〈15〉大江村の家
明治30年(1897)9月、東京から帰った漱石は大江村401番地(現中央区新屋敷1丁目16番地)に引っ越します。当時、皇太子(のちの大正天皇)の傅育官(教育係)として宮内省に出仕していた落合為誠(東郭)の家を借りたのです。この家は現在、水前寺公園近くに移築され、保存されています。
鎌倉で静養していた鏡子が熊本に帰ってきたのは、10月下旬のことでした。鏡子はこの家について「たいそう景色のいいところで、家の前は一面に畑、その先が見渡す限り桑畑が続」き、「秋の景色はまた格別」(『漱石の思い出』)だったと述べています。家賃は7円50銭。家主の落合が帰郷する翌年3月末までこの家に住みました。別棟に小さい離れがあって、そこには五高生の俣野義郎が書生として住み込みました。のちには土屋忠治も加わります。漱石は、大学時代の授業料の返済を終了し、父への送金もなくなって、経済的な余裕ができると、こうして生活に困った学生の面倒を見るようになります。
俣野は、もともと菅虎雄のところにいたのですが、明治30年8月、菅が病気で五高を休職したため、漱石が面倒を見ることになったのです。真面目な土屋と違って、お酒は飲むし、ご飯は人一倍食べるし、お弁当を持たせれば毎回弁当箱を忘れて帰る、など鏡子をあきれさせましたが、夏目家にずいぶんと笑いの種をまきました。漱石がのちに書いた『吾輩は猫である』の多々良三平のモデルとされているのが、この俣野です。
五高では、英語学科主任であった佐久間信恭が7月に休職したため、10月、漱石は主任に命じられます。また、10日の開校紀念式では職員代表として「祝詞」を読んでいます。五高での漱石の存在は確実に大きなものになっています。
漱石は、明治30年4月22日付の正岡子規宛の手紙で「教師は厭」で、本当は「文学三昧」の生活がしたい、と伝えていました。しかし、その一方、中川校長から「是非共居つて呉れねば困ると懇々の依頼」があり、また、友人の山川信次郎を五高の英語教師として呼んだ手前、今はどんなに良い就職口があっても動くことはない、「御校(五高)の為に尽力すべし」と校長に明言したことを述べています。
その言葉通り、漱石は、学生のために、より良い教師を選ぶことにも熱心でした。明治31年1月、漱石の先輩の狩野亨吉を五高の教頭に招いたのもその一つです。のちの狩野亨吉の回想(「漱石と自分」『漱石全集』別巻)によると熊本時代が最も多く会っていた時期だといい、仕事だけでなく、一緒に散歩し、江津湖で舟遊びもしています。
また、この大江村時代で忘れてはならないのは、30年の年末から翌年にかけて、山川信次郎と出かけた小天旅行です。のちに『草枕』(明治39年)の素材となった旅行です。それは、朝日新聞社に入社し、職業作家に転身するきっかけを作った作品でもあります。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
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大江村の家の漱石夫妻(漱石写真帖より) |