〈10〉合羽町の家
漱石が作った北九州旅行の俳句に続いて「内君の病を看護して」という前書きのついた句があります。「枕辺や星別れんとする晨」という句です。内君とは奥様という意味ですが、少々改まったような呼び方に漱石の照れが感じられます。旅行の疲れが出たのか、病に伏した鏡子を一晩中見守った漱石のようすがうかがえます。季語は「星の別」で、陰暦7月7日の夜牽牛と織女が会って、また別れることを言います。まさに星々が別れようとする明け方まで、漱石は鏡子の枕辺でまんじりともしなかったのでしょう。鏡子の弟・中根倫は「姉の病気の時なぞ実に親切なもので、普通の旦那さんより余つ程親切でした」(「義兄としての漱石」)と回想しています。
旅行から帰った明治29年(1896)9月半ば過ぎ、漱石夫妻は合羽町の家に引っ越します。通称光琳寺の家は、すぐ前が墓場だったうえに、その家に住んでいた人が斬り殺されたという噂があって、気味悪がっていたからでした。
合羽町237番地(現熊本市中央区坪井2丁目9-11)の家は、漱石が「名月や十三円の家に住む」と詠んだ、当時としては高価な借家でした。間数の多い家だったらしく、お手伝いさんと3人では住みきれないので、第五高等学校(五高)の同僚で歴史の教授であった長谷川貞一郎が5円の下宿料を払ってしばらく同居しました。また、長谷川の後には、漱石の友人で五高の英語教授として赴任してきた山川信次郎が30年4月から7円の下宿料で同居しています。
熊本で初めてのお正月を迎えたのがこの家です。鏡子は、張り切ってお正月のご馳走を整えます。しかし、お客や生徒がつめかけて、あっという間に料理がなくなってしまいました。あとから来たお客にはお膳もない始末で、漱石が怒り出し、長谷川が仲を取りなそうと大騒動です。仕出しをとることもできず、鏡子は意地になって元日の夜から12時までかかって金団を作ったそうです。漱石もこれに懲りて「正月は家にいないに限る」と、「次の年から正月へかけて、たいてい大晦日あたりに旅行に出ること」(「漱石の思い出」)にしたのです。
とんだお正月となってしまいましたが、漱石が機嫌の悪いのは、その場限りで、翌日か翌々日にはけろりとしていたそうです。漱石はこの元旦に「元日や吾新たなる願あり」と詠みます。新たな年は希望に満ちて始まりました。
この合羽町の家に、漱石は30年7月まで住みましたが、現在は壊されて駐車場になっており、跡形もありません。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)