清水地域の名所・旧跡・文化財 ~清水地域をうろんころん~
清水まちづくりセンター管内の名所・旧跡・文化財等を紹介していきます。今後、少しずつ追加していきますので、地域の魅力を少しでも多くの皆様に紹介できればと思います。気をひかれるところがあれば、ぜひ現地でご覧ください。 【各記事のタイトルをクリックすると、内容が個別表示されますので下にスクロールしてご覧ください】
このページは清水まちづくりセンターの地域担当職員が地域の魅力を発信するために掲載しています。 歴史や文化財等の専門家ではありませんので、できるだけ注意はしていますが誤りがあるかもしれません。お気づきの点がございましたらご連絡いただければ幸いです。また、地域に伝わる伝承なども教えていただければと思います。地域の方と一緒に作っていければ幸いです。 なお、説明文中で和暦の年には時代が分かりづらいため、参考に括弧書きで西暦を記載しています。旧暦と新暦で異なるため必ずしも正確ではないかもしれませんのでお断りしておきます。 なお、副題の「うろんころん(する)」は熊本の方言で「うろうろする」「散策する」の意味です。 八景水谷公園・水道記念館【八景水谷公園】 八景水谷公園は、肥後細川藩第3代藩主細川綱利公によってお茶屋が作られたことにより開かれました。 湧水に恵まれ、大正13年(1924年)に熊本市の上水道が施設されてからはその水源として利用されています。なお、この水源地は国が選定する「近代水道百選」に県内から唯一選ばれています。 公園には春の桜など四季折々に花が咲き、清流にはカワセミが姿を見せることもあり、市民の憩いの場となっています。 また、公園内の水の科学館では、くまもとの水について体験を通して学ぶことができます。
八景水谷の地名は綱利公が近江八景になぞらえて茶屋から眺めた八景を選んだことに由来すると伝わります。 三嶽青嵐(さんがくせいらん)・・・夏の木々が青々としている三ノ岳に強い風が吹きつけている景観 金峰白雪(きんぽうはくせつ)・・・金峰山が雪に覆われている景観 熊城暮靄(ゆうじょうぼあい)・・・夕暮れの靄(もや)が熊本城の方角にかかっている景観 浮島夜雨(うきしまよさめ)・・・夜の雨がしとしとと降り浮島周辺の湖面を揺らす景観 壺田落雁(こでんらくがん)・・・坪井川周辺に広がる田園に雁の群れが舞い降りる景観 龍山秋月(りゅうざんしゅうげつ)・・・立田山に秋の名月が顔を出している景観 亀井晩鐘(かめいばんしょう)・・・亀甲山光照寺の梵鐘が鳴り響く景観 森林紅葉(しんりんこうよう)・・・御茶屋近くの庭園内の森が紅葉で色付いている景観
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| 朱塗りの橋を渡ると水神の祠があります | 水の科学館 | 広場にはトイレや遊具もあります |
【水道記念館】 公園に隣接する水道記念館は、大正13年(1924年)から昭和42年(1967年)までの43年間八景水谷水源地第2送水ポンプ室として使用された建物で、昭和49年(1974年)から平成2年(1990年)まで水道記念館として使用されました。平成9年(1997年)には国の登録有形文化財に登録されています。 拝聖院拝聖院はもと拝聖庵と言い、寛文4年(1664年)に開かれました。その後藩主細川綱利公の厚い保護を受けたといわれるが、明治維新後は廃寺となり鳩野宗巴の別荘となっていました。昭和31年(1956年)に拝聖院として復活しています。
(細川藩医師団の赤十字活動)
明治10年(1877年)の西南戦争の時、拝聖庵跡に避難していた鳩野宗巴等藩医8名はこの地や近くの寺院や民家等で敵味方の区別なく治療を行いました。これは日本赤十字活動の始まりと言われています。
(細川綱利公お手植えの彼岸桜)
八景水谷にお茶屋を作った細川綱利公お手植えと伝わる彼岸桜。樹齢約350年の古木で、市の指定保存樹木になっています。敷地内には他にも立田山ヤエクチナシとナラガシワも指定保存樹木になっています。
(夏目漱石句碑)
夏目漱石が旧制五高教師だった明治31年(1898年)に拝聖院を訪れ、この地の彼岸桜を詠んだと伝わる句を刻んだ石碑が令和5年(2023年)3月に建立されています。句碑に刻まれている句は「花一木穴賢(あなかしこ)しと見上げたる」。
(由井正雪腰掛石)
由比正雪は江戸時代の軍学者であり、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死を契機として、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ幕府転覆を計画した慶安の変の首謀者です。島原の乱の首謀者の一人森宗意軒と天草で会ったと「慶安太平記」にあり、腰掛石の標柱には「寛永12年(1635年)頃拝聖庵に止宿した」とあります。
明治十年頃の鳩野家色紙にこの腰掛石を描いたものがあり、石工がこれをげんのうで割ろうとしたところ石は割れず石工がけがをした、これは正雪のたたりであろうと村人が噂したと記されています。
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| 境内の石仏 | 鳩野宗巴像 | 西南の役細川藩医師結集の地石碑 |
高平台校区の神社【髙平神社】
社伝によれば寛平2年(890年)創立。一時大破したが、元弘元年(1331年)菊池武重公により清水村13ヶ村(高平、大窪、山室、打越、津浦、兎谷、万石、亀井、松崎、室園、新地、須屋園、麻生田)の産土神社として社殿を造営したとのことです。寛永11年(1634年)には細川忠利公が幣帛料を献納したと云われています。
国郡一統志には三宮大明神とあり、肥後国誌には阿蘇三宮社と記されており、手水鉢には「文政七歳(1824年)甲申九月九日下高平邑氏子中奉寄進」の銘があります。令和4年(2022年)に拝殿の改築などが行われています。 境内にはアラカシやクスノキなど多くの熊本市指定保存樹木があり、立派な狛犬、稲荷大明神や三宝荒神も祀られるなど歴史と格式を感じさせます。 祭日は10月9日
髙平神社への地図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください
【大窪熊野座神社】
手水鉢に「明和元申年(1764年)9月吉日大窪村氏子中奉寄進」の銘があり、肥後国誌には「大窪村権現宮」と記載されています。昭和57年に改築された記念碑が建っています。
ここから旧3号線に抜ける小路から、天気のいい日には遠く阿蘇を見ることができます。 神社の入り口には観音堂もあります。 祭日は10月13日 大窪熊野座神社への地図は、 熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください
【山室菅原神社】
享保十一年(1726年)の水盤があり、肥後国誌には「天満宮」とあります。 椎の大木があり、古くから神木としてあがめられたものと考えられています。 また、イチョウの大木が秋には多くの実をつけます。 拝殿には複数の絵馬が奉納されています。 祭日は10月15日 山室菅原神社への地図は、 熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください
【打越菅原神社】
神社入口に嘉永四年(1851年)の猿田彦大神の石碑があり、拝殿右手の石の手水鉢は、取材時には読み取れませんでしたが、昭和44年(1969年)の調査で「文化十年(1813年)癸酉五月」の銘が確認されており、これと同じものと思われます。
国郡一統志では天神とあり、肥後国誌には天満宮とあります。
熊本市指定保存樹木のイチョウとサカキがあります。イチョウは秋には多くの実を付けます。
祭日は10月12日 打越菅原神社への地図は、 熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください
【津浦熊野座神社】
天保八酉年寄進の銘が入った手水鉢がありました。国郡一統志には熊野権現とあり、肥後国誌に権現宮とあります。 拝殿に貼られた由緒書きには「ご鎮座は年代不詳ですが天保年間一八三十年頃にご鎮座八百年祭を斎行とあり平安時代にご鎮座頂いたと考えられる」との記載がありました。 平成11年(1999年)に神殿が改築され、記念碑が建立されています。鈴及び鈴尾は令和2年(2020年)に寄贈されたものです。 参道には立派な石灯籠が並んでいます。 祭日は10月10日 津浦熊野座神社への地図は、 熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください 【船場天神】肥後国誌に「天神社 舟場山ニアリ、古ノ舟玉ヲ祭ルト云ウ」とあります。 地域の方の話では、地名のとおり昔は坪井川の水運を使った船場があり、そこから熊本城まで物資を運んでいたということです。 秋には神社の両側のモミジが美しく色付きます。 祭日は3月20日 清水校区の神社【兎谷金山彦神社】
肥後国誌には「兎谷蔵王権現 寛文七年(1667年)九月勧請」と記されています。神社の由緒書には「祭神金山彦神は何年頃より祭りしか不詳であるが、金峰山より勧請せしものと口伝がある。」と記されています。
金属に関する神様が祀られているのは、寛永13年(1636年)に兎谷の地に地筒という鉄砲を扱う武士が入植されたことと関係があるようです。
市の指定保存樹木の木斛と楠があります。
祭日は10月12日 兎谷金山彦神社への地図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。
【亀井神社】
肥後国誌には妙見社と記載されており、「寛文十六年勧請之」とあります。寛文は13年(1673年)までなので寛永16年(1639年)の誤植の可能性が指摘されています。 熊本地震による被害により、令和元年に社殿の改修が行われています。境内には市の指定保存樹木のイヌマキがあります。
神社前には熊本水遺産に登録されている妙見池があり、水神が祀られています。現在は湧水は枯れていますが、池の南側では春に花菖蒲が美しい花を咲かせます。
祭日は10月18日 亀井神社への地図は、 熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。
【万石菅原神社】
享保13年(1728年)頃には成立していたと考えられており、平成2年(1990年)7月吉日の神社新築記念碑があります。 社殿に上がる階段の脇に猿田彦大神の石碑があります。
市の指定保存樹木の銀杏と楠があり、秋には銀杏と紅葉が色付き黄と紅の美しい色彩を見ることが出来ます。
祭日は10月11日 万石菅原神社への地図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。
【松崎八幡宮】
景行天皇が、ヤマト政権に背いた九州南部に住む熊襲を平定する際にここに立ち寄ったといわれており、熊本市内で唯一の景行天皇伝説が残る地です。
鳥居を潜ると左手に市の指定保存樹木の巨大な楠があります。この楠の根元には長さ188cmの箱式石棺が包まれています。
神社に隣接して地蔵堂と弥勒堂があり、弥勒堂は「耳の神様」として地域の信仰を集めています。
祭日は10月10日 松崎八幡宮への地図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。
【室園年禰神社】
神社の由緒書きによると、「神社の起原は定かでない。江戸時代の中期以降で今から凡そ三百年程の歳月を経て現在に至っていると思われる。」と書かれている。明治12年(1879年)に神社の再建がされ、平成15年(2003年)に境内の整地、神殿再建、拝殿その他の営繕工事が行われています。現在も多くの美しい絵馬が奉納されています。
社殿の隣には観音堂があり、鳥居を潜り右手に向かうと金刀比羅宮があります。この金刀比羅宮は、以前は拝聖院の隣接地に安置されていたものが、年禰神社の再建と同時にこの地に遷宮されています。
祭日は10月15日 室園年禰神社への地図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。
【豊国廟跡】
立田山中腹の立田山配水池から山頂へと続く道を歩くと、「脳の神 豊国大明神参拝入口」と彫られた石柱があり、そこから入ります。
加藤清正が豊国大明神(豊臣秀吉)を祀るために建立した廟跡です。
この廟は壮麗なもので、屋根瓦には金箔が施されており、太陽の光が反射して白川の魚がまぶしくて逃げてしまったと伝承されています。実際、大正時代に金箔瓦が出土しています。
豊臣氏の滅亡後に廟は破却されてしまいましたが、現在も積みあがった巨石の前に燈明所が設けられ祀られています。
祭日は9月18日 なお、付近は「立田山ヤエクチナシ自生地」として国指定天然記念物となっており、案内板の付近では、植栽されたものを見ることができます。 豊国廟跡図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。
坪井川遊水地・坪井川緑地【坪井川遊水地】
坪井川遊水地は市街地の浸水被害を防ぐことを目的に整備され、高平台校区、清水校区、壺川校区、黒髪校区に跨り56haの広さがあります。
遊水地の土手は遊歩道になっており、多くの市民がウォーキングやランニングを楽しんでいます。また、地域の方々で構成されるNPO法人坪井川遊水地の会を中心に桜の植樹などの環境整備が行われています。 高平台校区にある花公園では四季折々の花々が行き交う人々の目を楽しませています。
ツバメのねぐら入りが見られたり、希少動物のカヤネズミが生息するなど、市街地にありながら豊かな自然の残る貴重な場所になっています。
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| 花公園の桜と芝桜 | 遊歩道から見た菜の花 | 遊歩道沿いのひまわり |
花公園への地図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。
【坪井川緑地】
坪井川緑地は遊水地の中にあり、夜間の利用が可能なテニスコート、野球場、多目的運動広場の運動施設、市内で唯一の超大型複合遊具「ひごっこジャングル」などの遊戯施設が設置され市民の憩いの場となっています。
初夏には、白・ピンクの2色の睡蓮が池を覆うように咲いています。 坪井川緑地への地図は、熊本市地図情報サービス(外部リンク)からご覧ください。 浄国寺・活人形谷汲観音像【浄国寺】 浄国寺は昭和42年(1967年)に白川の河川敷工事の為本山町より現在地に移転しました。元々は中央区の寺原周辺にあり、寺原の地名も浄国寺の付近であったことによるとも伝えられています。 境内には数多くの仏像が祀られていますが、そのうちの三尊像(善光寺阿弥陀石像)は、その昔白川の底より見出されたと伝えられています。
【活人形谷汲観音像】 活人形師松本喜三郎の代表作で、熊本県の重要文化財に指定されています。 松本喜三郎は現在の熊本市中央区迎町で産まれ、大阪、東京で活躍。活人形師として不動の地位と名声を築いた後、明治12年(1879年)熊本に帰り活躍を続けました。 谷汲観音は浅草での興行に展示され、その後浅草伝法院の境内に仏像として祀られていましたが、熊本に帰った喜三郎翁は、観音様が作者にとってあまりに会心の作であった為に離れがたく、松本家の先祖の眠る浄国寺に寄進しています。
山伏塚山伏塚の由来については、細かな部分では諸説ありますが、一説によれば次のとおりです。 熊本城の築城に際して、加藤清正は上方から山伏(やんぼし:修験僧のこと)の龍造院(りゅうぞういん)を招いて地鎮祈祷をしました。祈祷は無事に終わったのですが、上方に帰る龍造院を送るために開かれた宴席で、龍造院がふと城構えについて話したから大変です。城の秘密が漏れると考えた武士たちは、龍造院の後を追い、熊本城の北、現在の熊本市池田町(いけだまち)あたりで龍造院を切り殺してしまいました。この塚は、殺された龍造院を葬ったものといわれています。(熊本市観光ガイドホームページより) 昭和54年(1979年)に市の指定文化財となっています。
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| 山伏塚 | 隣には仏像が祀られています | 県道から階段を上がります |
豊前街道一里木跡県道303号の徳王バス停付近です。 豊前街道は、江戸時代に熊本と小倉を結んだ主要道路で小倉街道ともいわれ、豊後街道とともに参勤交代のルートとなっていました。熊本城から一里にあたるこの地点には目印として榎が植えられ、一里山と呼ばれていました。 ここから北側の道路は、道の両側が崖のようになっていて凹状の切通道になっています。これは加藤清正が敵の侵入を防ぐために作ったと言われています。
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| 一里木跡標柱 | 凹状の切通道 |
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稲荷山古墳成立年代は6世紀後半と考えられている円墳で、墳丘の直径は約30メートル、高さは約6メートルです。 昭和23年の発掘調査により赤・青・白の三色で描いた同心円と連続三角形文様が並ぶ装飾古墳であることが確認されていますが、現在ではうすれてしまっています。保存のためフェンスに囲まれていて古墳の中に入ることはできませんが、馬具、鏡、曲玉、管玉、太刀、矛などが出土しており、現在熊本博物館に収蔵され、その一部が展示されています。
周辺は藪に覆われていて歩きにくいので、現地に行く際はお気を付けください。 立田山立田山は標高152メートル。北区と中央区に跨る、市街地に残された貴重な自然緑地となっています。 「立田山憩の森」として4つの観察コースが設けられており、身近に山歩きを楽しむことができます。 多種多様な木々や草花、野鳥や昆虫などの自然に親しむこともできますし、「豊国廟跡」「細川さんの御茶屋跡」などの史跡や、山の神などを訪ねてみるのもよいと思います。多目的広場やお祭り広場では大人数でのレクリエーションもできますし、お祭り広場には木製大型遊具も設置されており、お子様にも喜んでいただけます。 立田山配水池には「水」の文字があり、山腹の西側斜面には「山」の文字も見ることができますので、ご存じない方は探してみるのも楽しいかもしれませんね。
(細川さんの御茶屋跡) 立田山のお祭り広場南側、高台になった場所の上にあります。 「肥後国誌」に「御茶屋跡 忠利君の御床几場なり」とあり、藩主の休憩所であったことが伺えます。 立田山一帯は、代々藩主の放鷹が行われたところであり、その折の休憩所として、又、菩提寺泰勝寺参詣帰りの立ち寄り所としても利用されていたようです。 創建は17世紀中ごろと推定されていますが、現在は建物はなく、礎石や井戸が往時をしのばせています。 鉄砲塚碑北バイパスの建設にあたり、地域住民から「南北朝時代から西南戦争の時期と口伝されている、「てっぽう塚」が存在している。この塚を地元の文化財として保存できないか」との要望がありました。これを受け県が平成11年(1999年)に調査を行うと、塚と溝が確認され、古代から近代までの遺物が出土しました。塚本体は近代になってから移動していることが分かりましたが、元の位置は分かりませんでした。
鉄砲塚と呼ばれるようになったのは、江戸時代に細川藩がこの地を鉄砲の射撃訓練に使用したためと言われています。発掘された塚は、この鉄砲塚碑より東南約30メートル付近に存在したとのことです。 年神さんの湧水「年神さんの湧水」は熊本水遺産に登録されている湧水です。後背地一帯は、市の環境保護地区に指定され、自然環境の保護が図られています。隣には年神神社があり、3本の市指定樹木の銀杏が色付く様はとても鮮やかです。 湧水には鯉や無数の小魚が泳ぎ、道向かいには湧水からの流れを活かした高平年神公園が整備されており、住民の憩いの場になっています。
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