〈16〉井川淵の家
明治31年(1898)3月、宮内省に出仕していた落合為誠(東郭)が、熊本に帰って来るため、急遽大江村の家を出なければならなかった漱石は、川向こうの井川淵町に小さな家を借ります。川べりの家で明午橋がすぐ近くに見える家でした。
間数も少なく手狭だったので、俣野義郎と土屋忠治には、金銭的な援助はするので五高の寮に入るように勧めます。しかし2人は、どんな狭いところでもいいので、置いて欲しいと頼んだので、7月の卒業までの間置くことにしました。
この家で、漱石夫婦にとって大事件が起こりました。それは、5月下旬のことです。鏡子が増水した川に落ちたのです。幸い投網漁をしていた人の網にかかって、命に別状はありませんでした。『道草』(大正4)は、漱石の実生活を素材とした作品ですが、そこには、ヒステリーを起こして廊下に倒れたり、縁側の端にうずくまったりしている妻を介護する健三の姿が描かれています。
鏡子のヒステリーについては、鏡子自身は生涯語ることはありませんでした。『道草』には、「妾の赤ん坊は死んぢまつた。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくつちやならない。そら其所にゐるぢやありませんか。」(七十八)と、流産後の妻が健三の手を振り払って起き上がろうとする姿が描かれています。「毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寝た」(七十八)というエピソードが真実かどうかはわかりません。しかし、熊本時代が、最もヒステリーの発作が激しかったといい、そうした発作の中で鏡子の事故は起きたのでしょう。再び同じことが起きないように漱石は心を砕いたものと思われます。
五高教授夫人が白川に投身自殺を図ったという噂が流れては困ります。新聞にそうした記事が書かれないように尽力したのが同僚の浅井栄凞だったそうです。
この事件は、長い間「梅雨時の水量の多い6月末か7月初め」の出来事と記されてきました。しかし、五高記念館に残っている職員の出欠簿を見ると、明治31年6月、7月は漱石の欠勤は1日もありません。これに対して5月は7日の欠勤があり、これほど多い欠勤は、熊本時代、後にも先にもないのです。しかも、当時の新聞で確認すると、この梅雨の時期には、雨量が少なく水不足で田植えができないという記事があるほどなのです。つまり、この事件は5月に起きたということです。
7月、俣野義郎と土屋忠治が卒業します。漱石の先輩で、漱石の尽力によって五高の教頭として赴任していた狩野亨吉は、自身が住んでいた内坪井の借家を漱石夫婦のために明け渡しました。2人が引っ越したのは7月末のことです。
(くまもと漱石倶楽部会員・熊本大学五高記念館客員准教授 村田 由美)
|
井川淵の家(漱石写真帖より) |