒たちでしたが、漱石の丁寧でわかりやすい授業に敬服してしまいました。
8月には新聞記者として日清戦争に従軍し、結核を悪化させた正岡子規が、療養のため故郷の松山に帰省し、漱石の下宿に転がり込みます。子規は近代俳句の基礎を築いた人です。漱石と同い年で、東京大学予備門時代の明治22年頃から親しくつきあうようになりました。その交友は深く、子規が亡くなる明治35年まで多くの書簡※が取り交わされました。子規は明治25年帝国大学を中退して日本新聞社に入社。新聞「日本」紙上で「俳句革新運動」を展開していました。
漱石は、下宿の1階を子規に使わせ、漱石自身は2階を使いました。連日のように開催される句会に次第に引き込まれ、熱心に俳句を作るようになります。子規の滞在は52日間に及びました。10月19日子規は松山を離れます。子規の帰京後は、作った俳句を送り、添削を求めました。その句稿は『漱石全集』に収録されていますが、翌年3月まで572句を送っています。
しかし、漱石は松山での生活に次第に不満を抱くようになります。11月6日には正岡子規に宛てて「貴君の生れ故郷ながら余り人気(その地方一帯の人々が持つ気風)のよき処では御座なく候」と述べ「愛媛県には愛想が尽き」、すぐにでもほかの就職口があれば移りたいと書き送っています。熊本の第五高等学校に赴任していた菅にもさかんに不満を訴え始めたのです。10月、生徒の校長排斥ストライキによって校長が辞任しますが、こうした生徒の行動に不快感を抱いたためとも言われています。
※手紙、書状
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
5 漱石の婚約
明治29年(1896)4月8日、熊本の第五高等学校から漱石に出向命令の電報が届きます。
前年8月から五髙にドイツ語・論理学の教授として赴任していた菅虎雄の紹介によるものでした。漱石の五髙赴任の話がいつ持ち上がったかはわかりません。しかし、愛媛県尋常中学校で、漱石の後任がすぐには決まらなかったところを見ると、急な話だったと思われます。3月30日愛媛県尋常中学校第4回卒業式で漱石の転任が発表されました。
この五髙赴任にあたって漱石は、婚約中の中根鏡子(戸籍名はキヨ、鏡子は通称)の父、重一に「知らない遠い土地にくるのが、気が進まないようだったら、やむをえないから破談にしてくれないか」(夏目鏡子『漱石の思い出』)と手紙を送りました。
漱石は、前年12月28日上京し、貴族院書記官長をしていた中根重一の長女鏡子と見合いをしていました。鏡子の祖父の知人が、漱石の兄と同僚だったところから話が持ち上がりました。鏡子は明治10年(1877)生まれで、ちょうど18歳。話はとんとん拍子に進み、写真を取り交わしました。
鏡子は、漱石の見合い写真を見て「上品でゆったりしていて、いかにもおだやかなしっかりした顔立ちで」「ことのほか好もしく思われた」(『漱石の思い出』)と述べています。漱石もまた、写真を見て気に入ったらしく、12月18日付正岡子規宛書簡で「当人に逢た上で若し別人なら破談する迄」と書いています。当時写真の修正はしばしば行われていました。漱石の見合い写真では、漱石が劣等感を抱いていた痘瘡の痕(あばた)は、見事に消されていたのです。
見合いは中根一家が住んでいた虎ノ門の官舎で行われました。兄に鏡子の印象を聞かれた漱石は「歯並びが悪いのに、それを隠そうともせず平気でいるところが大変気に入った」と答えたそうです。
新年会に呼ばれた漱石は、中根家の人々と歌留多や福引きに興じました。歌留多取りがとても下手で、みんなから喜ばれました。酒飲みでもなく、不器用な漱石に、鏡子の父は大変満足し、「将来必ずえらくなるといってたいへん嘱望しておりました」(『漱石の思い出』)。こうして漱石と中根鏡子の婚約は成立しました。いずれ東京で職を見つけて結婚を、というのが中根家の希望でした。ところがさらに遠くの熊本への赴任が決まったのです。
漱石は破談も仕方がないと考えました。しかし、重一は一生熊本で暮らすわけでもあるまいからと、鏡子を熊本に嫁がせることに決めたのでした。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
6 漱石、熊本へ
明治29年(1896)4月13日、漱石は熊本・池田停車場に降り立ちました。現在の上熊本駅です。第五高等学校の教授で漱石の友人であった菅虎雄が出迎えました。借家が見つかるまで漱石は薬園町の菅の家に同居することになりました。
熊本に初めて着いた時の印象を明治41年、九州日日新聞社(現・熊本日日新聞社)の記者に聞かれ、まず、駅前の道幅の広さに驚いたことを述べています。さらに京町台を横切り、坪井に下りる新坂にさしかかったとき、目の前に開けた一面の市街地に再び驚き、「いい所に来たと思った」と言います。漱石は、そこから眺めた風景を「家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遙か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、それに薄紫色の山が遠く見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻つて居るといふ絶景、実に美観だと思つた」(「九州日日新聞」明41・2・9)と語っています。熊本を離れて8年もたっているのに、まるで今、熊本の風景を見ているかのようです。
明治29年4月14日、漱石に嘱託教員として1か月百円の給料を贈与するという辞令がおります(7月9日から教授)。この日から、五高の先生としての生活が始まったのです。
五高の生徒は礼儀正しく、漱石は「着実で質素で東京あたりの書生のやうに軽薄で高慢痴気な所がなく、寔に良い気風」(「九州日日新聞」同上)と思ったようです。
ただ、借家がなかなか見つからないことには、大変不愉快な思いをしました。5月3日付の水落露石宛の手紙では、あちこちの家をずいぶんと訪ね歩いたけれど、まだ1軒の借家も見つからず、相変わらず友人(菅虎雄)の家にいることを訴えています。ようやく借家が見つかって菅の家を出たのは5月9日ごろでした。愛媛県松山尋常中学校の校長となった横地石太郎に宛てた5月16日付の手紙に漱石は「一週間程前敗屋(荒れ果てた家)を借り受候へども何分住みきれぬ故又々移転仕る覚悟」と書き送っています。それからどれほどたって新しい家が見つかったのかは明らかではありません。しかし、6月6日付けの手紙は「熊本市光琳寺町より」と書かれていて、すでに移転したことが分かります。これが、下通百三番地(現・下通1丁目7-16か17)、通称光琳寺の家 ― 熊本で2番目に住んだ家です。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
7 漱石の略式結婚
明治29年(1896)6月8日、池田停車場(現上熊本駅)に中根鏡子とその父、重一が降り立ちました。東京から年老いたお手伝いさんを1人連れての嫁入りです。
駅のプラットホームには、宿屋の研屋からの迎えしか見えず、漱石の姿は改札口にも見えません。どうしたことかと辺りを見回すと、新聞を片手にフロックコート(注1)の正装で悠然と待合室から出てきたのが漱石でした。
鏡子は『漱石の思い出』(角川文庫)に、結婚式を挙げたのは10日だったと回想しています。しかし、「中根去る八日着昨九日結婚略式執行致候」と述べた正岡子規宛ての手紙をはじめとして、ほかに2通、6月10日付の手紙で漱石は友人に結婚の報告をしています。『漱石の思い出』が出版されたのは、昭和4年、漱石の13回忌を終えた後のことですから、やはり漱石が書いた当時の手紙を重視すべきでしょう。「衣更へて京より嫁を貰ひけり」という俳句を子規に送っています。新生活への弾むような気持ちが感じられる句です。
その結婚式について、鏡子は「裏長屋式(注2)の珍な結婚」と呼んでいます。漱石は冬物のフロックコート、鏡子は東京から持参した夏の振り袖、父の重一は普段の背広姿。仲人やお酌などすべてをこなしたのが東京から連れてきた年老いたお手伝いさんでした。漱石が雇っていた婆やと車夫とが、台所で働いたりお客になったりしました。謡一つもなく、式は終わってしまいました。まさに「略式」の結婚式でした。仕出し屋に支払ったのは、総額7円50銭。これが漱石の結婚式費用でした。
三三九度(注3)をするとき、三つ組みの盃がひとつ欠けていたことを、のちに鏡子が語るのを聞いた漱石は「けしからん話だと思ってきいていたら、俺たちのことか。道理で喧嘩ばかりして、とかく夫婦仲が円満に行かないわけがわかった」(『漱石の思い出』)と、面白がったそうです。
東京の生活とは打って変わった、田舎の生活にとまどった鏡子でしたが、何よりも困ったのは朝早く起きられないことでした。お手伝いさんを東京に帰してからは、漱石に朝ご飯も食べさせず学校に出すこともたびたびでした。無理をして起きると1日中ぼんやりとして、失敗ばかりする鏡子に漱石は「おまえはオタンチンノパレオラガス(注4)だよ」とからかいます。
新婚早々「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえになんかかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」と漱石は宣告しました。しかし、鏡子は、大変短気で「家庭の暴君」であった自分の父と比較して「夏目はゆったりしていて、すべてのことについて公平だし」「なるほど先生などというものは修養のできたものだ」(『漱石の思い出』)と思ったそうです。漱石満29歳、鏡子19歳の新婚生活の始まりでした。
注1) 男子の昼間の礼服。上着はダブルで膝丈まである。
注2) 裏通りに建っている粗末な長屋のようにみすぼらしいこと。
注3) 結婚式のときに新郎新婦が杯をやりとりする儀式。
注4) 嘲りの俗語「おたんちん」を東ローマ帝国最後の皇帝の名に掛けた洒落。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
8 漱石の新婚旅行
「新婚旅行」という言葉は使っていませんが、漱石も結婚後の初めての夏休みに鏡子と旅行をしています。明治29年(1896)9月25日付正岡子規宛ての手紙で「当夏は一週間程九洲(州)地方汽車旅行仕候」と報告しています。明治34年には徳田秋声らの『新婚旅行』という小説が出ているので、「新婚旅行」という言葉が徐々に知られるようになっていたのかもしれません。
鏡子は「福岡にいる叔父を訪ねて、筥崎八幡や香椎宮や太宰府の天神やにお参りして、それから日奈久温泉などに行きました」(『漱石の思い出』)と述べていますが、日奈久温泉は、船小屋温泉の間違いです。二人がどこに行ったのかは、漱石が前述の手紙に添えて送った俳句の冒頭の10句で推測できます。それらには「博多公園」「箱(筥)崎八幡」「香椎宮」「天拝山」「太宰府天神」「観世音寺」「都府楼」「二日市温泉」「梅林寺」「船後(小)屋温泉」という前書がついています。おそらくこの順序で見て回ったのでしょう。
まず「博多公園」ですが、これは福岡市の「東公園」のことです。当時、東公園から筥崎宮まで千代の松原と呼ばれる松林が広がり、筥崎宮・一の鳥居から数百メートル先は砂浜でした。漱石はこの松林を「初秋の千本の松動きけり」と詠みました。秋風に見渡す限りの松林が大きくざわめく様子が見事に描かれました。漱石たちは箱崎駅から汽車で香椎に向かったのでしょうか。次は「香椎宮」です。『新古今和歌集』にも詠まれた「綾杉」がご神木として有名で、漱石はこの綾杉を詠んでいます。漱石たちが、その日福岡に泊まったのか、太宰府天満宮に直行したのかわかりません。しかし、妻を連れての旅ですから翌日、二日市に向かったのかもしれません。
博多駅から二日市駅まで当時汽車で30分ほどしかかかりませんでした。二日市温泉も天拝山もともに筑紫野市です。「天拝山」は菅原道真が、九州に左遷された際、この山に登り、無実を訴えたとされる山です。頂上には、大きな松があり「天拝の松」と呼ばれていました。それは遠く博多湾からも見えたそうです。駅から、二人は太宰府天満宮に向かったのでしょう。観世音寺、都府楼跡を見物し、その日は二日市温泉に宿泊しました。
次に久留米の「梅林寺」を訪ねています。二日市駅から久留米まで約1時間。親友の菅虎雄の故郷ですから菅と会ったかもしれません。そして最後が船小屋温泉です。「ひやひやと雲が来る也温泉の二階」という句を残しています。
鏡子はこの旅行で「そのころの九州の宿屋温泉宿の汚さ」(『漱石の思い出』)にこりごりし、以後は誘われても行く気になれなかったそうです。
(くまもと漱石倶楽部会員・九州ルーテル学院大学非常勤講師 村田 由美)
9 ことしは漱石記念の年
注)この文章は平成28年1月号の市政だよりに掲載されたもので、文中の『今年』は平成28年、『来年』は平成29年のことです。
「我に許せ元日なれば朝寝坊」明治32年(1899)正月の漱石の句です。中央区内坪井町の漱石記念館にこの句碑があります。そして「金泥※1の鶴や朱塗の屠蘇の盃」と詠んで友人の奥太一郎と博多、日田、耶馬渓、久留米などに遊びます。「元日屠蘇を酌んで家を出づ」と前書きにあります。漱石は年始客のわずらわしさが嫌だったようで、明治30年の暮には友人の山川信次郎と玉名・小天温泉に逃げ出して正月を過ごします。小説「草枕」(明治39年発表)の素材となるのは皆さんご存じのとおりです。
さて前回まで漱石の誕生、長じて松山を経て熊本そして結婚までのお話しをしてきましたが、今回は今年の漱石記念年のことをお伝えします。漱石が五高の英語教師として熊本にやってきたのが今年からちょうど120年前、明治29年(1896)の4月13日、亡くなったのがちょうど100年前、大正5年(1916)の12月9日、そして来年明けて早々2月9日(旧暦1月5日)が生誕150年になるのです。こんなにぴったりメモリアルの年が訪れるのは珍しいですね。
時系列に見てみましょう。明治29年4月13日に池田駅(上熊本駅)に到着し人力車で京町新坂を越え菅虎雄宅に寄宿、5月に下通町103番地・通称光琳寺の家に引っ越し、6月9日にここで結婚式をあげます。しかしすぐの9月下旬、合羽町(今の坪井町)に移ります。この年11月14日から6日間天草島原方面へ修学旅行(当時は軍事教練でした)にも出かけています。明治30年9月、三番目大江村の家へ。ここから歩いて明午橋を渡り島崎から鎌研坂を登って小天温泉へ行きました。明治31年3月、明午橋際の井川淵町へ転居、すぐその年の7月下旬、今の記念館である内坪井に引っ越します。11月16日には山鹿方面へ修学旅行。次の年の明治32年5月31日長女筆子が生まれます。鏡子夫人があまりに字が下手だったので、この名前をつけたといいます。明治34年次女誕生の際は「筆」の次は「墨」がいいと言ったとか、漱石も茶目っ気たっぷりなところもあったのですね。実際は恒子と名づけられました。8月末から9月にかけてここから阿蘇に登りました(「二百十日」明治39年発表)。最後の住まい北千反畑町には2年後の明治33年3月から4か月ほど過ごし、7月18日頃ちょうど水害で町中が混乱していた中、世帯道具一式を手放し、身ひとつでロンドン留学のため熊本を離れます。
ともあれ、あの頃この時期ここにいたんだな、あそこに行ったんだなと思いを馳せ、ゆかりの地を訪ねてみると漱石をいちだんと身近に感じることができるのではないでしょうか。
今年はまず5月14日に夏目漱石記念年全国オープニング式典と交流会が熊本で行われます。いろいろな団体が漱石を顕彰する行事を企画しています。全国から多くの漱石ファンが集います。皆さんもぜひご参加いただき、交流を通してくまもとの漱石を盛り上げてくださるようお願いします。
※1 膠(粘着剤)に溶いた水に金粉を混ぜたもの、書画を描く。
(くまもと漱石倶楽部会長・和田 正隆)
10 合羽町の家
漱石が作った北九州旅行の俳句に続いて「内君の病を看護して」という前書きのついた句があります。「枕辺や星別れんとする晨」という句です。内君とは奥様という意味ですが、少々改まったような呼び方に漱石の照れが感じられます。旅行の疲れが出たのか、病に伏した鏡子を一晩中見守った漱石のようすがうかがえます。季語は「星の別」で、陰暦7月7日の夜牽牛と織女が会って、また別れることを言います。まさに星々が別れようとする明け方まで、漱石は鏡子の枕辺でまんじりともしなかったのでしょう。鏡子の弟・中根倫は「姉の病気の時なぞ実に親切なもので、普通の旦那さんより余つ程親切でした」(「義兄としての漱石」)と回想しています。
旅行から帰った明治29年(1896)9月半ば過ぎ、漱石夫妻は合羽町の家に引っ越します。通称光琳寺の家は、すぐ前が墓場だったうえに、その家に住んでいた人が斬り殺されたという噂があって、気味悪がっていたからでした。
合羽町237番地(現熊本市中央区坪井2丁目9-11)の家は、漱石が「名月や十三円の家に住む」と詠んだ、当時としては高価な借家でした。間数の多い家だったらしく、お手伝いさんと3人では住みきれないので、第五高等学校(五高)の同僚で歴史の教授であった長谷川貞一郎が5円の下宿料を払ってしばらく同居しました。また、長谷川の後には、漱石の友人で五高の英語教授として赴任してきた山川信次郎が30年4月から7円の下宿料で同居しています。
熊本で初めてのお正月を迎えたのがこの家です。鏡子は、張り切ってお正月のご馳走を整えます。しかし、お客や生徒がつめかけて、あっという間に料理がなくなってしまいました。あとから来たお客にはお膳もない始末で、漱石が怒り出し、長谷川が仲を取りなそうと大騒動です。仕出しをとることもできず、鏡子は意地になって元日の夜から12時までかかって金団を作ったそうです。漱石もこれに懲りて「正月は家にいないに限る」と、「次の年から正月へかけて、たいてい大晦日あたりに旅行に出ること」(「漱石の思い出」)にしたのです。
とんだお正月となってしまいましたが、漱石が機嫌の悪いのは、その場限りで、翌日か翌々日にはけろりとしていたそうです。漱石はこの元旦に「元日や吾新たなる願あり」と詠みます。新たな年は希望に満ちて始まりました。
この合羽町の家に、漱石は30年7月まで住みましたが、現在は壊されて駐車場になっており、跡形もありません。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
11 五高教師としての漱石
漱石は、明治29年(1896)4月から第五高等学校の英語講師(7月には教授に昇格)として教壇に立ちます。尋常中学校は、4月入学の3月卒業ですが、五高は9月入学、7月卒業でしたから、漱石は3学期からの着任ということになります。赴任早々1週間に24時間の授業を受け持つことになりますが、松山時代と大きく異なるのは、授業だけでなく校務※もあるということです。漱石は、東京でも教師として過ごしますが、いずれも講師で、いわゆる校務はないので、熊本時代は、漱石の教員生活の中でも特別な期間だったと言えます。
愛媛県尋常中学校を退職するきっかけになったのは、生徒たちによる校長排斥運動と言われています。漱石は松山を去る理由を「生徒諸子(生徒の皆さん)の勉学の態度が真摯ならざる(まじめでない)」ためであると述べ、生徒たちへの別れの挨拶としたと言われます(景浦稚桃編述『松山に於ける子規と漱石』)。
しかし、漱石を慕い、その後を追って五高に入学した松山出身の生徒たちもいました。漱石は、松山では、英文を訳すだけでなく文法を始めとして、単語の語源まで説明するなど、1時間に数行しか進まないような丁寧な授業をしていました。しかし、五高ではものすごいスピードで読み進めていくので、松山から来た生徒たちがもう少し解釈をしてほしいと頼みました。ところが漱石は、ここは中学ではない、とどんどん読み進めていったそうです。
五高時代の教え子でのちに五高の国語の先生になった八浪則吉もまた、当時の漱石の授業について、丁寧な教え方ではなかったと述べていますが、初めて最後まで教科書を読み終えたことで非常な満足を得たと、回想しています。
ここには、漱石の独自の教育論があったようです。ある程度まで英語を勉強したら辞書を引かずにむちゃくちゃに多読せよというのです。もちろん授業では予習をすることが前提ですが、細かなことにこだわらず、少し分からないところは飛ばして読んでいっても、たくさん読書するうちに分かるようになるというのです。
予習をしていかない生徒にとっては、漱石は時に皮肉を浴びせる恐い先生でしたが、まじめでさえあれば、どんなにつまらない質問をしようとも、誠意を持って接してくれる親しみのある先生だったそうです(湯浅廉孫「乞食の詩が縁」)。
明治29年9月には、文科2年、3年の生徒の願いに応じて授業の始まる前、朝7時から8時まで課外授業を行うようになります。この五高で漱石に英語を習い、生涯漱石を先生として慕った学生の1人に、有名な物理学者になった寺田寅彦がいます。彼は、漱石の死後、五高時代のこの課外授業を思い出して次のような歌を作りました。
春寒き 午前七時の 課外講義 オセロを読みしその頃の君
寅彦は漱石が「いつ迄も名もない唯の学校の先生であつてくれた方がよかつた」(夏目漱石先生の追憶)とも述べています。
※校務 ……… 教職員が行うべき学校の仕事。漱石は赴任早々大学予科第一部文科2年級監督主任になっている。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
12 漱石、ボートを漕ぐ
明治30年(1897)2月16日の「九州日日新聞」に「画湖の短艇競漕」と題する記事が掲載されています。そこには、五高のボートレースの勝利者の名前が書いてあって、その中に夏目金之助の名前が挙がっています。漱石が、2月14日に行われたボートレースの中の職員の部で大差をつけて勝ったという記事です。
当時の画図橋下流竹島と江津村の間600メートルを往復する1200メートルの航程で、レースは午前11時に開催。午後3時45分まで、11レース行われました。漱石が出たのは第7レース。群衆およそ400人が両岸に立ち並び、あるいは舟を出して観戦し、大変な賑わいでした。
意外に知られていませんが、漱石は五高短艇部の部長だったのです。ちょうど29年8月に前任の大幸勇吉が転任したため、その後を引き受けました。漱石が、学生時代、夏になると毎日のように水泳場に通い、友人たちと「ブラック・クラブ」というグループを作ってボートを漕いでいたことを、同級生であった太田達人が回想しています(「予備門時代の漱石」)。ボートを漕ぐことは漱石にとって得意なことだったのです。
短艇部では、このボートレースの前、1月4日から筑紫近海を航海するという初めての遠航が行われています。これは校長・部長の許可を得なければなりませんから、漱石が部長として許可したはずです。さらに5月にはこの短艇部拡張のために、生徒の保護者から寄付金を募る文書も出しています。
しかし、この短艇部部長の期間はわずか1年でした。漱石の同級生でもあり、同僚でもあった篠本二郎の回想によると、その原因は政府払い下げの2艘のボートを佐世保で修理し、熊本まで運んでくる際、生徒が百円の赤字を出したことにあるそうです。その中心的な人物の日頃の行いがよくなかったため、職員の誰もが相手にしなかったというのです(「五高時代の夏目君」)。漱石は、父親が亡くなったため、鏡子夫人と上京中の出来事でした。
漱石がこのことを知ったのは新学期になってからのことでしょう。篠本によると、事情を知った漱石が、一言の愚痴も言わずすべて弁償し、部長を辞任したというのです。篠本は漱石の「責任を重んずる点と思ひ切りの良い」例は、ほかにもたくさんあったが常人とはちょっと変わっていたとも述べています。
漱石は、教室ではなかなか厳しい先生でしたが、生徒のこのような点に関しては意外に寛大でした。大江村の家でも、坪井の家でも、金銭的に苦しい生徒を家において面倒を見ましたが、生徒がほかの生徒を連れてきて飲んだり食べたりしても怒ることはなかったと言います。漱石と深い関わりを持った生徒ほど、人柄の温かさを感じたようです。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
13 漱石の旅
熊本時代の漱石は、北九州への新婚旅行をはじめとして、よく旅行をしています。修学旅行の引率や、福岡・佐賀への出張は公的な旅行ですが、そのほかにも久留米・小天・阿蘇・耶馬渓へ出かけ、たくさんの俳句を残しています。
凩や海に夕日を吹き落とす
凩の吹きすさぶ中、まるで吹き落とされるかのようにあっという間に水平線に落ちていく夕日を詠んだものですが、天草・島原地方への修学旅行で作ったものと思われます。
それは、明治29年(1896)11月14日から19日までの5泊6日で行われた、漱石が初めて参加した修学旅行でした。当時の修学旅行は、軍事演習を兼ねており、生徒は軍隊のように行軍し、所々で2軍に分かれて発火演習(実弾を込めず、火薬だけで行う射撃練習)を行い、実戦形式で訓練しました。学校から、三角を経由して本渡、富岡へ至り、そこから島原・雲仙に渡り、熊本に帰るというコースです。春日停車場(現熊本駅)から宇土駅までは鉄道、三角港から本渡、富岡から島原の小浜、島原から坪井川口までは舟を利用しましたが、あとはすべて徒歩です。
生徒たちは各地で非常な歓迎を受け、発火演習には見物客も多く訪れました。現地の生徒たちとの交流なども行っています。体力・忍耐力の強化と団体行動が修学旅行の主な目的でした。漱石は、明治31年の山鹿地方への修学旅行にも参加しています。
新婚旅行後の、私的な最初の旅行は、明治30年の春休みに行った久留米旅行です。久留米は友人でもあり、同僚でもあった菅 虎雄の故郷でした。菅の案内があったかどうかはわかりませんが、高良山に登って高良大社に詣で、そこから耳納連山を越えて、発心桜を見ました。山上から筑後平野を見渡して詠んだのが
菜の花の遙かに黄なり筑後川
という俳句です。これは、のちに『草枕』の風景に取り入れられたとも言われています。
あいにくと天気は曇り空から雨模様となったようで、山路を歩く人もいなかったのでしょうか。
人に逢はず雨ふる山の花盛
という句を詠んでいます。発心山は、江戸時代には山頂から山麓まで桜の木が咲き誇り、代々久留米藩主が花見をしていた所でした(野口健司「漱石の見た耳納連山」2014・10)。
松をもて囲ひし谷の桜かな
戦前までは公園の周りの山はアカマツの林だったそうです(野口健司、同上)。現在も、発心公園には170本ほどの桜の木があって、多くの花見客が訪れます。漱石がこの久留米旅行で詠んだ俳句のうち五句が句碑に刻まれ、耳納スカイライン沿いに建てられています。
旅は、漱石に日常とはかけ離れた豊かな時間と多くのインスピレーションを与えたと言えます。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
14 父の死、妻の流産
明治30年(1897)6月29日、漱石の父直克が81歳で亡くなりました。ちょうど学年末試験が終わった日で、漱石は、成績処理などをすませ、合羽町の家を引き払って、妻・鏡子と2人で上京しました。鏡子にとっては、結婚後初めての里帰りです。
漱石は父親に対して、生涯親しみの情を抱けなかったと、鏡子が『漱石の思い出』で語っています。幼いときに養子に出され、養父母の離婚後は、夏目家に引き取られた漱石が、実の父親にどのような思いを抱いていたかは、よく分かりません。唯一の自伝的小説とされる『道草』には、漱石の境遇とよく似た健三という主人公が描かれますが、「彼は自分の父に対して左程情愛の籠もった優しい記憶を持っていなかった」と書かれています。
しかし、父は自分の死後、養父が再び漱石に接近してくることを心配して、漱石の養子縁組を解消するにあたってさまざまなやりとりをした際の書類をすべて取っていたのでした。漱石もまた、毎月父親に10円送ることだけは欠かしていません。幼い頃から養父母の愛情に偽りのものを感じ取っていた漱石にとって、やはり、養父母とは明らかに違う思いがあったようです。
2人は、中根重一(鏡子の父)の貴族院書記官長官舎に落ち着きました。夏になると中根家の人々は鎌倉に避暑に出かけるので留守番をしながら、官舎で夏を過ごすつもりでいました。しかし、鏡子は、熊本から東京への長旅のために流産してしまいました。当時は熊本から東京まで、3、4日かかりました。30時間を超える汽車の旅は、妊娠中の鏡子には相当な負担だったのです。
鏡子が療養のため、中根家の人々が滞在している鎌倉の別荘に行くと、漱石は鎌倉と東京を行ったり来たりしてその夏を過ごしました。この間五高に採用する教師の面談もしています。また、病気の子規をたびたび訪ね、句会にも参加しました。樋口一葉の全集を買って読んだり、「読売新聞」に連載されていた尾崎紅葉の「金色夜叉」を読んだりしました。
9月に入り、学校が始まる前には熊本に帰らなければなりませんが、鏡子は医師から長旅を禁じられました。漱石は鏡子をおいて1人熊本に帰ることになりました。「妻を遺して独り肥後に下る」という前書きのついた俳句があります。
月に行く漱石妻を忘れたり
漱石が熊本に着いたのは9月10日。さっそく大江村(現熊本市中央区新屋敷)の家を借りて移りました。鏡子が健康を回復して熊本に帰ってきたのは、10月下旬のことでした。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
15 大江村の家
明治30年(1897)9月、東京から帰った漱石は大江村401番地(現中央区新屋敷1丁目16番地)に引っ越します。当時、皇太子(のちの大正天皇)の傅育官(教育係)として宮内省に出仕していた落合為誠(東郭)の家を借りたのです。この家は現在、水前寺公園近くに移築され、保存されています。
鎌倉で静養していた鏡子が熊本に帰ってきたのは、10月下旬のことでした。鏡子はこの家について「たいそう景色のいいところで、家の前は一面に畑、その先が見渡す限り桑畑が続」き、「秋の景色はまた格別」(『漱石の思い出』)だったと述べています。家賃は7円50銭。家主の落合が帰郷する翌年3月末までこの家に住みました。別棟に小さい離れがあって、そこには五高生の俣野義郎が書生として住み込みました。のちには土屋忠治も加わります。漱石は、大学時代の授業料の返済を終了し、父への送金もなくなって、経済的な余裕ができると、こうして生活に困った学生の面倒を見るようになります。
俣野は、もともと菅虎雄のところにいたのですが、明治30年8月、菅が病気で五高を休職したため、漱石が面倒を見ることになったのです。真面目な土屋と違って、お酒は飲むし、ご飯は人一倍食べるし、お弁当を持たせれば毎回弁当箱を忘れて帰る、など鏡子をあきれさせましたが、夏目家にずいぶんと笑いの種をまきました。漱石がのちに書いた『吾輩は猫である』の多々良三平のモデルとされているのが、この俣野です。
五高では、英語学科主任であった佐久間信恭が7月に休職したため、10月、漱石は主任に命じられます。また、10日の開校紀念式では職員代表として「祝詞」を読んでいます。五高での漱石の存在は確実に大きなものになっています。
漱石は、明治30年4月22日付の正岡子規宛の手紙で「教師は厭」で、本当は「文学三昧」の生活がしたい、と伝えていました。しかし、その一方、中川校長から「是非共居つて呉れねば困ると懇々の依頼」があり、また、友人の山川信次郎を五高の英語教師として呼んだ手前、今はどんなに良い就職口があっても動くことはない、「御校(五高)の為に尽力すべし」と校長に明言したことを述べています。
その言葉通り、漱石は、学生のために、より良い教師を選ぶことにも熱心でした。明治31年1月、漱石の先輩の狩野亨吉を五高の教頭に招いたのもその一つです。のちの狩野亨吉の回想(「漱石と自分」『漱石全集』別巻)によると熊本時代が最も多く会っていた時期だといい、仕事だけでなく、一緒に散歩し、江津湖で舟遊びもしています。
また、この大江村時代で忘れてはならないのは、30年の年末から翌年にかけて、山川信次郎と出かけた小天旅行です。のちに『草枕』(明治39年)の素材となった旅行です。それは、朝日新聞社に入社し、職業作家に転身するきっかけを作った作品でもあります。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
16 井川淵の家
明治31年(1898)3月、宮内省に出仕していた落合為誠(東郭)が、熊本に帰って来るため、急遽大江村の家を出なければならなかった漱石は、川向こうの井川淵町に小さな家を借ります。川べりの家で明午橋がすぐ近くに見える家でした。
間数も少なく手狭だったので、俣野義郎と土屋忠治には、金銭的な援助はするので五高の寮に入るように勧めます。しかし2人は、どんな狭いところでもいいので、置いて欲しいと頼んだので、7月の卒業までの間置くことにしました。
この家で、漱石夫婦にとって大事件が起こりました。それは、5月下旬のことです。鏡子が増水した川に落ちたのです。幸い投網漁をしていた人の網にかかって、命に別状はありませんでした。『道草』(大正4)は、漱石の実生活を素材とした作品ですが、そこには、ヒステリーを起こして廊下に倒れたり、縁側の端にうずくまったりしている妻を介護する健三の姿が描かれています。
鏡子のヒステリーについては、鏡子自身は生涯語ることはありませんでした。『道草』には、「妾の赤ん坊は死んぢまつた。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくつちやならない。そら其所にゐるぢやありませんか。」(七十八)と、流産後の妻が健三の手を振り払って起き上がろうとする姿が描かれています。「毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寝た」(七十八)というエピソードが真実かどうかはわかりません。しかし、熊本時代が、最もヒステリーの発作が激しかったといい、そうした発作の中で鏡子の事故は起きたのでしょう。再び同じことが起きないように漱石は心を砕いたものと思われます。
五高教授夫人が白川に投身自殺を図ったという噂が流れては困ります。新聞にそうした記事が書かれないように尽力したのが同僚の浅井栄凞だったそうです。
この事件は、長い間「梅雨時の水量の多い6月末か7月初め」の出来事と記されてきました。しかし、五高記念館に残っている職員の出欠簿を見ると、明治31年6月、7月は漱石の欠勤は1日もありません。これに対して5月は7日の欠勤があり、これほど多い欠勤は、熊本時代、後にも先にもないのです。しかも、当時の新聞で確認すると、この梅雨の時期には、雨量が少なく水不足で田植えができないという記事があるほどなのです。つまり、この事件は5月に起きたということです。
7月、俣野義郎と土屋忠治が卒業します。漱石の先輩で、漱石の尽力によって五高の教頭として赴任していた狩野亨吉は、自身が住んでいた内坪井の借家を漱石夫婦のために明け渡しました。2人が引っ越したのは7月末のことです。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
17 内坪井の家・紫溟吟社
明治31(1898)年7月下旬、教頭の狩野亨吉は、漱石のために内坪井町78番地(現熊本市中央区内坪井町4-22)の家を明け渡します。現在「夏目漱石内坪井旧居」として保存されているのが、この家です。大正4(1915)年、洋間が増築され、その際、玄関など手が入れられましたが、漱石が住んでいた当時のまま残されています。
鏡子は「熊本にいた間、私どもが住んだ家の中でいちばんいい家」(『漱石の思い出』)だったと述べています。敷地が5、6百坪※1もあり、庭が相当広かったそうです。別棟にはかなり広い物置もありました。家賃は10円でした。
赤点を取った同級生のために点数を上げてもらおうと、井川淵の家に初めて漱石を訪ねて俳句に魅せられた寺田寅彦(寅日子)は、夏休みが明けると、内坪井の家にやってきました。初めて作った俳句を見てもらうためでした。漱石は寅彦の作った俳句を添削したり、漱石自身の句稿と一緒に子規に送ったりしました。
寅彦は「立田山麓の自分の下宿からは随分遠かつたのを、丸で恋人にでも会ひに行くやうな心持」(「夏目漱石先生の追憶」)で、週に2、3度、内坪井の家に通いました。あるとき、漱石の家に書生においてもらえないかと、相談したことがあったそうです。そのとき、裏の物置なら空いているから来てみろ、といわれて案内されたのが別棟の物置でした。その時は、畳もなく、ほこりだらけだったのですっかりしょげて退散したのでした。
すでに五高の学生たちの間では、漱石が俳人であることが知られていました。寅彦の他にも厨川肇(千江)、蒲生栄(紫川)が俳句の指導を受けに来ていました。
明治31年10月2日、千江は寅日子、紫川、平川草江、石川芝峰ら11人に声を掛け、漱石の家で運座※2を開きました。五高の校友会雑誌である『龍南会雑誌』第69号(明31・12)には漱石にお願いして俳句の会を起こし、月に1回運座を開くので、参加希望者は紫川に申し込むようにとの告知が掲載されています。この俳句の会が「紫溟吟社」です。
紫溟吟社は、やがて五高の生徒だけでなく、市中の池松迂港、第六師団の渋川玄耳、川瀬六走らが会員となり、「九州日日新聞」「九州新聞」にもその俳句が掲載されるようになります。学校内だけではなく、熊本の地に新派俳句の種をまき、根付かせることになるのです。
※1 坪…100坪は約330平方メートル
※2 運座…集まった人が同じ題で俳句を作り、すぐれた句をお互いに選ぶ俳句の会。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
18 筆子誕生
明治31(1898)年秋、鏡子は再び妊娠してひどいつわりに悩まされました。『漱石の思い出』によるとそれは9月から始まって11月まで続き、ひどいときには食べ物はおろか、水さえ咽を通らないほどでした。漱石が、その頃詠んだ有名な俳句が次の句です。
病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋
漱石は、衰弱した鏡子を看病しました。ある時には、お手伝いさんだけに任せるのは不安だというので学校を1日欠勤したこともありました。11月を過ぎると鏡子の状態も落ち着きました。それで明治32(1899)年の元日には、お屠蘇で新年を祝うと、同僚の奥太一郎と一緒に耶馬渓に出かけました。この旅の最後では峠で馬に蹴られて雪の中に転ぶというできごともありました。「峠を下るとき馬に蹴られて雪の中に倒れければ」という前書きの付いた句があります。
漸くに又起きあがる吹雪かな
宇佐八幡宮から羅漢寺、耶馬渓、日田をめぐる1週間のほどの旅でしたが、山中で吹雪に遭い、かなり難儀した旅のようです。
待望の赤ちゃんが生まれたのは5月31日のことです。漱石は子どもの誕生を次のように詠んでいます。
安々と海鼠の如き子を生めり
鏡子が悪筆だったため、子どもは字が上手になるようにと「筆」(通称筆子)と名付けられました。ところが、鏡子以上の悪筆で、のちのち筆子にこんな名前をつけるからだ、と恨まれたとか。
漱石は筆子を大変にかわいがり、よくあやしたり抱いたりしました。当時、お手伝いはテルという気立てのいい人でしたが、色が黒く、漱石は「色の黒いのが移ると困る」と言ってテルに筆子を抱かせないようにしました。ところが、鏡子が出かけると、筆子が泣き出し、漱石がいくらあやしても泣き止まないので、とうとうテルを呼んで世話を頼まざるを得ません。テルは「いくら顔が黒くても、私でなけりゃどうにもならんじゃありませんか」と大いばりで抱き上げると、すぐに泣き止んだそうです。これには漱石もだまって引き下がるほかありませんでした。
書生として漱石の家に世話になっていた行徳二郎は、筆子を乳母車に乗せ、内坪井の家で飼っていた大きな犬の綱を引いて、毎日のように近所の藤崎八旛宮に散歩に出かけていたそうです。
漱石は、よく筆子を膝の上に乗せて、つくづく顔を見ながら「もう十七年たつと、これが十八になって、俺が五十になるんだ」と言っていました。鏡子は「偶然の一致とは言え、ほんとうに筆子が十八の時五十で亡くなりました。そんなことを考えるとちょっと妙な気がいたします」(『漱石の思い出』)と、述べています。
熊本を離れるとき、鏡子が筆子を抱いて写った写真があります。漱石は留学先のロンドンで、その写真を送るように鏡子に頼んでいます(明34・1・22付鏡子宛書簡)。写真が届くとすぐにストーブの上に飾り、下宿先の奥さんが「大変可愛らしい御嬢さんと奥さん」(明34・5・8付鏡子宛書簡)だと、褒められたことを報告しています。やさしい父としてのエピソードです。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
19 『草枕』『二百十日』の旅
明治32(1899)年9月、同僚の山川信次郎は、第一高等学校へ転任が決まります。山川は明治30(1897)年4月、漱石の紹介で五高に赴任し、英語科の教授として漱石と共に尽力した人ですが、小天温泉、阿蘇への旅行に同行した人でもあります。これらの旅行が素材となって、のちに『草枕』『二百十日』という作品ができました。
小天温泉は旧小天村湯ノ浦地区(現玉名市天水町小天)にあった温泉で、前田案山子の別邸でした。漱石は熊本での最初のお正月、年始客の多さに懲りて、正月は留守を決め込んだのでした。その最初の旅行が小天温泉でした。明治30(1897)年の暮れ、山川と連れだって、金峰山の麓の道を上り、鳥越、野出の二つの峠を越えておよそ22、3キロの道を歩いて行きました。漱石たちはこの宿で年を越します。「小天に春を迎へて」という前書きのある句があります。
温泉や水滑かに去年の垢
漱石たちが泊まったのは別邸の離れで、2階の6畳間でした。現在は、この離れも漱石が入浴した浴室も修復され、「前田家別邸」として公開されています。
明治39(1906)年9月『新小説』に発表された『草枕』には不思議な言動をする志保田 那美が描かれましたが、案山子の次女ツナ(卓子)がモデルと言われています。小天の長閑な風景だけでなく、温泉でのさまざまな体験が作品に生かされています。
漱石は明治33(1900)年7月、英国留学のために熊本を離れます。ロンドンから狩野亨吉、山川信次郎など4人に宛てた手紙で「帰つたらだれかと日本流の旅行がしてみたい小天行抔を思ひだすよ」(明34・2・9付)と書いていますが、漱石の心に深く刻まれた旅でした。
阿蘇登山旅行は、山川との最後の旅行となりました。明治32(1899)年8月末から9月にかけて3泊4日の旅です。その時作った俳句が30句ほどあります。それによると戸下温泉、内牧温泉に宿泊し、阿蘇神社を参拝したあと阿蘇登山に向かいました。しかし、火口まであと少しのところで道に迷い、薄の原をさまよい、やっとのことで立野の馬車宿にたどり着いたようです。
前年、阿蘇には新たな噴火口ができ、2本の煙が立ち上っていました。阿蘇山の活動が非常に活発な時期でした。この旅から帰った山川はすぐに、第一高等学校赴任のため、東京へ出発しました。この山川との別れは、漱石に寂しさをもたらしました。
『二百十日』(『中央公論』明39・10)には、この時の漱石の体験が描かれています。圭さんと碌さんという2人の青年の軽妙な会話による短編小説は、これまでの日本の文壇にはない新しい小説でした。
朝日新聞社の鳥居素川は『草枕』に感心し、漱石を朝日新聞社へ招こうと交渉が始まります。漱石はやがて新聞社に入ることを決意します。『草枕』は、漱石が専業作家へ転身するきっかけとなった作品です。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
20 北千反畑の家・留学命令
明治31(1898)年12月の狩野亨吉の一高赴任、明治32(1899)年9月の山川信次郎の一高転出によって、漱石の身辺は次第に淋しくなっていきます。
山川は明治30(1897)年4月、漱石の招きで五高に赴任し、小天旅行や阿蘇登山に一緒に出かけた人です。明治32年には東京に帰ることを希望するようになり、漱石が一高校長となった狩野に交渉して、一高転任を実現させました。狩野に山川の移転を依頼する手紙を書きながら「他人が移転すると自分も移つて見たき様な心持が一寸起り申候」(明32・6・20付)と書き添えているのもこの頃です。これは、漱石が熊本に腰を落ち着ける決意をしてから久々に見せた弱音でした。
一方、五高の俳句結社であった紫溟吟社は市中の池松迂港が加わり、次第に活動が広まっていきます。迂港の尽力によって明治32年12月27日には「九州日日新聞」に初めて「紫溟吟社」の俳句が掲載されます。やがて「漱石選」の俳句も新聞紙上を賑わせるようになります。漱石は東京の高浜虚子にも新派俳句の振興のために協力を頼んでいます。新聞紙上には東京の俳人たちの句も掲載されるようになります。
明治33(1900)年4月、漱石は北千反畑町78番地(現熊本市中央区北千反畑3-16)に引っ越します。熊本での最後の住居です。家主の磯谷家に伝わる話では、漱石が五高への通勤の途中、2階建ての借家が建つのを見ていて、2階を書斎にしたいと言って、完成するとすぐに借りに来たのだそうです。「菜の花の隣りもありて竹の垣」という句が詠まれた家です。
書生をしていた行徳二郎は、筆子を乳母車に乗せ、飼っていた大きな犬を連れて、すぐ近くの藤崎八旛宮によく散歩に出かけたそうです(夏目鏡子『漱石の思い出』)。
4月13日には漱石に全面的な信頼を寄せた中川校長が第二高等学校の校長として転出し、桜井房記が校長となりました。そして、漱石は教頭心得に任じられました。5月12日には、文部省から英語研究のため、2年間の英国留学を命じられ、にわかに漱石の身辺は慌ただしくなってきました。五高に籍を置いたまま、第五高等学校教授として留学することになったのです。
漱石は、鏡子と筆子、また生まれてくる2人目の子どもを鏡子の実家に託すことにして、熊本の家を引き上げることにしました。折から、熊本は豪雨のため各地で増水しました。なんとか鉄道が通った7月15日、漱石たちは上熊本駅から東京に向けて出発しました(許斐彗二「漱石が熊本を去った日」)。その直後から、再び降り続いた雨で白川に架かっていた橋はすべて流失してしまうのですが、まさに間一髪の脱出でした。漱石が熊本に降り立ってからすでに4年3か月の月日が経っていました。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
21 漱石の英国留学
明治33(1900)年9月8日、漱石は、横浜港からロンドンに向けて出発します。10月19日イタリアのジェノバ港に上陸。そこから陸路でパリに向かいました。パリで開催中の万国博覧会を見物し、エッフェル塔にも登りました。目的地のロンドンに着いたのは、10月28日の夜でした。漱石は留学先を決めるために11月初めケンブリッジを訪れましたが、国から支給される留学費用では足りないため断念し、ロンドンに戻りました。
当時、ロンドンは物価が高く、年間1,800円の留学費用で暮らしていくのは大変でした。最初の下宿は1日に6円もかかるので、早々に切り上げて安い下宿に移りました。2年間のロンドン滞在で5回住居を変えていますが、これは熊本時代と同様、家賃や家主の都合など、余儀ない理由からで、決して引っ越し好きだったからではありません。
漱石は、ロンドン大学のユニバシティ・カレッジのケア教授の講義を2か月ほど受講しただけでやめてしまいます。翌年1月からはケア教授の紹介でシェイクスピア研究者として著名なクレイグのところで個人教授を受けることにしました。これは多くの留学生が大学や研究所に所属したのに対して珍しい形でした。漱石の留学命令は「英語研究」でしたが、漱石は「英語」ではなく「英文学」とは何か、という大きな問題を自分自身の研究課題として取り組んだのです。それは、幼い頃から親しんだ漢文学のようには英文学がわからないという、学生時代から漱石の心に兆した不安を解消することでもありました。
国から派遣された留学生は、半年に一度留学の状況を文部省に報告する義務がありました。それを申報書といいますが、五高記念館には3通残っています。最初の申報書は、明治34(1901)年1月に書かれたもので、「物価高直ニテ生活困難ナリ十五磅ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ大学ノ講義ハ格別入学科授業ヲ払ヒ聴ク価値ナシ」とあります。
個人教授についたことも記されています。ところが、同年7月の申報書はクレイグに1回5シリングを支払っているということ以外、何も書かれておらず、他は空欄でほぼ「白紙」状態。明治35(1902)年1月と7月に提出されているはずの申報書は現存しません。最後の申報書が明治36(1903)年1月のものです。ここには「英語研究ノ外文藝ノ起原発達及其理論等ヲ研究ス 但シ自修」と書かれています。
個人教授もやめてひたすら「自修」する日々。文部省に「夏目発狂す」との知らせが届きます。文部省に送った「白紙」の申報書が噂に拍車をかけます。留学期限の1か月前、ドイツに留学していた藤代禎輔に「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」という命令が下ります。しかし、藤代が実際に漱石に会ってみると心配する状況ではないとして、漱石は藤代より2船遅れて12月5日、帰途につきます。
ロンドン留学の2年間は、漱石に「不快」な時代として回顧される一方、日本人である自分自身を基準にするしかないという「自己本位」を確立した時代でもあります。また、「おれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい」(明34・2・20鏡子宛)という漱石のラブレターの存在は、熊本時代の漱石夫妻がいかに愛に満ちたものであったかの証拠ともなるでしょう。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
22 漱石帰朝そして五高辞職
明治35(1902)年12月5日、漱石は、2年間のロンドン留学を終え、日本に向かう船に乗ります。長崎に寄港したのが1月20日。22日長崎を出港して23日神戸に上陸、24日には東京に着きました。
五高に残る「留学始末書」(文部大臣宛に出す留学の報告書)は1月26日の日付で提出されたものですが、そこには「一月二十日長崎港着同二十一日熊本着」とあります。また、五高の「職員出欠調」にも「二十一日帰校」と記されています。長崎到着から出発まで2日半あります。その間、これらの書類にあるように五高に帰校したのかどうか、いまだ確証はありません。
帰朝した漱石を待ち受けていたのは、生活の立て直しでした。留守家族には月々25円の支給がありましたが、それでは到底足りず、鏡子の実家の援助を当てにしていたのですが、鏡子の父・中根重一は事業に失敗し、負債を抱える始末。鏡子は着物も布団も着破って漱石の着物を女物に仕立て直して着ていたそうです。家は畳替えもできず、荒れ放題でした。むろん、熊本に帰れば以前と同じ生活が保障されていました。しかし、東京を離れて西へ、西へと住居を移し、およそ8年経っていました。
友人たちの多くは東京に集まっており、漱石が熊本に帰りたくなかったのも無理はありません。漱石は、ロンドンから友人たちに向けて、東京で職を見つけてほしいと頼んでいました。しかも漱石はロンドンで、「英文学」とは何か、という壮大な研究に取りかかっていました。精神をすり減らしてひたすら研究に打ち込んできた漱石は、できればそうした生活を続けたかったのでしょう。
第一高等学校の校長だった狩野亨吉は、一高講師として招こうとしますが、五高への義理もあり、すぐに一高に呼ぶのは不都合だとして、東京帝国大学の講師の口を世話します。しかし、五高でもなかなか漱石を手放したがらず、漱石の五高辞任は3月まで決まらなかったようです。3月9日、菅虎雄に宛てた手紙で漱石は「熊本の方愈辞職と事きまり候」と報告しています。
辞職願が3月14日提出され、31日をもって退職となりました。明治29(1896)年4月に赴任してから丸6年たっていました。五高では漱石の後任人事を急ぎ、3月24日に神奈川県第一中学校の教諭だった名須川良を五高教授として任命するよう文部省に願い出ています。漱石の退職後、できるだけ早く任用してほしいと訴えたのですが、少々遅れ4月7日に辞令が下りました。五高の校長はすでに桜井房記に代わっていましたが、漱石がいかに五高で必要とされたかがわかります。
4月30日、五高在職6年以上で退職したため、年俸の3か月分、300円が漱石に支払われました。これが家計に苦しんでいた夏目家を助けることになったのはまちがいありません。東京での新しい生活が始まりました。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
23 作家漱石の誕生
明治36(1903)年4月、漱石は第一高等学校、東京帝国大学文科大学の講師になります。翌年には、生活費を増やすために明治大学予科でも教え始めました。
大学では、英国で研究していた英文学の講義を行いますが、前任のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の文学的な講義と違って難しかったため、最初は評判が悪かったようです。漱石は大学をやめたいと思いましたが、学長に引き止められ、思いとどまります。
そんな中で漱石は神経衰弱にも苦しめられます。しかし、9月からシェイクスピアの講義を始めると、大好評で法科大学や理科大学の学生まで聴講に来るほどになりました。
一方、寺田寅彦をはじめとする五高時代の教え子や、大学での教え子たちが漱石の家にやってくるようになります。漱石は集まってくる人々を温かく包んで「そのそばを立ち去り難く」(小宮豊隆『夏目漱石』)する人でした。
また、高浜虚子や俳句雑誌『ホトトギス』の同人たちが集まっては、漱石に俳体詩(俳句を連ねて詩のようにしたもの)を書かせたりしました。明治37(1904)年11月、高浜虚子に勧められて「吾輩は猫である」を書き、それが『ホトトギス』に掲載されると大評判になりました。「吾輩は猫である」をきっかけとして、漱石の創作欲は一気に高まり、「倫敦塔」「カーライル博物館」など次々に作品を発表します。明治39(1906)年には「坊っちゃん」(『ホトトギス』明39・4)を発表し、さらに漱石の名前は高まりました。
漱石には、いろいろな雑誌社から執筆依頼が来るようになります。授業のかたわら、漱石はどんどん作品を生みだしていきました。そして熊本の小天旅行を素材にして書かれた「草枕」(『新小説』明39・9)は、広く読者に迎えられただけでなく、大阪朝日新聞記者・鳥居素川の目に留まりました。鳥居は東京朝日新聞社の池辺三山に働きかけ、漱石を新聞社に招くよう尽力しました。この2人が熊本出身というのも不思議な縁です。
明治40(1907)年4月、漱石は教師をやめ、朝日新聞社に入り、職業作家となりました。それから亡くなる大正5(1916)年12月9日まで、わずか10年の作家生活の中で『虞美人草』をはじめとして、『坑夫』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』『道草』『明暗』など、今も読み継がれている名作を残しました。
五高の生徒たちもまた、漱石の作品を愛読しました。五高の校友会雑誌『龍南会雑誌』には、漱石の小説を模倣した作品がいくつも見られます。『三四郎』(明41・9~11)の連載が始まると、五高から東京帝国大学に進学した主人公三四郎に自らを重ねて、「われら三四郎」と称するようになります。たしかに『三四郎』は漱石の五高時代の経験がなければ生まれなかった小説かもしれません。
今年は漱石生誕150年にあたります。熊本には漱石を偲ぶことのできる遺跡がいくつもあります。改めて漱石の作品に触れてみてください。
〈終わり〉
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)