くらし・環境
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健康・福祉・子育て
学び・観光・スポーツ
しごと・産業・事業者向け
行政情報
R6.4.1現在
種 別
国指定
県指定
市指定
計
有 形 文 化 財
建造物
6
11
30
47
美術工芸品
絵画
0
3
9
彫刻
4
13
20
工芸品
28
36
書跡
2
24
古文書
考古資料
歴史資料
1
7
10
小計
75
61
156
無 形 文 化 財
芸能
民 俗 文 化 財
無形民俗文化財
民俗芸能
12
有形民俗文化財
14
記 念 物
史跡
11(1)
33
54
名勝及び史跡
天然記念物
7(1)
15
19(2)
40
71
合計
39(2)
91
114
244
登 録 有 形 文 化 財
-
(令和2年12月25日現在)
国
中央区二の丸(県立美術館)
平成25年11月15日
中央区井川渕町
県
中央区黒髪2丁目(熊本大学)
西区池田2丁目
中央区大江2丁目
中央区西阿弥陀寺町
注:インターネット上では表示されない漢字はカタカナで対応していますのでご了承願います。
指定年月日 明治40年5月27日 所 在 地 南区富合町木原 六殿神社楼門は、天文18年(1549)宇土城主名和(なわ)氏が建立したといわれており、巧みな手法と複雑な工法は室町時代の典型的な建築の様相を示し、明治40年(1907)県下でも一番早く国の重要文化財に指定されました。 構造は、三間一戸の入母屋造り、茅葺きで二階建て、柱はすべて朱塗りの丸柱となっています。棟高7.82m、桁行4.85m、梁間2.73mと規模は小さいものの、建築様式は中世社寺建築に多い禅宗様式と異なり、古代の和様を基調としている点が特色です。三手先組物の斗キョウ、二軒繁垂木、中備えの間斗束、正面の蟇股、連子窓などにそれが見られるが、規模や木割が小さいことや装飾的な点が室町時代の特徴をよく表現されています。
指定年月日 昭和8年1月23日所 在 地 中央区本丸、二の丸 熊本城には、その昔櫓49、櫓門18、城門29がそびえ立っていましたが、明治10年の西南戦争で薩摩軍による熊本城攻撃直前の火災によりその大半を焼失し、現存する建物は13棟のみです。昭和8年に国宝に指定され、文化財保護法の制定後は重要文化財となりました。建物の一つは不開門、一つは長塀で、残り11棟が櫓です。中でも三層五階の宇土櫓は天正期の特色を残し、再建天守閣とよい対照をなしています。天守台東側の東竹の丸には、五間櫓・北十八間櫓・東十八間櫓・源之進櫓・四間櫓・七間櫓・十四間櫓・田子櫓・平櫓が集中しており、二の丸には監物櫓(新堀櫓)だけが残っています。
指定年月日 昭和29年9月17日所 在 地 中央区古京町(熊本博物館内) 細川家舟屋形は熊本藩主細川氏が参勤交代のとき使用した御座船「波奈之丸」の、藩主の居間部分です。波奈之丸ははじめ細川忠興が豊前中津に在城した頃につくられ、以後何度も造り替えられましたが、現存するものは天保10年(1839)に建造された第6代目です。明治4年の廃藩によって廃船となったとき、藩主の居間部分だけが保存され、数次の変遷を経て昭和38年に再建天守閣内に収まり、平成30年に熊本博物館に移されました。舟屋形は一重二階建で、一階は主室と次の間に分れ主室は畳敷き、二階は板敷き一室です。一階の壁面は大和絵の山水、格天井は華麗な装飾画で飾られており、熊本藩のお抱え絵師であった福田太華が描いたと伝わります。
指定年月日 昭和44年8月19日所 在 地 中央区黒髪2丁目 明治19年の中学校令によって、全国を5区に分ち、1区に1校ずつの高等中学校を設けることが決まった。その第5区の高等中学校が明治20年熊本に置かれることになり、黒髪の本館は翌21年に着工し、22年に竣工した。洋風の赤煉瓦造りでイギリスのフィーン・アン様式にならったものと言われている。設計は文部省の技師久留正道と山口半六である。当時の基礎固めは栗石搗込であるが、念入りに施工されたため、明治22年の熊本大地震にもびくともしなかった。床は老杉赤身でつくられており、100年以上経過した今日でも充分に使用に堪える堅牢なものである。本館は平成5年から、五高記念館として公開されている。
指定年月日 平成6年12月27日所 在 地 中央区黒髪2丁目
明治後期の旧第五高等学校にあった工学部が独立して、熊本高等工業学校(現在の熊大工学部)になった折に新設された機械実験工場である。屋根は瓦葺、越屋根付の切妻造からなる。壁は旧五校本館と同じ赤煉瓦のオランダ積みで付柱や開口部回りの要所には切石が用いられている。建物内部は木造の回廊が廻り、上部には木造のクレーン・ガーダーとクィーン・ポスト・トラスが露出し、力強さを感じさせる。現在は熊本大学工学部研究資料館として使われている。
指定年月日 令和6年1月19日所 在 地 中央区新町
吉田松花堂は伝統薬「諸毒消丸」の製造・販売を営む商家の上質な意匠を持つ大規模な邸宅である。伝統薬の店舗・製薬所である「主屋」は明治11年建築の意匠的に優れた町屋であり、同時期建立の土蔵を含め、近代の商家の構えを残している。敷地の東側には「十五畳」や「茶室」などの賓客の宿泊施設にもなった上質な近代和風建築群が遺っている。主屋、十五畳、大玄関、書院、茶室、旧御浴室及び御便所、下台所、土蔵、表門の9棟の建物と土地が指定された。
指定年月日 昭和39年3月10日 所 在 地 中央区水前寺公園
水前寺成趣園内の池に面して建てられている萱葺の建物である。慶長5年、後陽成天皇の弟の桂宮智仁親王が、細川藤孝(幽斎)から古今集の秘伝を授けられた場所である。それによって古今伝授の間と呼ばれている。桂宮家ではこの由緒ある建物を山城国(京都府)開田村の長岡天満宮境内に移し、長岡茶屋と呼んでいたが、明治4年細川家に贈られた。細川家ではこれを解体保存していたが、大正元年に至って現在地に移築復元した。杉戸の雲龍は消えかかっているが狩野永徳の筆、襖絵の竹林七賢は海北友松の画と伝えている。
指定年月日 昭和41年1月31日 所 在 地 南区野田1丁目
大慈寺の東北部、開山寒巌の霊廟前に相対して建てられている2基の石造層塔の西側のものである。昭和初年の緑川の改修までは2つとも山門の外にあったが、改修によって敷地が大幅に削られ現在地に移された。この無銘の層塔は花崗岩製で、相輪を失っているが現在10層より成り、高さは3.67m、元々は十三重塔であったと考えられている。塔身の四面に薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の4仏を浮彫りにし、中台石の四面に格狭間を刻んでおり、全体的な重量感と直線を基調とする構成美が見事である。
大慈寺境内東北部の寒巌の廟所にある3基の宝篋印塔である。廟所の中央に高く基檀をつくり、その上に置かれているのが霊根塔と呼ばれ、寒巌禅師の墓である。直線を主調として細かな装飾を省き、簡潔で均整のよくとれた美しさを保っている。開山の墓であるだけに相輪まですべて欠失部分はない。この霊根塔背後の覆屋の中に、2基の宝篋印塔が安置されている。もとは釈迦堂村にあったと伝えられるこの2基は、寒巌禅師の両親の供養塔と伝えられる。前者よりやや小さいが、花崗岩でできていて基檀に反花座を刻み、基礎には格狭間を切っている。
大慈寺書院の西側庭前に置かれている石造塔で、高さ1.3m程である。円盤形の基礎石の中央を彫り凹めて、塔身の脚部をすっぽりとはめこんである。塔身は棗形の短円柱で心もち胴に張りがある。通常宝塔の塔身には頸を造り出すが、これにはない。胴の四面に仏龕を穿ち、正面には智挙印の金剛界大日如来を刻み、残りの三面にはタラ-ク(宝生)、キリーク(無量寿)、アク(不空成就)の三如来を彫っている。紀年銘は「元仁元年甲申十二月十一日」(1224)とあり、大慈禅寺草創の弘安5年(1282)より58年も前のものである。又相輪は別個のもので後補である。
指定年月日 昭和46年4月21日所 在 地 中央区水前寺公園
明治4年(1871)、熊本藩が洋学校を開設したとき、洋学校の教師の住居として建設された。洋学校は古城の中段(現第一高校体育館の位置)に設けられたので、教師館も同じ台地に建てられた。熊本における洋館建築第1号で、コロニア風と呼ばれる様式をとっており、中央玄関から裏まで廊下が通り、この線の左右は対象をなしている。総2階で、西に面してコの字形のベランダがつき、階段は螺旋階段である。洋学校教師としてアメリカのジェーンズが招かれて住んだため、ジェーンズ邸の別名がある。また、この建物は博愛社(現日本赤十字社)が最初に活動を始めた場でもあり、その資料も展示している。
指定年月日 昭和46年4月21日所 在 地 中央区坪井4丁目
阿蘇凝灰岩製の笠塔婆の塔身で、笠部は失われて代わりに層塔の屋蓋部分などが載せられている。各面とも月輪の中に種子を彫り、これを蓮華座の上に載せている。月輪内は白、種子は黒、蓮華座は緑、その他全面を赤で着色し、正面種子キリークから順に、バン(金剛界大日)、ウン(阿悶)、タラーク(宝生)を刻んである。正面のキリークの下に「奉造立石塔婆一基」「安元元季 乙末 十月五日 壬午」「佛師長昭」の三行の銘があるが、三行目の銘は破損が著しい。安元元年は1175年で、平安朝末期に当たり、現在確認されている在銘笠塔婆では最古の物である。 熊本市では昭和45年この全部を有形文化財に指定したが、昭和46年に塔身は県指定となった。初層に重ねられた屋蓋は、凝灰岩製であるが、二段のしころ葺の丸瓦の先端には優美な巴紋を配し、四隅には鬼瓦をあらわし鎌倉時代の作と考えられる。またその上の水輪と三層の塔蓋は室町後期のものと推定されている。
指定年月日 昭和60年11月19日所 在 地 中央区古京町
肥後初代藩主細川忠利の弟、細川刑部少輔興孝は、正保3年(1646)2万5千石で刑部家をたてた。その子興之が寛文8年(1668)若死したため、次男の興知が新知1万石で家を継ぎ、二の丸に本邸を置いていた。興孝が延宝6年(1678)子飼に別邸を建てて移り住んだため、これをお茶屋と称し、やがて刑部家の下屋敷となった。明治6年城内の本邸を鎮台に接収された刑部家は、子飼邸を増改築してここを本邸とした。建坪約300坪の旧邸の中心は玄関・表客間・書院・春松閣で、それに茶室観川亭・長屋門・蔵・台所などが付属し、大名屋敷の形式を整えている。平成5年、熊本城三の丸に移築復原し、一般公開されている。
指定年月日 昭和61年1月14日所 在 地 中央区坪井2丁目
六地蔵塔は中世の大道沿いに設けられたものが多く、道行く人々の安全祈願と道路標識の役を兼ねていた。この塔は肥後に現存するものの中で最も美しく且つ完全な形で今日に伝えられてきた。伝承によればこの六地蔵塔はもと古府中(現二本木)の不動院の近くにあったらしく、天正17年(1589)に同院が現中唐人町に移転するとき同時に移設したと言う。西南役で寺は焼失したが、この塔は無事であった。その後寺は維持困難となって廃止され、この塔は水前寺製蝋会社敷地に移り、三転四転して現在地に収まった。文明14年(1482)の紀年銘があり、典型的な肥後型で、笠裏には蓮弁・鳳凰などが彩色で描かれている。
指定年月日 昭和39年3月10日所 在 地 北区植木町豊岡
凝灰岩で作られている総高約137cmの五輪塔で、完全に近い当初の形体で遺存し、火輪の重厚さと美しい反りや、均整のとれた姿はその年代を示している。水輪の東西南北の面に「ア(注1)」の種字を薬研彫りにしてある。地輪には陰刻銘があり、円台寺住僧阿闍梨貞珍の聖霊を弔うために、その子僧珍祐によって、元亨二年(1322年)に建立されたと記してある。円台寺にある石造笠塔婆と共に、円台寺の歴史を示す確実性の高い資料である。
板碑
安山岩の板状自然石に五輪塔を浮彫りにした板碑が二基ある。そのうちの一基は高さ約70cm。浮彫された五輪塔の高さ約40cm。他の一基は高さ約54cmである。そのうちの一基に、「天文十六年八月『 □ 』妙秀禅尼」の陰刻がある。
指定年月日 昭和40年2月25日所 在 地 北区植木町円台寺
笠塔婆は二基ある。凝灰岩で作られていて、共に塔身のみで、建久四年(1193年)在銘と、建久7年(1196年)の在銘である。建久四年在銘の塔婆は高さ87cm、横22cmで頂部に首がある。本来この上に笠石があったのであろう。全面に朱塗りの痕跡があり、上部の四方面に蓮華座の上に円をもって囲み、四仏の梵字を一字ずつ彫る。「ア」の下に銘文が陰刻されている。建久7年在銘の塔婆は近くにあり、同じ形式の塔婆で、高さ110cmで上部に首がある。現在の頂部の空風輪、火輪は後世に他の五輪塔の断材を転用したものであろう。各面の上部より15cmと、27.5cmに、上辺に平行して陰刻の線があり、その線の中に「バン」「タラーク」「ア」「キリーク」と薬研彫りにする。梵字の部分を黒に、他を赤に塗りわける。バンの下に陰刻した銘文がある。引用:「植木町の文化財」
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 小島7丁目
明治5年、明治天皇御巡幸の際に、6月17日に一泊され、同20日の夜に休憩された行在所の建物である。ここは旧藩時代には、藩米の集荷積出しを手広く行っていた米村家の所有地であった。米村家は当時小島第一の豪家であったため、藩主が小島に来られたときはその宿泊所(御旅所)に当てられていた。従って明治5年の明治天皇の西国御巡幸の際にも、白川県(現在の熊本県)は天皇の行在所を米村家と指定した。当主米村基三郎は天子様が来られるというので、別荘用に用意していた材料を使い、大急ぎで二階建を新築した。この2階10畳の間が玉座であった。二階への上り段が急なので、天皇がつかまって上られるように白と緋の縮緬で練った紐を上から垂らしていた。紐は現在も行在所に保存されている。
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 安政町
小泉八雲は英国人で、幼時に大叔母のもとで育てられ、15・6歳の頃左眼を失明した。やがて米国に渡った彼は苦学力行してその才能を認められ、明治23年日本に来て松江中学の英語の先生となった。翌年小泉セツと結婚し、11月に五高に転勤して来た。この家は彼がそのとき最初に住んだ家で、当時は手取本町34番地、現在の鶴屋デパートの東端みずほ銀行のところにあり、家主は赤星氏であった。彼が家主に特に注文して新調してもらった神棚は、現存している。彼はこの家に1年間住んだ後、外坪井の家に移り、明治27年に神戸に去った。手取本町のこの家は昭和34年鶴屋に買収されて解体されることになったので、保存会が結成されて現在地に移されたものである。平成5年度から解体修理を行い、併せて本来の姿へ復原した。
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 沼山津1丁目
横井小楠の旧居である。小楠は嘉永7年(1854)7月に兄時明が病死したので、家督をつぐことになった。彼は横井家の財政を立直すため、在宅願を出して安政2年(1855)に相撲町から沼山津に移転し、この家を四時軒と名づけ雅号を沼山と称した。その後小楠は安政5年に福井藩に招聘され、文久2年(1862)まで肥後と福井を往復したが、文久3年の刺客事件で武士の身分を取上げられ、沼山津に蟄居させられた。彼は明治2年1月5日京都で暗殺され、沼山津在住は実質8年8か月であった。 彼はこの地で家を増築し、私塾を開き多くの門弟を養成した。現在記念館のあるところがその塾と寮の跡である。私塾は早く解体されて消滅し、住居も明治期の火災で一部分しか残っていない。解体再建された建物の中12畳の座敷と4畳の板の間部分が旧来の四時軒である。
指定年月日 昭和49年5月15日所 在 地 花園7丁目 (永享四年銘)
現在は成道寺境内に移されているが、もとは上熊本方面から柿原に入る平小路橋のそばの崖下にあった。その前は現在の道路の中央にあったのを昭和36年に道脇に移し、さらに47年に寺の境内に移設された。塔身の上部には突出しがあり、中台と龕部は中空でその突出しにはめ込むようになっている。但し龕部は磨滅が甚しく、特に中央部が細くくびれていて六地蔵の姿などは全く残っていない。「肥後国古塔調査録」には、塔身に「永享四年壬子十一月□□□」(1432)と刻まれている旨の記載があるが、今はそれもほとんど失われ、僅かに「十一月」だけが何とか判読できる。 (延徳四年銘)
仏教では、人生は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のいずれかの境遇で悩み苦しみ、その救済を求めるとされている。そこでこの六道のそれぞれに救済の手を伸ばしてくれる仏として、六体の地蔵を祀る風習が中世からはじまった。これが六地蔵塔のおこりである。この成道寺の六地蔵塔は、もと参道の外の今の駐車場にあったが、昭和47年に寺内に取り込まれた。全体の高さは約300cmで、塔身は高さ153cm、六角形の一辺は43~45cmで、永享の六地蔵に比べて塔身の高さが縮み幅がふくらんでいる。中台は2段になっていて高さ38cm、龕部は高さ56cmで、龕部の六地蔵もよく残っている。製作は延徳4年(1492)で、成道寺の木谷叟の銘がある。
(永享四年銘) (延徳四年銘)
指定年月日 昭和49年5月15日所 在 地 花園7丁目 成道寺の庭園、囲いの塀の内側にある高さ220cmの大五輪塔である。仏教では、天地万物の構成の要素は地・水・火・風・空の五大であるとし、この五大が変化、展開することによってすべてのものが生ずるので、このことを五輪といった。この五大を象徴的にかたどったのが五輪塔で、四角の土台・球形の塔身・方錐の笠・上向きの半球形・宝珠を重ね合せたものである。成道寺の五輪塔は凝灰岩製で、台石には「天文五白 丙申三月十八日」(1536)「久布白□馬守 妙佶」「ドウ 賀山□慶妙全」の銘がある。成道寺に久布白対馬守の位牌があり、同じ年月日卒とあるので□の中は同じと考えられる。天福寺東の「ネコン塔」にも久布白対馬守の名が見える。 注:インターネット上で表示できない漢字はカタカナで対応していますのでご了承願います。
指定年月日 平成4年3月26日
所 在 地 四方寄町
豊前街道を往来する島津、細川などの大名が休憩所として使用したお茶屋で、庄屋であり質屋・酒屋を営んだ、元堀内家の住宅であった。旧北部町が寄贈を受け、現在は熊本市が記念館として一般公開している。建物は、自宅兼店舗使用部分と藩主の休憩所に使われた座敷部分(御成の間)の二つから成っている。堀内家の古文書によると座敷部分(御成の間)は文政10年(1827)と弘化4年(1847)に増築されたことがわかる。自宅兼店舗部分はそれ以前に造られたことになり江戸末期の町屋を表していると同時に座敷の導入過程を知る上で貴重である。
指定年月日 平成4年12月24日
所 在 地 城山上代町
明治初期の建築様式が顕著にあらわれた洋風土蔵造でフランス式(寄棟屋根)を模した衛兵所である。明治後期以後はドイツ式(切妻屋根)となる。木ずり下地に張り瓦、漆喰中塗り、上塗りをされた洋風トラス組みで分銅おもりによる上げ下げ窓やレンガ積み基礎を持つ。〔解体保存中〕
指定年月日 平成21年6月15日
所 在 地 富合町
清田家の先祖は、豊後国主大友氏の支族であったが、細川氏豊前国統治時代、初代五郎太夫は忠興の家臣となり、弟寿閑の娘・吉は立孝(宇土支藩祖)、興孝(刑部家祖)を生んだ。近世後期に本家を嗣いだ栄太は、明治維新後城下を離れ、縁故のあったこの地で地主業に転じた。清田家の敷地内には、主屋を中心に長屋門、米蔵、外塀、内塀が残されている。建築年代は米蔵が明治6年(1873)、主屋が明治9年(1876)である。主屋の内部は、東側に家族の生活の場である茶の間、土間、西側に接客のための玄関、座敷が続く。 この形式は、江戸時代末期の庄屋造りを踏襲するものの、屋根は入母屋、瓦葺きである。また内部の柱・梁・桁などの部材は太く、このため力強い生活空間を形成している。 清田家所蔵文書のうち、慶長17年(1612)の知行宛行状、同目録には忠興の花押、ローマ字朱印が、また、寛永10年(1633肥後入国直後)の知行目録には忠興のローマ字藍印が押されるなど、貴重なものである。
※ 細川忠興知行宛行状他9点
点数
品 名
知行宛行状 (4点)
細川忠興 清田五郎太夫宛御書出
細川興泰 清田栄太宛御書出
細川興昌 清田栄太宛御書出
細川興増 清田栄太宛御書出
5
知行方目録 (2点)
細川忠興 清田五郎太夫宛知行目録
細川忠興 神戸喜右衛門・清田五郎太夫宛知行目録
人返しの状 (3点)
豊前より之帳面之うつし(田中村之娘一件)
清田五郎太夫殿 横田権佐
8
覚(豊前国田中村之女人返し一件)
横田権之助殿 清田五郎大夫
書状(御国替之節、知行所田中村之百姓娘之儀)
志水次兵衛・山本立安
米津出切手願 (1点)
上方江上可申米川口被成 御赦免事
加納曲斉老、松井右近太夫・志水九左衛門殿、長岡内膳正殿、 清田伝蔵
指定年月日 平成23年3月28日
所 在 地 植木町鞍掛
時 代 永正14年(1517年)
高さ 約1.0m、幅 83cm、厚さ 5~11cm
安山岩で作られた板碑で、板面中央に阿弥陀坐像が線刻されている。その下に、願主長生院のほかに41名の交名を刻んだ逆修碑である。私年号(加平元年)の記載がある中世石造物板碑は、県内でも数例が確認されるのみで、しかも、唯一本来の場所に完形のもので残っており貴重なものである。なお、「阿弥陀堂」が植木町の小字名であった事等のため、熊本市指定にあたって名称を「鞍掛字阿弥陀堂の板碑」として指定された。
指定年月日 平成23年4月28日
所 在 地 植木町鈴麦・豊岡
年 代 享和2年(1802年)
石造眼鏡橋は、木葉川の支流中谷川に架かる両脚の支間11.2m、高さ4.4m、輪石と輪石を楔石で継いだ県内でも数少ない形式の単一アーチ橋である。上流側の要石には架橋に携わった庄屋等の名前が、下流側の要石には、架橋年や、石工名が刻字されている。架設年がわかる県内最古の石橋である。
所 在 地 城南町高
時 代 室町時代・江戸時代
六地蔵信仰は平安時代の終わりごろに始まったといわれている。阿蘇溶結凝灰岩で造られている、高さ344.1cmの石造の六地蔵塔である。塔身は文明6年(1474年)に建立された。中台(25cm)、龕部(53.5cm)、笠(38.5cm)、相輪部(78.5cm)は延享5年(1748年)に高村の人々によって復元されたことが知られる。塔身以外は江戸期の復元によるものであるが、当初の姿を写すと共に復元の経過がわかるものとして貴重な六地蔵塔である。
指定年月日 平成23年8月25日
本宝塔の素材は阿蘇熔結凝灰岩。下から、基礎石・塔身・方形笠・宝珠の四部から成る。ただし各部分すべて異なる制作年代と考えられ、塔身が最も古く鎌倉時代の特徴を有している。基礎石は正応四年(1291)の銘文が刻まれ、もとは五輪塔の地輪を転用している。笠および宝珠は後補で、これら四部材をセメントモルタルで接着したのが現在の形態である。法量は総高120.4cm。各部の高さは基礎石35cm、塔身37.9cm、笠24.5cm、宝珠23cmである。塔身は、四方に仏龕が刻まれ、それぞれに金剛界四仏の阿シュク如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来と思われる座像が蓮華座上に半陽刻される。表面がかなり風化しているが、像容の優美さは制作当初の面影を伝えている。本塔は、城南町宮地七所宮の天福二年(1233)銘の宝塔と造形的に共通しており、野田大慈寺の県指定重要文化財宝塔塔身に刻まれた元仁元年(1224)のものと同時代と考えられる貴重な作である。熊本市内の宝塔の中でも古い年代のものである。
(正面) (西側)
所 在 地 城南町宮地
本宝塔の素材は、阿蘇熔結凝灰岩。宮地神社(通称、七所宮)に所在。下から基礎石、塔身、方形笠、空輪(※)から成る。塔身に鎌倉時代の紀年銘が刻まれる。但し、他の部材は当初のものではなく後補になる。法量は総高108cm。各部の高さは基礎石台座19cm、塔身45cm、笠17cm、空輪27cmである。塔身は、四方に仏龕が刻まれ、それぞれに金剛界四仏の阿シュク 如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来と思われる座像が蓮華座上に半陽刻される。表面がかなり風化しているが、四仏の像容は鎌倉前期の面影を留めている。現在地で南面する仏龕の右側に「天福二年(1233)十一月 日」、左側に「大勧進僧□秀」と陰刻される。本塔を紀年銘作例として基準作とすると、共通点の多い城南町高の石造宝塔を、本塔とあまり年代の変わらない作と比定する根拠となっている。また、この種の宝塔では、野田大慈寺の県指定重要文化財宝塔塔身に刻まれた元仁元年(1224)銘に次ぐもので、貴重な作である。(※)宝塔の上部は、相輪を乗せるものであるが、現在は、花崗岩製の五輪塔風空輪を乗せている。
指定年月日 平成24年1月27日
所 在 地 植木町豊田
時 代 建治元年(1275)
五輪の塔の素材は凝灰岩で作られており、姿形は県指定船底五輪塔と同様で、鎌倉時代の特徴を良く保っている。地輪は割れているが、全高172cm、の大きな五輪塔である。水輪に「キリーク」を薬研彫している。地輪には、「□尼寿阿弥陀仏。 □治元年乙亥十月十日入滅」とある。年号は「□治」で、上の一字が判読できないが、干支が「乙亥」(いつがい)であるので、相当する「□治」は、「建治」しかなく建治元年(1275年)と確認できる。鎌倉様式で年紀を記す県内でも有数の貴重な文化財である。なお、植木町にある田原五輪塔(建治三年銘)・舟底五輪塔(元亨二年銘)と同材質・同様式を持っているところからすると同一系統の人々の造立が想定できる。当地は鎌倉時代の初期には鎌倉幕府の公文所長官を務めた有力御家人大江広元の所領となっていた。その後その所領は彼の後継一族にひき継がれている。ところが蒙古襲来を契機に鎌倉幕府は九州に所領を持つ御家人に対して現地下向を命じて国防体制の強化に努めた。建治は文永の役の翌年であるのでこのころ九州現地に下向した御家人一族は多かった。従ってこの三つの五輪塔は大江広元の後継者一族による造立の可能性もあろう。通称「トウボージサンの墓」といわれているがその由緒等は定かではない。 ※:キリークは梵字のひとつ、阿弥陀如来の種子
指定年月日 平成24年5月1日
所 在 地 植木町清水
時 代 天正3年(1573)
宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼経を収めて供養する塔で、インドに始まり、日本へは平安時代の中期に渡来する。室町時代に盛んになるが、後には、墓石としても使用されるようになる。 内空閑神社境内内に凝灰岩製の宝篋印塔が墓碑として二基ある。一基に 宗活禅定門 山本郡主内空閑鎮資 天正三乙亥八月廿七日。他の一基に 妙誾禅定尼 天正三乙亥十二月二日 と陰刻がある。内空閑鎮資は、この神社の祭神で、戦国末には山本郡の一帯を支配し、郡主と書かれているのは注目される。天正年間の創立で、姿形は、階段状の笠と、四隅の突起した飾りはそりかえり室町時代の特徴が見られ、塔身の四方には梵字が刻まれているが風化して判読しがたい。昭和49年には神社創建400年祭がおこなわれた。砥石の名は「内空閑親貞(六代)が津奈木合戦のおり出陣の砌に矢を石に研いでその石が残る地域を砥石という伝承」による。
指定年月日 平成24年7月31日
所 在 地 植木町豊岡
時 代 五輪塔:建治3年(1277年)・板碑:天正13年(1585年)
五輪塔 五輪塔の地輪に建治三年(1277年)の紀年銘がある総高168cmの凝灰岩で作られているみごとな五輪塔である。空風輪等がしっかりしており、熊本県指定の船底五輪搭(元亨二年銘)(1322年)と比較しても遜色が無い五輪塔である。また、服部の五輪塔と同様の姿形をしており、鎌倉時代の特徴が出ている。水輪の四面に「キリーク(注1)」を薬研彫りしている。地輪には六行の銘文が刻印されている(*1)。これにより「田原寺」については、鎌倉時代に「田原寺」が建立されていたことがわかるが、文献等資料がなく其の場所や、宗派などは不明のままである。また、五輪塔には西南戦争時の弾痕が多数認められ、歴史的価値も高いものと思われる。板碑 安山岩の板状の自然石で高さ140cm・ 最大幅45cm・最大厚22cmの板碑である。碑面上部に月輪の中に「ア(注2)」を線刻し、蓮華座がある。その下には天正乙酉(天正十三年、1585年)の紀年銘がある逆修碑である(*2)。 注1 キリーク=梵字のひとつ、阿弥陀如来の種字 注2 ア= 梵字のひとつ、大元帥明王の種字 (*1) (*2)
所 在 地 植木町舞野
時 代 文明9年(1477年)
安山岩の板状自然石で、身の丈を越す大きな板碑で、高さ2m、幅2m5cmある。碑の厚みは最大で50cmある。碑の正面(南面)中央上部に六体の地蔵立像を線刻してある。更に立像六体の下に座像一体を線刻する。共に石仏の尊像を現在もはっきりと見ることが出来る。板面左端には縦書きに、時文明九年(1477年)丁酉十月廿五日 □ 祐銀敬白 と線刻する。地蔵の下方に「妙金」などの交名があるが、風化のために判読しがたい。裏面には閻魔王など十三王等ほかの線刻がある。年記銘は彫りが浅く判読しがたい。現在旧植木町で知られている紀年銘のある板碑では、最も古いものであり、碑面に六地蔵を収めた板碑として貴重なものと思われる。
指定年月日 令和2年12月25日
所 在 地 中央区井川淵町(藤崎八旛宮内)
時 代 慶安2年(1649年)
指定年月日 昭和41年1月31日
所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
両画とも天保12年(1841)、福田太華46歳のときの大作で、技法円熟し、強健でのびのびとした筆力、生き生きとした自由な描写、やわらかな配色は、彼の作品中屈指の名作ということができる。出山釈迦図は縦3.24m、幅1.31mで、釈迦が悟りを開いて山を下る姿を描いており、破れ衣を身にまとい、足の爪も伸び放題である。観音図は縦3.46m、幅1.33mで釈迦図より20cm程大きい。太華は名をヨウ、字を収蔵と言い、幕末の肥後における傑出した画家の一人である。百石取りの武士で、馬医を勤め武術にも長じたが、書画・詩文・国学をよくし、画を村井蕉雪に学び、漢画と土佐派の技法を取り入れて一家をなした。
(紙本著色出山釈迦図) (紙本著色観世音菩薩図)
本画は小幅ながら画面一杯に描かれた竹と二羽の雀の図で、傷みが大きいが雄健な筆致を伺うに足り、我が国初期水墨画の数少ない遺品の一つとして貴重である。作者の愚溪右惠は南北朝から室町初期の禅僧で、可翁や黙庵と並んで時代を画した画僧の一人である。様式的には牧ケイ・玉カン・日観に倣って、優れた水墨画を残している。水墨画は唐の時代に発生し、宋代には大きく展開した。我国では鎌倉時代中期頃から描かれはじめ、画人・高僧・画僧らによって盛んに描かれ続けた。この画に讃をしている天庵懐義は大慈寺門下の僧で、山鹿日輪寺の中興開山である。
指定年月日 昭和63年3月15日
所 在 地 市内
指定年月日 平成15年9月12日
所 在 地 西区島崎 ((公財)島田美術館)
本画像は、「寺尾家伝来」で「武蔵自画像」との伝承を持ち、現在まで確認されている武蔵像の中で最も古くかつ優れていて、多くの武蔵画像の手本とされてきた。落款・印章、賛文など客観的な情報には欠けているが、補筆はほとんど認められず、目の黒目部分が薄くなっていて瞳の部分にのみわずかに補筆したため、異様にきつい目つきになっているようにみえる程度である。肖像画で最も重要視される面貌描写は着実で、的確な朱墨による肉身線と軽い暈かしとが相俟って適度な立体感を表出し、頭髪・眉毛・ひげも細墨線に薄墨を掃いて写実的。唇は伝統的に外側を濃く暈かしをつけ、両端を墨で引き締めている。着衣の輪郭線や衣紋線には、特徴的な打ち込みとしなやかさがみられ、両袖口にも特徴がある。このような様式的特徴から江戸時代前期、狩野派正系の画人による作とみて大過ないであろう。また、武蔵が向かって左向きに描かれていることからみて、武蔵没(1645)後に描かれた可能性が高く、十七世紀後半と思われる。
指定年月日 平成25年11月15日
指定年月日 昭和49年5月15日
指定年月日 昭和53年8月22日
池辺寺七勝について記した縁起絵巻である。紙本で詞書は墨書、絵は大和絵風に彩色された長巻である。もともとの物語は池辺寺観音講式などに記された縁起をもとにし、その内容をかな文にして絵をそえたもので、出来はたいへんよい。巻末のあとがきによれば、文化元年(1804)12月に五雲斉見益が秀晃和尚(当時の池辺寺住職)に依頼されて書写したと記しているので、それより早い原本が存在したのではないかとも考えられる。なお七勝とは、(1)浮木観音(2)独鈷(3)金鈴(4)仙海和尚の法験(5)山王出現(6)金子観音の奇瑞(7)快珍和尚の祈雨である。
指定年月日 平成7年8月2日
所 在 地 中央区古京町(熊本博物館)
軸装 金襴装 象牙軸 幅63cm 長さ157cm
肖像画 紙本着色 幅50cm 長さ 66cm
八嶋徳兵衛(清島家祖)の家は飽田郡八嶋村(現熊本市田崎町八嶋)に代々居住し、作男を五十三人も使って耕作するほどの豪農であった。加藤清正の国内巡検にあってはお供して一々質問に答え、それによって土地の上中下の等級を決めていたというほどであった。また、熊本城築城にあたっても、作男を引き連れて石垣用の石材や建物の木材の運搬に労役奉仕を行った。そこで慶長13年、従四位下肥後守に任じられたとき御装束を着用した肖像を描かせ徳兵衛に下された。清島家の伝承では、同じものが3幅あり、他の2幅は天守閣と西光寺に保管されているという。
指定年月日 明治39年4月14日
所 在 地 中央区井川渕町(藤崎八旛宮)
明治初年の神仏分離の時までは御神体として神殿に鎮座され、僧形八幡神は応神天皇、女神像は神功皇后とされていた。現在では収蔵庫に納められている。八幡神は僧形で袈裟をつけ、右手に錫杖(今はない)を持ち左手は印を結んでいる。女神は髪を垂れ雲形の宝冠を頂き、宝冠中央の水晶輪の中には仏坐像が画かれている。膝の上の両手に蓮華台上の宝珠を捧げ、微笑を浮かべた姿である。朱の衣の上に黒で衣紋が画かれており、女神像の胎内には応永25年(1418)の墨書銘が残っているとのことである。
指定年月日 大正4年8月10日
松尾町平山の曹洞宗雲巌寺に伝わる倚像で、八角形・衝立式の変った曲彖(椅子)に腰を掛けた姿につくられている。本像は禅宗で最も大切にされる頂相(祖師像)で、玉眼・彩色されている。身には法衣・袈裟をまとい、右手は持物(払子かと思われるが現存しない)を持つ形をとり、両足を垂れている。顔や着衣は写実的で小像ながら堂々とした風格を示している。東陵永ヨは中国の元時代の人で、観応2年(南朝の正平6年=1351)に来朝し、夢窓疎石のすすめで西芳寺に入り、ついで天龍寺・南禅寺・建長寺・円覚寺の諸大刹に歴住、貞治4年(1365)に81歳でなくなった。
注:インターネット上では表示されない漢字はカタカナで対応しておりますので御了承ください。
指定年月日 平成6年6月28日
所 在 地 中央区坪井3丁目
報恩寺は曹洞宗大慈寺の末寺である。文永年間(1264~74)に寒巌義尹の弟子仁叟浄熙を開山として宇土郡古保里(現、宇土市)に創建され、永正年間(1504~20)に現在地に移転した。本像はほほに張りがあり、目鼻だちがくっきりしていることや、衣の彫りが深く、下半身に着ける裳のひもの結び目が胸元にあることなどから、中国の宋の影響が認められる。平成2年の解体修理の際、体内から多数の銘文や納入品が発見された。これによると本像は寒巌義尹の指導のもとに正元2年(1260)に造られたものである。宋の影響を受けた仏像で、年代特定のできる最も早い時期のもので保存状態もよいことから平成6年、国の重要文化財に指定された。像内に納入されていた木製舎利外容器と絹本著色十一面観音像もあわせての指定である。
所 在 地 南区野田1丁目
大慈寺の正面大仏殿の中に安置された三尊像である。主尊の釈迦如来坐像は肥後最大の仏像で、身高3.5m、桧材の寄木造りで彫眼である。本尊の胎内銘によれば、大慈寺の本尊はもともと寒巌義尹禅師自作の仏像で、再三の火災にも難を免れてきたが、天文9年(1540)の戦乱の際焼失し、頂相だけが残った。時の住職洞春寿宗は発願して天文10年から15年までかかって再建したと記されている。その後明和5年(1768)の火災でも仏頭だけは助け出され、時の住職大丈・大潤の尽力によって安永8年(1779)に再興された。なお本尊光背に据えられた化仏の中の7体は天文再興のときのもので、戦国時代の作風を示している。脇侍は阿難と迦葉でともに楠の寄木造り、阿難は身高2.8m、迦葉は2.87mである。
指定年月日 昭和36年11月21日
所 在 地 南区城南町塚原(塚原歴史民俗資料館)
年 代 平安末期
高 さ 75cm
千々屋寺の木造馬頭観音立像 檜の一木造りで、両腕は別木となっており、左腕は欠けている。 千々屋寺は、室町時代後期の禅宗寺院であることから、馬頭観音自体は、古く付近の小堂に伝えられたものと思われる。
指定年月日 昭和62年11月12日
所 在 地 中央区二の丸(熊本県立美術館)
那知熊野座神社は延暦二年(782年)に勧請したと伝えられている。 この神社に伝わる懸仏には、木造の阿弥陀・十一面観音・尊名不詳の如来形三体と、銅板蹴の千手観音像・銅製の鏡板にほぞ留した鋳造の大型の千手観音像のほかに、鎌倉時代末期から室町時代までの銅造懸仏の残欠があり、合わせて三十三面がある。 木造懸仏の裏面には「寿永三年八月州日」の墨書銘がある。 追銘の可能性が大きいが、製作年代はその頃であろう。 銅板蹴彫の千手観音像と鋳造の千手観音像は、鎌倉時代初期から前期に作られたものであろう。
指定年月日 昭和62年11月12日所 在 地 中央区二の丸(熊本県立美術館)
那知熊野座神社は延暦二年(782年)に勧請したと伝えられている。 木造獅子頭は、樟材、上顎と下顎は別材で造り、耳は別材差し込み。 総長43.3cm。総高18.5cm。総幅33.9cm。内部に「かりやく三ねん二月(嘉暦三年)」の墨書銘がある。
指定年月日 昭和47年4月13日
指定年月日 昭和50年11月27日
所 在 地 中央区横手3丁目
高麗門裏町(新町4丁目)のJR鹿児島本線の踏切を渡り、下馬天神の脇を真直に進むと、突当りが安国寺である。安国寺は曹洞宗で、もとは青龍山弘真寺と称した。弘真寺殿とは慶長17年になくなった蒲生秀行の諡名であるから、この寺の建立は加藤忠広のときのことである。寺には秀行の供養塔もあり、秀行の娘は忠広の妻である。この寺の本尊は釈迦如来坐像で、桧材の寄木造りで漆箔を置いており、頭部は螺髪植付け、木製の肉髻に水晶の白毫を嵌入し、三道耳朶環をつけている。頭・体とも内刳があり、全体に前後矧付である。製作年代は造寺の時ではなく、それより古い室町時代と考えられ、頭部に焦損部があり補修が行われている。両脇には阿難・迦葉の立像を従えている。
指定年月日 昭和51年10月28日
所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)他
浮木観音・不動明王・金子観音の三像を主体とし、愛宕地蔵・勝軍地蔵と僧形男女神像三体を付として、合計8点を指定した。浮木観音は高さ24cmの聖観音像坐像で、和州の真澄が池辺寺を造立し、味生池に浮かんだ一木を自ら刻んだと伝える本尊である。また金子観音は金安治というものの娘が妙観山の観音に詣でたとき、平村で拾得したものと伝えるが、平安期の胎内仏である。不動明王は木造の立像で仏高72.5cm、火焔光背を負い岩座の上に立ち、全身を茶色で塗られている。池辺寺伝来のものであろう。愛宕地蔵・勝軍地蔵と三坐像は、現在の日露戦争記念堂の付近にその昔愛宕堂があったので、そこに祀られていた木像と考えられる。
指定年月日 昭和58年3月23日所 在 地 北区龍田2丁目
宝積寺は天台宗の寺院で、天文年間(1532~55)に立田城主であった立田将監によって建立されたと言う。立田氏は菊池則隆3代の孫民部大輔経頼の6男井芹六郎経益の子孫であると伝えられ、立田伊賀守重雄とその子小太郎重治の名が永正2年(1505)の記録に見えている。立田氏が没落してから寺勢も衰え、慶長15年に法岩長老が再興してから曹洞宗の流長院末寺となった。明治維新後廃寺となったが、大正3年寺堂を新築して遺品類を保存してきた。本尊の虚空蔵菩薩は蓮華座上に坐して円光背を負い、本体は群青に塗られ、宝冠を頂き右手に剣を、左手に理智の宝珠を持っており、首からは瓔珞を下げている。痛みが激しかったが、平成11年度に宝積寺保存会により修復された。
(修復前) (修復後)
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町面木(堂の崎観音堂内)
旧河内町には本像を含めて室町時代の作と推定される仏神像が10体余り存在するが、銘文によって造立年代がはっきり知られるのは本像だけである。この時代の仏神像は素人の手になると思われる素朴なものがほとんどで実際の造立年代を知ることは極めて難しいが本像には墨書銘天文4年(1535)があり、当時を知る上で貴重である。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町岳(嶽麓寺)
誕生仏の小仏像は、河内町に3躰ある。その中の嶽麓寺の金銅誕生仏は短いパンツ状の袴を着けた姿などから朝鮮、高麗時代の作とみられ、作成年代は、11世紀頃と推定される。中世後半期における私貿易の直接的な遺品であるか、または近世になってから有明海における内海貿易を介しての二次的な遺品であるかは明らかではないが、いずれにしても請来仏として河内の歴史を考えるうえでその港町的な一面を積極的に物語る遺品である。嶽麓寺は元は天台系統の寺院であったと見られるが、江戸時代になって、曹洞宗寺院として復興され、明治になって廃寺となった。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町河内(江月院)
江月院の誕生仏は既に鍍金が失われているが、誕生仏として年々の祭に甘茶をかけられて、地肌があらわれたものと思われる。左手を挙げ(日本の誕生仏は普通右手を挙げる。)襷をかけたような形をとり、頭が露頂で台座の蓮弁が尖り気味に造られている。中国あるいは朝鮮の作であり製作は明あるいは高麗時代と推定される。類品が水俣市の西念寺、玉名市の大覚寺、南小国町の満願寺などにあり、西念寺の誕生仏には中国の南京で造られた旨の銘文がある。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町東門寺(増福寺)
増福寺の誕生仏は既に鍍金が失われているが、元は金銅仏であったと思われる。この像も左手を挙げ襷をかけたような形をとり、頭は露頂で台座の蓮弁が尖り気味に造られている。中国あるいは朝鮮の作であり製作は明あるいは高麗時代と推定される。造りの違いから、江月院のものより、幾分遅れて造られたと思われる。誕生仏とは、釈迦が生まれたとき七歩歩き天地をさして、「天上天下唯我独尊」と言ったという故事に基づいてつくられたものである。
指定年月日 平成31年1月28日所 在 地 北区立福寺町立福寺伊邪那岐神社内観音堂
指定年月日 平成31年1月28日所 在 地 熊本市中央区(源空寺)
指定年月日 令和2年12月25日所 在 地 中央区二の丸(熊本県立美術館)
指定年月日 令和2年12月25日所 在 地 南区野田(鷲林寺)
指定年月日 大正5年5月24日所 在 地 西区花園4丁目
鎌倉時代中期の刀工で、筑後国三池の住人として知られた三池典太光世の作品、光世の銘が刻まれておりとくに貴重である。平づくりの分厚な短刀で、地金のよくつんだ板目、直刃でところどころ二重になっている。鋩子は小丸、表裏に幅の広い棒樋があり、拵えは蝋色鞘に鮫皮の柄を配し、銀金具で飾っており、付属品としては鶴の浮彫のある小柄がついている。肥後8代藩主細川斉茲(細川家10代)が差料として使用していたが、のち本妙寺に寄進されたもので、寄進状がそえられている。
指定年月日 昭和55年6月6日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
総体に黒漆塗りで仕上げられ、前輪、後輪の内外と居木の上面には、夜光貝の螺鈿で細かい三巴紋が規則的に施されている。巴紋は頭のふくらみが少なく、また尾が極端に長い形をとっており、平安末から鎌倉初期の絵巻物に画かれた文様そのままである。同時代の鞍橋の特徴は、後輪の湾曲が深く、居木幅は広く、前輪の上方に「手形」が設けられ、また前輪の山形がやや直線的であり、前後輪外側に「海」「磯」と呼ばれる段差があるが、それらを悉く具えている。
指定年月日 昭和56年6月9日所 在 地 南区野田1丁目
寒巌義尹が、弘安10年に作成したのがこの梵鐘である。乳の間に3段12列、36個の乳がある。池の間の4面に銘文が記されているが、文章、筆跡ともに義尹自身のものである。銘文には鋳造経過とその功徳を述べたのちに、協力者数、直接担当者名、鐘の法量、経費などを刻んでいる。撞座は2個で大慈の文字が入っており、中帯には2段の蓮華・唐草文がある。
指定年月日 平成26年8月21日所 在 地 西区花園4丁目 内 訳:一、桐桔梗折墨紋蒔絵四重椀 一具一、桐桔梗折墨紋蒔絵三重椀 一具一、桐桔梗折墨紋蒔絵平椀 一口一、桐桔梗折墨紋蒔絵壺椀 二口一、桐桔梗折墨紋蒔絵腰高 二口一、桐桔梗折墨紋蒔絵飯器 一合一、桐桔梗折墨紋蒔絵膳 三基一、桐桔梗唐草蒔絵椀 一口一、桔梗唐草蒔絵椀 一口一、菊桐紋蒔絵盃台 一口一、菊桐紋蒔絵懸盤 二基一、菊桐紋蒔絵香箱 一合 (計12点)加藤清正の菩提寺である本妙寺に清正所用のものとして伝えられている蒔絵の大名調度類。その内、桐、桔梗、折墨紋(1)を散らした調度類7点は、寺伝及び細川家の家譜である『綿考輯録』等によると、元は豊臣秀吉の家臣尾藤知宣が所有していたもので、九州征伐の時の過失により尾藤知宣が失脚した後、清正に下されたとされる。また、菊、桐紋を配した調度類3点は、秀吉からの拝領品と伝えられる。蒔絵調度類は、黒漆地に桐、桔梗、折墨といった家紋を散らした椀、膳などの食器類と、梨子地に菊、桐紋を配した懸盤(2)、盃台(3)や香箱(4)などからなる。前者は、それぞれの器面に応じて三種の紋を自由に配置し、平易な平蒔絵(5)を基調に、絵梨子地(6)、付描(7)、描割(8)といった種々の技法を交え、紋のひとつひとつに微妙な変化をつけている。後者は、高蒔絵(9)に切貝(10)などの技法を組み合わせたもので、中でも香箱には桃山時代に流行した片身替(11)の意匠が用いられている。いずれも桃山時代における漆工技法を駆使した優品であり、椀、膳類における蒔絵を施した早期の遺例を含む一群として、また、近世初期において大名調度の格式が成立する以前の調度類の様相を知ることができる資料として貴重である。【註釈】1 折墨紋 …墨が斜めに折れた形の家紋。なお、加藤家では「蛇の目紋」、「桔梗紋」、「折墨紋」の家紋を用いる。「菊紋」、「桐紋」は皇室の紋として用いられ、功によって下賜し使用させた。豊臣秀吉も菊桐紋を授かっている。2 懸盤 …食器をのせる台。3 盃台 …盃をのせる台。4 香箱 …香を入れる箱。5 平蒔絵 …文様を漆で描きその上に金粉等を蒔き付ける技法。6 絵梨子地…漆を塗った上に金銀粉をまいてその上にまた漆を塗り、金銀粉が透けて見えるようにする技法。7 付描 …蒔絵の上に平蒔絵で文様の細部をあらわす技法。8 描割 …葉脈(葉の筋)などをあらわす際に、その部分だけを残して蒔き粉を蒔き、細線をあらわす技法。9 高蒔絵 …文様部分の漆を盛り上げてあらわす技法。10 切貝 …貝殻を切金のように切ったもので、1枚ずつ貼り付けて文様等をあらわす。11 片身替…稲妻形などの線で画面を区切り、文様や色彩を変えたもの。
飯器 懸盤 香箱
本妙寺所蔵 ※禁無断転載
指定年月日 昭和34年9月3日所 在 地 西区花園4丁目(本妙寺)
表に「備州長船祐定作」、裏に「永正十三年二月日」(1516)の銘がある。永正頃の備前鍛冶は末備前に属し、粗製乱造品も多いが、この短刀は末備前中の秀作である。清正が慶長16年(1611)の二条城の会見のとき、この短刀を懐中して秀頼を護衛したという伝承によって特に有名である。
短刀祐定の拵として伝わり、清正拵網代鞘と呼ばれている。金物は「四分一」と呼ばれる銅3銀1の合金で渋い銀色をしており、角材は赤牛角を磨き出し、塗りは「しぼ塗」と言う固めの漆を使って色々な模様を出す塗り方で、桃山時代に流行した茶道のさびを取入れ、結構・釣合・肉取りなどもよく、永く珍重されてきた。
指定年月日 昭和34年9月3日所 在 地 中央区井川渕町(藤崎八旛宮)
この太刀は室町中期末の延寿鍛冶の作で「元国作・大津山弾正資宗帯之」の銘がある。このような大太刀をむらなく焼入れしたものは珍しい。藤崎八旛宮の神宝として秘蔵されてきたが、もとは南関の大津山城主であった大津山弾正の佩刀であったと考えられ、加藤清正の頃に藤崎宮に寄進されたものであろう。寛永17年に細川忠利が九曜桐紋赤銅金具の拵を作り藤崎宮に寄進したので、鍔には「肥州隈本住藤田新五郎作、寛永十七年八月日」の銘がある。綱利がこの太刀を好み、藤崎宮から借用して愛用したと伝えられる。
指定年月日 昭和36年2月15日所 在 地 中央区井川渕町(藤崎八旛宮)
国次は越前国の刀工で、寛文年間(1661~73)に肥後にいて刀を鍛えた。この太刀は藤崎宮に奉納したもので鋩子は小丸、棒樋が彫られている。刀身から中心にかけて、片面には「奉納御太刀 八幡藤崎宮頼朝御太刀写名静太刀申也 越前守藤原国次」と彫り、もう一方には「肥後国於熊本 寛文拾弐壬子年八月十五日 以南蛮鉄 七拾五歳作之」と長文の銘が刻まれている。鞘は朱塗りに下り藤の神紋の金蒔絵が施されている。幕末に沼山津手永の下陣山から銅が出たのでその初穂で新たに金具をつくり、太刀造りに直したという。
指定年月日 昭和40年2月25日所 在 地 北区龍田3丁目(代継宮)
延寿国日出は国秀とも書き、江戸末期の新々刀期の刀工である。菊池延寿の後裔と称し、菊池郡中西寺に住したが、細川家に刀工として召抱えられ、その一族も作刀に従事した。この太刀は、代継宮の宮司漆島伯耆守が国秀に鍛えさせて神社の宝刀としたもので、焼・姿・形ともに優れており、宝刀に恥じない作刀である。銘に「肥藩之刀冶延寿国日出歳三十有九年… …」「享和甲子仲春吉日」とある。享和甲子は同4年(1804)である。
指定年月日 昭和34年9月3日所 在 地 花園4丁目(本妙寺)
菊池氏の庇護によって栄えた延寿鍛冶は、戦国期の菊池氏の没落とともに四散して野鍛冶となっていたが、天正16年(1588)加藤清正が肥後北半を領するとともにその後裔を召抱えて、熊本城の御城備刀を作らせた。これが肥後同田貫鍛冶一門で、「折れず曲がらず同田貫」と言われて実用的価値は高いが、美術的に優れたものや在銘品は少ない。しかしこの正国は珍しく地鉄もつんで美しく、刃文もはっきりしていて、見事な出来映えである。表に「九州肥後同田貫藤原正國」裏に「二月日」の銘があり、木瓜形の鉄鐔には「南無妙法蓮華經浄池院殿清正公大神儀」の文字が刻まれている。
指定年月日 昭和36年2月15日所 在 地 市内
本造り庵棟で、鍛えはよくつんだ板目、匂出来で刃文は互の目丁字乱れになっている。鋩子は乱れ込み返る。中子に銘があり、表に「肥州求麻郡人吉住蓑田雅楽助作」、裏には「二月吉日」と刻まれている。雅楽助は室町末期の備前長船の刀工であるが、人吉の相良氏に召抱えられた。同時代の長船派の刀工の中でも名工として知られているが、在銘品は現在知られているところ、この一振りだけである。
指定年月日 昭和38年7月23日所 在 地 中央区井川渕町(藤崎八旛宮)
幕末も寛政年間(1789~1801)になると、外国船の来航などによる対外的脅威が背景となって、全国的に作刀の風が再興した。江戸では水心子正秀が復古刀の製作を提唱し、これに師事する者も多かった。肥後でも延寿派の後裔と称する国秀(国日出)・宣勝父子が現れ、備前伝・関伝などの刀を作り、また武士達の中にも作刀に志す者が出現した。この時代を新々刀期と呼んでいる。この刀は備前伝に作られ、見事な作である。本造庵棟、腰反りで鎬が高い。銘は「東肥熊府住延寿宣勝作」「弘化二年二月吉日」と刻まれている。
菊池氏の庇護を受けて栄えた延寿派刀工は、戦国期に菊池氏の衰退とともに衰亡し、刀工達は四散してその一部は玉名地方に赴き作刀を続けた。この脇差はその事実を裏付けている。この脇差の表には「肥州玉名住石貫景介作」裏には「文明八丙申二月日」(1476)の銘があり、延寿一族が玉名郡石貫に居住したことを知る貴重な資料である。
林又七(慶長18=1613~元禄12=1699)の家はもともと鉄砲鍛冶として加藤家に仕え、鉄砲の装飾に象嵌を施していたが、加藤家没落後は細川家に仕え、鐔や縁頭の製作に専念した。又七は尾張透の伝統と古正阿弥の布目象嵌の二つの技法を集大成し、独自の作風で肥後鐔の名を全国に広めた。この鐔は遠見松透という有名な図柄の一つで、彼は往年の春日村に住んでいたため日夜花岡山上の鐘掛松を眺めていて、その姿を図案化したものである。
指定年月日 昭和38年7月23日所 在 地 市内
林又七は、加藤家の代に兄八助とともに鉄砲鍛冶をしており、加藤家断絶後も細川家に仕えて鉄砲を造っていた。細川家には、又七の銘のはいった藩公用の持銃があり、それには九曜紋と桜紋の見事な金象嵌が施されている。のちに又七は刀剣装具の製作を専門にするようになり、林派または春日派と呼ばれる一派を開いた。この鐔は細川家の家紋の九曜と桜を図案化したもので、俗に「御紋透」と呼ばれている。鐔の透として本紋と透紋をうまく組合せて変化と調和を考えており、地金の味や透の肉取りなど肥後鐔の典型的な作品である。
志水甚五は平田彦三の甥で、細川氏が肥後に入国した寛永9年(1632)に彦三とともに三斎忠興に従って八代に移り住み、彦三に学んで五人扶持を与えられた。この鐔は鉄地丸形耳打返しとなっている。薄手の地に、切羽台を中心に真鍮で茶筌を鐔一杯に据紋にし、裏にも真鍮で小さな羽箒を据えており、珍品である。甚五は師匠の彦三と異なり、人の意表をつく豪快な意匠を用いたが、これなどはその好例で、このほか梟とか龍・鷲・鶏・虎などの動物の意匠が多い。象嵌は真鍮を主としているが、希に素銅のものがある。
志水甚五の作品は、地金より文様が浮出している据文象嵌に特色がある。地金には主に鉄を用い、「焼手くさらし」という独特の技法を施し、無造作に撫角形・泥障形・木瓜形などに仕上げている。この鐔は鉄地泥障形で、厚手の鉄地を焼手くさらしで槌目地に仕上げ、松の木にとまる梟を真鍮で据物象嵌にし、毛彫で梟の羽毛を切り、太い線で松の木肌を表現している。裏にはやはり真鍮象嵌で上弦の月が彫ってある。甚五鐔の中でも逸品と称せられる。
西垣勘四郎は平田彦三に学び、師彦三とともに八代に移り住んだ。西垣派の初代で、もとは丹後の神官の出であるという。鐔は鉄地の透物を得意とし、形・肉取りに独特の勘四郎風を造り金銀象嵌を施した。この鐔は勘四郎得意の輪花式の泥障形に窓桐を透かし、処々に金で散紙象嵌を施したもので、透の手法、肉取りなどは勘四郎作品中の代表である。窓桐とは、桐の葉と花を図案化し、窓辺から外の桐を眺めたような構図に見えるのでそう呼ばれている。勘四郎は鐔のほか縁頭の製作にすぐれ、世に勘四郎縁と称せられた。
西垣勘四郎永久は初代勘四郎吉弘の子で2代目を継いだ(寛永16=1639~享保2=1717)。布目象嵌・据文象嵌などの技法を父から学び、それらの技法に最も優れていた。初代は主に鉄鐔をつくったのに対し、2代目はときどき真鍮や素銅を使い、これに象嵌を施しているところに特色がある。この鐔は素銅地を泥障形につくり、切羽台と耳を残して両側を鋤下げ、九曜と桜を上部に1個ずつ透かし、その各の透かしに半かがりに同じ紋を浮彫りにしている。両紋には唐草を金象嵌し、耳寄りには赤銅で唐草を平象嵌している。下部には銀で斜めに二引両を象嵌し、その下には貫穴が施してある。その精巧度から藩主用に製作されたものと思われる。
神吉家は代々林家の次職人であったという。幕末になると刀装金具も先人の模倣に堕して無気力なものになってしまったので、神吉寿平正忠(明和2=1765~文政3=1820)は藩命によって林家の相伝を受け、その作風を再興することに努めた。楽寿はその孫に当り、父寿平深信に学んで林又七以来の名人と言われるに至った。地金に独自の鍛錬法を用いて極めてすぐれた色合を出している。また透し彫りと象嵌にも卓越した技倆を発揮している。この鐔はゆるやかな八木瓜形に図案化した雨竜と雲を透彫りにし、ところどころに金の渦巻きの象嵌を施したもので、切羽台には楽寿の銘が刻んである。
指定年月日 昭和44年3月20日所 在 地 市内
無銘であるが宮本武蔵の作と伝えられている。宮本武蔵は二天一流の創始者として、また剣豪としては吉川英治の小説であまりにも有名であるが、若い頃のことはあまりはっきりしていない部分が多い。晩年に細川忠利に迎えられて肥後入りした寛永17年(1640)から、正保2年(1645)に亡くなるまでの5年間に、講武の余暇に金工・彫刻・水墨画などをよくした。この鐔は、おたふく木瓜形と呼ばれる両側を大きく透かした形で、透が海鼠の形に似ているところから、俗に「海鼠透」と呼ばれている。素銅地で武蔵が自分で製作し、佩刀伯耆安綱にはめていたものを、二天一流の印可状とともに寺尾家に伝えたもので、伝来も正しく優品である。
甲冑は源平時代から鎌倉期・室町期と次第に変化し、戦国期には鉄砲の普及により野戦用の具足となってきた。本品はその具足の形式をとっているが、藩主用のすぐれた細工が施されている。胴は黒皮で包んだ伊豫札縫延胴を、上部を紫色で、長側三段以下草摺までは勝色(鉄紺色)の糸で縅してある。草摺の据板には熊毛を植えてあるが、これは細川三斎忠興の考案した三斎流の特徴の一つである。胴裏は白檀塗りの美麗な仕上げになっている。兜の鉢は越中頭形で、茶壺形の吹返しには九曜紋を据え、シコロは袖と同様の紫糸縅、兜の立物は藩主用の山鳥尾の掴み差しである。藩主綱利用のもので、元禄2年(1689)に細川家お抱えの甲冑師春田正嗣が作成している。
胴は黒塗小札総ゆるぎで、一面に大模様の正平革で包まれている。胸板・背板は金襴を張りリュウ金小縁で縁どっている。草摺は前後左右の4枚に分かれ、前後の2枚は最下部をさらに二つに割っている。このような4枚草摺は大鎧に用いるものであるが、大鎧の特徴である脇楯・逆板・綿噛の障子板などは付いていない。引き合わせが右脇にあるところから見て普通の腹巻でもなく、草摺の形状から勿論胴丸とも言えない。おそらくもともとは大鎧であったものに、大幅な補修の手が加わって、今日のような形状になったものと考えられる。昔から藤崎宮の社宝とされていたため保存はよいが、何等の伝承もないため伝来その他は不明である。
指定年月日 昭和36年11月21日所 在 地 北区高平2丁目(浄国寺)
作者の松本喜三郎(1825~1891)は肥後のみならず、日本の近世末の人形師として生人形の元祖と言われた。その作風は徹底した写実主義で、実際のモデルを使い、寸法や衣にかくれる部分もおろそかにしなかったと言う。嘉永7年(1854)には大坂難波新地で異国人物人形を「生人形」として興行した。その後10年の歳月を費やして作成した「西国三十三所観世音靈験記」を、明治5年から2年間浅草に展観した。本像はその33番目の美濃谷汲山縁起をあらわしたものであるが、あまりにも出来栄えがよかったため別にもう一体をつくって展観し、本像は浅草伝法院内の堂に安置していたが、後に彼の菩提寺の浄国寺に寄進したものである。
指定年月日 昭和38年12月13日所 在 地 中央区黒髪2丁目(熊本大学)
尚書とは、中国の五経(易経・詩経・書経・春秋・礼記)の一つ書経の別名で、中国最古の経典である。中国では五経の注釈書である五経正義は、貴族の教養上の必読書であり官吏登用試験を受けるものにとっても必読書であった。しかし尚書正義の原本は既に中国では亡んでしまい、我国の足利学校本(宋の両浙東路、茶塩司刊本)だけが残っていた。江戸時代末期に幕府が古典の刊行を奨励したとき、肥後藩では時習館でこの足利学校本を復刻し、内外の学者の注目を集めた。現在保存されている版木は、桧板の両面に刻まれ1枚が4頁分で、全部で388枚あり完全に揃っている。肥後藩最大の印刷物である。
指定年月日 昭和38年12月13日所 在 地 東京都文京区目白台((公財)永青文庫)
口縁部がベル型に開き、胴部の中央に径26cmの細川家の九曜紋が二つ浮彫されている。上帯は3本の線で区切られ、下帯には花のある唐草文をめぐらしている。龍頭は6本の銅紐を組合せており、舌は円筒形の木の外側に鉄枠をはめ、上部の凸器の孔で銅鐘内の鐶に吊し、他端の鈎に紐を通し、これを動かして鳴らした。この鐘の伝承は明らかではないが、慶長16年(1611)の幕府の禁教令以前に、細川忠興が豊前小倉城下の天主堂に寄進するために鋳造させたものと考えられる。
指定年月日 昭和62年11月12日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
池辺寺に関連する伝来宝物である。独鈷杵と五鈷鈴が県指定、龍の鱗・経キン・千手観音画像の3点が市指定となっている。独鈷は青銅鍍金で全長17.5cm、握の中央に人面4個を鋳出している。その昔、弘法大師が中国にあったとき、日本における三寺地を選定せんとして独鈷と三鈷と五鈷を投じたところ、独鈷がこの池上の山に落ちたため、山を独鈷山と呼び寺を独鈷山功徳池辺寺と号したと伝えている。また五鈷は青銅鍍金、全高19cm、口径7.8cmで、味生池に住む悪龍が盗みとったため、仙海僧正が水辺に祈って取り戻したとの伝承をもっている。この二つはともに平安期の作にかかるものである。
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指定年月日 平成31年3月26日
指定年月日 昭和53年8月22日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
池辺寺に関連する伝来宝物である。独鈷杵と五鈷鈴が県指定、龍の鱗・経キン・千手観音画像の3点が市指定となっている。独鈷は青銅鍍金で全長17.5cm、握の中央に人面4個を鋳出している。その昔、弘法大師が中国にあったとき、日本における三寺地を選定せんとして独鈷と三鈷と五鈷を投じたところ、独鈷がこの池上の山に落ちたため、山を独鈷山と呼び寺を独鈷山功徳池辺寺と号したと伝えている。また五鈷は青銅鍍金、全高19cm、口径7.8cmで、味生池に住む悪龍が盗みとったため、仙海僧正が水辺に祈って取り戻したとの伝承をもっている。この二つはともに平安期の作にかかるものである。龍の鱗はそのとき龍が落としていったと伝え、経キンと千手観音画像はともに江戸期の秀晃上人の時代のものである。
(龍の鱗) (経キン) (千手観音画像)
池上町の日露戦争記念堂正面、本尊の前に供えられていた、一対の花瓶と2個の香炉で、すべて松尾焼である。一対の花瓶は緑茶色の釉がかかり、瓢箪型の胴上に朝顔型の口縁がのり、両耳がついている。胴の中央には唐草文がめぐっており、朝顔部の中央には雷文帯がある。高さは31cm、口縁経22cmで、底面には「天明三 卯十一月…」(1783)の墨書がある。香炉の一つは丸型で脚付、全高15.4cm、上縁径21.5cm、表側には牡丹の花、裏には「奉寄附」「楽氏」「松尾ニテ作之」の銘を象嵌している。かつては胴に耳があったが、今は片耳の下半分しか残っていない。もう一つの香炉は四角で、唐草文帯があるが、惜しいことにひびが入り、たがで締めてある。
指定年月日 平成7年8月2日所 在 地 中央区古京町(熊本博物館)
熊本城築城の功績により八嶋徳兵衛には加藤清正から肖像画とともに、自ら使っていた扇子を下賜された。これは漆塗りの15本骨に紙装で猿の絵が描かれている。猿は清正の干支である寅の反対側にあたる7つ目の位置にちなむ図柄である。また、この扇子は自ら使用していたのを下されたもので、特に殿様の汚れが付いている「御垢附御扇子」として大事にされたと伝えている。
指定年月日 平成31年1月28日所 在 地 西区春日(来迎院)
指定年月日 昭和27年3月29日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
寒巌義尹は順徳天皇の第3皇子(または後鳥羽上皇の第3皇子)と伝えられ、幼いときに比叡山に登って出家し、のちに曹洞宗を開いた道元に師事して法統をついだ。二度の入宋ののち文永4年(1267)に帰朝し、宇土に如来寺を、また川尻に大慈寺を創建した。6点の文書は、建治2年(1276)の「大渡橋幹縁疏」1巻(寄付募集趣意書)、2年後(弘安元年)の「大渡橋供養草記」1幅、大慈寺を創建したときの「伽藍草創偈」1幅、正応2年(1289)寺内に多宝塔を建てるための「宝塔幹縁疏」1巻、永仁元年(1293)の「発願文」1幅、それに「寒巌義尹自賛像」(永仁己亥年)の絹本1幅である。
指定年月日 昭和34年6月27日所 在 地 花園4丁目(本妙寺)
日本紀竟宴和歌とは、宮中で日本書紀の進講が終了したとき宴会が開かれ、その時に参加した人々が詠進した和歌であり、日本書紀の中の神名や人物を題として歌がつくられた。本妙寺所蔵のものは巻子装で表紙は薄縹色である。上巻の巻首に養老5年(721)より承平6年(936)に至る6度の進講例を示し、上・下巻にわたって元慶6年2首と延喜6年40首、天慶6年41首の詠歌が収められている。筆者は鎌倉時代の能書家宗尊親王である。本書は加藤清正遺愛の歌集であると伝承し、藩主細川家の御用以外は門外不出とされてきた。
風土記は奈良時代初期の和銅6年(713)5月の詔命に応じて、各国々が編述して撰進した官撰の地誌である。しかしその大半は後世に至って散逸し、今日残っているものは、出雲・常陸・播磨・豊後・肥前の5風土記にすぎない。中でも「出雲風土記」はそれら5風土記中唯一の完本で、天平5年(733)に成立したことがその奥書きでわかっている。本書は慶長2年(1597)に書写され、細川幽斎の奥書きがあり、それによると江戸内府(徳川家康)の所蔵本を写して一校したと記し、自らのことを丹山隠士と書いている。奥書のある写本では最古のものである。
現存する5風土記の内の一つ「豊後風土記」は天平11年(739)頃までに成立している。永青文庫本豊後風土記は、細川幽斎の近侍、佐方宗佐が書写したもので、文禄3年(1594)の幽斎の奥書きがある。それによると或本を求めて書写を遂げ校合したが所々に不審な個所があるので、なお別本をさがして訂正する必要があると記している。しかし現存する伝本の中で、書写年代を明らかにするものとしては最古の写本で、よく古体を残す最善本である。
伊勢物語は平安時代前期の代表的な歌物語である。在原業平の歌集を主要な材料として物語化したものであるが、その作者は明かではない。伝本の系統は複雑であるが、永青文庫本は「武田本」と呼ばれる藤原定家の写した一本を、冷泉為秀(~1372)が伝えた系統のもので、本文の行間に多くの書き入れが加えられている。この註記は二条家流の旧註を多く取り込んでおり、室町時代後期の伊勢物語の受けとり方を研究する上で、極めて注目すべき資料である。箱書きによれば、本文・細註ともに関白一条兼良の筆とされている。
「源氏物語」は平安時代中期に紫式部が、光源氏を主人公として書いた長編小説で、日本古典の代表作である。全部で54帖に達する。伝本は多いが、室町時代からは、藤原定家が形式を整えた青表紙本が普通となった。永青文庫本も本文はこの系統で、巻頭や行間に書き入れや細註が加えられているが、これらはすべて細川幽斎の自筆である。但し、若菜下だけは俳人山崎宗鑑が書写している。毎帖のはじめには大意の書き入れがあり、幽斎の学識を知る貴重な文献でもある。なお入物の箱は見事な漆塗り金蒔絵の二段箱になっている。
「古今和歌六帖」は平安時代中期に作られた類題和歌集で、作歌の手引書として編まれたものである。編者としては兼明親王説が有力である。万葉集・古今集・後撰集を主体とし、その他の日記や物語類から抄出した約4500首の和歌を、子の日・若菜・卯の花など500余りの歌題に分けて記載している。現存する10数本の伝本はすべて藤原定家の本を転写した系統のものであるが、永青文庫本はそれらの中で最も古い写本である。奥書によれば文禄4年(1595)に、世尊寺行能筆の禁裡本を、細川幽斎と数人の門下が書写したもので、内3帖は幽斎の自筆であるという。
細川幽斎は、かねてから藤原俊成や同定家の遺訓を学ぶために、歌合を蒐集したいと望んでいたが、その願いは後陽成天皇のときにかなえられた。慶長5年(1600)に幽斎は宮中の歌合せ類を借出すことを許され、多くの門弟の手を借りて書写校合している。これらはすべて7冊で、巻頭に女房家歌合とあり、「若狭守通宗朝臣女子連歌合」・「右衛門督家歌合」・「大皇太后宮大進清輔朝臣歌合」・「右大臣家歌合」・「御裳濯歌合」・「宮河歌合」・「日吉歌合」から成っている。いずれも奥書に「以勅本奉書写校合訖 慶長五年仲夏中瀚 玄旨(花押)」と記されている。
「十首歌合」は宝治元年(1247)9月、後嵯峨上皇が主催され、公卿・廷臣・有力歌人等26人を集めて行われた十題百三十番の歌合である。このときの判者は前権大納言藤原為家で、詳しい判詞を加えている。この歌合せの伝本はかなり多いが、この永青文庫本は、為家の判に対する蓮性の反論である「蓮性陳情」を付載している点で重要であり、また写本中の善本である。元亨3年(1323)の写本を慶長3年(1598)に幽斎が筆写したもので、末尾に「此歌合先年書写之 今又尋得古本之次重而加校正但知家卿進後嵯峨院状無之 件本世尊寺行尹卿筆跡云々尤神妙之物也」の奥書がある。
「百番歌合」は、従来「歌合略目録」に名称だけ出ており、菊ノ屋文庫旧蔵本によって内容までは判明していたが、本書の発見でその成立と伝来がたしかめられた。藤原為家の子慶融がこの本を編んだのは永仁4年(1296)6月のことで、同6年には権少僧都某が鎌倉の旅宿においてこれを筆写し、さらに天正16年(1588)に素然(中院通勝)が筆写していることが奥書で判明する。俊成卿と定家卿の秀歌を2冊に編述している。
「幼童抄」1冊は、室町末期の代表的な連歌師である宗長(1448~1532)が、老年におよんで、幼童のために連歌作法を記したものである。すべて宗長と同時代の人々の書簡を裏返して用紙とした宗長の自筆本である。この本は宗長が石巻勘九郎左衛門の懇望により記したものであるが、それをさらに鈴木某に与えたことが末尾に記されている。それを細川幽斎が入手して改装し、蔵書に加えたものと考えられ、奥書に「玄旨(花押)」と幽斎の署名がある。
この1冊本には本来書名は記されていないが、その内容によって「連歌作法書」と仮題をつけて呼称されている。天正7年(1579)細川幽斎が47歳のとき、青龍寺に帰城中に執筆した自筆本である。幽斎は連歌というものについてはじめて接する初心者のために、その入門書としてこの本を書いており、連歌の用語とか付合などかなり詳細な説明を行っている。巻末には「右一冊初心之者為稽古書之者也 天正七年甲子六月日 藤孝」とあり、自筆の著書であることがわかる。
俗に「菅家万葉集」とも称せられ、平安時代中期に菅原道真が撰んだと伝えられる詩歌集である。内容は上・下2巻に分かれ、春・夏・秋・冬・恋に分類された和歌とそれを意訳した七言絶句を載せている。和歌もすべて万葉仮名を用いているので、全文漢字ばかりで書かれている。採られた和歌は「寛平御時后宮歌合」を骨子としている。本書は、原撰本と見られている九條家旧蔵本(文永11年及び正平6年の識語がある)系統の唯一の完本で、称名院(三條公豊)の自筆本を書写したものである。筆写は中院通勝と雄長老で、細川幽斎が奥書を記している。
観世流の謡本で、「稲船」・「安古木」・「短冊忠教」・「富士太鼓」・「高砂」・「小袖曽我」・「猩々」・「竹雪」・「女郎花」・「安達ヶ原」の10曲を収めた10冊である。安達ヶ原を除く各冊には、信光または長俊の青表紙本によって章句を付した旨の観世小次郎元頼の奥書があり、本書が極めて由緒正しいものであることがわかる。元頼は観世次郎信光の孫、弥次郎長俊の子で、観世座にとって業績の大きかった人である。箱書の所伝によると、本文は幽斎と三斎が天文23年(1554)から永禄2年(1559)にわたって書写したものである。
本書は、外題に「太鞁秘傳抄(たいこひでんしょう)」とあるように、能のときに用いられる太鞁に関する秘伝を記したものである。細川幽斎は、観世座の太鼓の名人である観世与左衛門国広を師匠とし、能の太鼓の名手でもあった。そこで与左衛門から受けた秘伝をさらに弟子の小崎彦次郎に相伝したものが本書である。小崎彦次郎は織田信雄の家臣で、小崎図書の子。奥書に相伝の旨を記し、文禄2年(1593)7月の年記と、幽斎玄旨(花押)の署名があり、貴重な本である。
本書「詠歌大概抄」と「秀歌大略抄」は別々に装本された各1冊本であるが、「詠歌大概抄」は、藤原定家の歌論「詠歌大概」について、三條西実枝(三光院内府)の講義を聞いた細川幽斎が、その内容を天正14年(1586)にまとめたもので、定家やその時代について解説し、漢文体の本文について注釈を試みている。「秀歌大略抄」は、「詠歌大概抄」の中の「秀歌之体大略」の中にあげられた103首の秀歌例について、注釈を加えたもので、本文中に「天正十四暦八月下旬丹山隠士玄旨」の署名がある。本書は幽斎自身によって証本たるべきことを確認された原本である。
歌切(うたぎれ)とは、和歌の巻物や冊子の中にある古人の筆跡を、鑑賞の目的で軸装にするため、その一首または数首を適宜に切りとったものである。豊臣秀吉の桃山時代になって茶の湯が盛んになると、床の間の掛物として禅宗僧侶の墨蹟や古筆が特に尊重されてきた。なかでも平安末から鎌倉初期にかけて代表的歌人と目された藤原俊成と定家父子の筆跡は大変に珍重された。この歌切は細川家の家記「綿考輯録」によると、寛永16年(1639)11月に江戸城で、三斎忠興が徳川家光から拝領したことが記され、以来細川家の名物として大切にされてきた。
「新勅撰和歌集」は、後堀河天皇の勅命を受けて藤原定家が撰進した勅撰の和歌集で、勅命を受けてから2年9か月後の文暦2年(1235)に完成した、全20巻、勅撰第9番目の和歌集である。永青文庫本は、定家の自筆と伝える2冊本で細川家に代々襲蔵されてきた。桐箱表には「定家卿自筆新勅撰集二冊」と記され、貴重品扱いであった。内容を見ると、和歌排列の手直しや文字の削除や修正が施されており、撰集の経過を伺うことができる。本書には2通の添状がついており、その上包紙の裏に「文禄二年仲冬下旬感得訖 玄旨(花押)」と記されている。
本書は、表題の通り、天正20年(1592)に細川幽斎が自分で詠じた連歌や和歌を収めた詠草で、勿論自筆である。箱書には「天正廿年細川玄旨詠草」とあり、本書の表紙には「天正廿年玄旨」「詠草」と自筆で記している。内容は日次的に9月までの記述で、はじめに「入唐御沙汰有し年 元日試筆」として、「日本のひかりを見せて遙かなるもろこしまでも春やまつらん」の歌を載せている。9日には会始め、豊臣秀吉の西下に従うための餞別の会、下国途次の連歌会が続き、最期には9月27日鹿児島における興行で終わっている。
指定年月日 昭和40年2月25日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
文明13年(1481)8月、菊池氏21代の肥後守重朝は、隈府で1日1万句の連歌会を興行した。重朝の家臣や寺院の僧侶ら100人が20の座に分かれ、各座で500句ずつを1日のうちに連詠している。この1万句そのものは現存しないが、一座あて5句の20座で計100の発句は、「古記集覧」に収録されている。本写本はその元の姿を垣間見せてくれる唯一の遺品で、奥書によれば弘治2年(1556)に後の隈本城主城越前守親賢が書写したものである。なお重朝はこの連歌会において最初の発句「月やしる十代の松の千々の秋」を詠んだので月松の館と呼ばれたと伝えている。
指定年月日 平成15年9月12日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
宮本武蔵の自筆として名高い本書は、八代城下で兵法師範を勤め二天一流を広めた豊田家に伝わったものである。その後所有者を転々とし、鈴木猛氏の遺志により熊本県立美術館に寄贈された。豊田正剛(とよたまさたけ)が記した「武公伝」では自誓書と呼ばれているが、題の「獨行道」は「独りの行いの道」、即ち、ただ一人で行い来たった自らの生き方の規範を述べたものと考えられる。「我事におゐて後悔をせず」「道におゐては死をいとはず思う」「佛神は貴とし佛神をたのまず」など、克己的で強い自我意識が見てとれる独特な人生訓となっている。この「獨行道」は、剣聖宮本武蔵の自筆と確認できる貴重な史料である。さらに、武蔵の特異な人生観・武道観の直截な表白として、思想史上も注目されるものである。
指定年月日 昭和53年8月22日所 在 地 中央二の丸(県立美術館)
池辺寺関係の記録は、維新の廃寺の際に失われてしまって、宝物として保存されたこの古文書一巻7通だけが残った。巻頭の文書は頭の方が欠けているが、「………任先例可有執務之状如件 天文廿一年六月廿六日 源義鎮(花押) 法印快眞」とあり、池辺寺の快眞に対してその職務を安堵したものと推定される。2・3・4通目の文書は、いずれも大友義鎮の書状で、池辺寺同宿中に宛てた祝儀の礼状である。5通目は菊池義宗の書状、池辺寺本堂再興に関するもので6月5日の日付となっている。6・7通は大友家老臣吉岡長増の返書で、いずれも戦国期の池辺寺を知る上の貴重な史料である。
指定年月日 昭和62年6月6日所 在 地 中央区黒髪2丁目(熊本大学)
7世紀の日本を述べた中国の史書『隋書』にその名を知られた阿蘇山とその信仰は、8世紀の『風土記』や『日本書紀』に更に詳しく語られている。古代律令制の下で官社の地位を得た阿蘇社と阿蘇神主家の動向は、9世紀より11世紀にかけての「六国史」の記事にみることができるが、文書として残されているものは平安末期12世紀以降のものである。これらの内容は、阿蘇社や大宮司家・社家をはじめ、末社の甲佐社・健軍社・郡浦社にかかわる中世の政治・社会・経済・文化の諸問題に及んでいる。県内最大の中世文書である。
指定年月日 昭和14年5月27日
所 在 地 京都府上京区
指定年月日 平成7年10月11日所 在 地 中央区出水2丁目(県立図書館)
検地は土地を支配する領主が、領内の田畑を正確に把握し、税を過不足なく公平に賦課するために行われるものであり、検地帳はその台帳にあたる。肥後国では、佐々成政が天正15年(1587)に検地を強行しようとして国衆一揆を引き起こした。翌16年には、有名な太閤検地が実施されたが、残念ながらこのときの検地帳は存在しない。現存する最古の検地帳は、加藤清正による天正17年の検地のもので、その中の菊池郡・山鹿郡が残っている。検地帳は時代により呼称が異なり、肥後国では次のように呼ばれている。 加藤時代 「検地帳」 細川時代 「地撫帳」「地引合帳」「下ゲ名寄帳」「地押帳」 熊本藩の総数3983冊にも及ぶ検地帳は、近世の全時代にわたっている。これだけまとまって残されているのは全国的にも珍しく、学術的な史料価値も高い。
指定年月日 平成30年3月27日所 在 地 中央区黒髪2丁目(熊本大学)
指定年月日 昭和50年3月24日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
浜の館とは現矢部町(旧浜町)にあった阿蘇大宮司の居館である。天正13年(1585)阿蘇氏は島津氏の攻撃を受けてこの浜の館を捨て、目丸の山中に逃れた。時の大宮司は3歳の惟光で、彼は豊臣氏の九州平定のあと佐々氏の隈本城に保護され、弟の惟善も宇土城に保護されて浜の館へ帰ることはなかった。昭和49年に矢部高校改築の際、ここが浜の館の跡であるとの伝承に基づき発掘調査を行なったところ、館跡の遺構とともに池のほとりから21点の祭祀用遺品が出土した。黄金延板・玻璃製盃3・白磁置物2・三彩鳥形水注2対・緑釉水注1対・緑釉陰刻牡丹文水注1対・三彩牡丹文瓶1対、緑釉瓶1対・染付牡丹唐草文瓶1対・青磁盒子1個であり、明代後半の製品である。
指定年月日 昭和42年6月15日所 在 地 南区城南町塚原(塚原歴史民俗資料館)出 土 地 南区城南町宮地 宮地台地 年 代 弥生後期 高さ 20.3CM
舟形の胴部に脚台を取り付けた土器で、舟の中央部に口頸部を、先端部に小孔をあけた液体を注ぐための容器である。表面に描かれた文様や形から草袋形土器・舟形注口土器などとも呼ばれている。
指定年月日 平成19年3月19日所 在 地 熊本県教育委員会保管
曽畑遺跡出土植物質資料は、宇土市花園町にある縄文時代前期(約6,500年前)を中心とする曽畑遺跡から出土したものである。これらの出土品で最も特徴的なことは、縄文時代の植物質の資料が、腐らずに残っていたことで、これは、遺物が空気と全く触れることがなかったためである。そのため、縄文時代のヒョウタンや木の葉等が、青々とした状態で発見された。縄文時代に利用されたことが分かるヒョウタンは、国内でも例が少なく、とても貴重なものである。その他、植物のツルでつくられた編み物は、ドングリを貯蔵していた穴の中から20点が発見された。ヒョウタンと同様、植物質の資料がそのままで見つかる事は、非常に珍しいことである。
(ヒョウタン) (網代)
磁州窯系鉄絵壷は、阿蘇郡南阿蘇村大字一関に所在する祇園遺跡を発掘調査した際に出土した。祇園遺跡は、鎌倉時代から室町時代(12世紀後半から14世紀後半)にかけての遺跡であるが、阿蘇地方を治めていた「大宮司」と呼ばれる職に任命されていた阿蘇氏の、南阿蘇地方での館と考えられている重要な遺跡である。出土した壷は、中国の河北地方にある磁州窯と呼ばれる窯でつくられたもので、祇園遺跡が営まれていた時代に輸入され、建物を建てる前に、地鎮のために納めたと考えられている。大きさは口径12.7センチメートル、器高30.5センチメートル、最大径32.5センチメートルの立派な陶器で、壷の素地に白土をといたものをかけ、その上に透明の釉薬をかけている。壷の表面には、鉄分を含む黒色の顔料で鳥や草の文様を描いており、美術品としても非常に価値が高いものである。
指定年月日 平成18年1月25日所 在 地 中央区横手1丁目(本覚寺)
加藤清正の側室本覚院殿墓の移設工事に際し出土した、小木佛1点、柄鏡1点、丁銀1点、柩金具一括を市指定文化財として指定したもの。小木佛は、水晶の窓付容器に入った全長2.7センチメートルと小さいもので、尊名は不明である。柄鏡は、小型だが厚みがあり上等な作りである。背面には、沢瀉紋(おもだかもん)が鋳出されている。丁銀は、本覚院の没年からみて、慶長六年の慶長丁銀といえる。柩の表面を飾っていた金具は、装飾の中心になる据物と区画の帯飾りや角飾りの金具とがある。据物の意匠には桔梗紋、牡丹紋、橘紋がありいずれも良好な塗金で飾られ、桃山の雰囲気を漂わせる豪華なものである。
(小木佛) (柄鏡) (丁銀)
(柩金具)
指定年月日 平成25年3月27日所 在 地 北区植木町岩野(文化財課保管)
塔ノ本遺跡3区(植木町轟字塔ノ本)の1号土壙墓から出土した。瓜形の胴部をもつ青磁水注及び須恵器坏である。青磁水注は、残存高21.0cm、胴部高16.8cm、最大径13.3cm、底径8.7cm、胴部は完全だが口縁部、把手、注口を欠く。須恵器坏は、完形で、口径12.0cm器高2.9cm底径6.5cm。青磁水注は、中国唐代末期の越州窯青磁の特色をよく示す優品であって、これまで日本で出土している越州窯青磁のなかでも、とりわけて貴重な作例である。日本で出土している他の水注と比べると、焼き上がりの良さ、器形の美しさがきわだっており類例の稀な上作だったことがうかがわれる。きめの細かい均質の土でつくられており、頸部の直立する形や高台の形式に精製品の特徴がよく現れている。なお、口縁部、把手、注口の欠損は、破砕面の状態からみて、偶然の破損とは考えられない。おそらく埋納にあたって意識的に打ち欠いたものであろう。
また、他例が出土状況など不明瞭であるのに比して、正式な発掘調査によるものであり、出土遺構や状況が明らかで、共伴の須恵器で時期の特定が可能である点は水注自体の価値とともに重要である。製作時期は9世紀末~10世紀初頭と推定され、学術的に極めて評価の高いものであって、平安時代中期の有力者の葬送儀礼の実態を示す極めて良好な歴史資料ということができる。
指定年月日 平成30年10月31日所 在 地 西区花園4丁目(本妙寺)
指定年月日 平成24年4月20日所 在 地 中央区二の丸(県立美術館)
「領内名勝図巻」は、肥後細川家の領内を中心に滝や山・海からの眺め、名所等を描いた全14巻からなる風景図で、寛政5年(1793)に完成した。14巻全ての長さを合計すると約400mにも及ぶ壮大な作品である。第8代熊本藩主細川斉茲が矢部地方での狩りの際、千滝と五老ヶ滝に感動して御抱絵師の矢野良勝に写生を命じ、その出来映えに満足した斉茲が、他の大名たちに披露しようと、肥後国中の滝や美しい風景を良勝と衛藤良行に描かせたことが制作のきっかけである。雪舟の技法に習い、大胆な筆使いながら細い部分も極めて写実的に描いており、江戸時代中期の熊本の風景を知る格好の資料となっている。さらに、藩主が大名のサロンで図巻を披露するために描かせたという史実からも貴重な歴史資料である。
指定年月日 令和3年3月26日所 在 地 中央区古京町(熊本博物館)
員 数 268件339点
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町船津(尾跡公民館)
地蔵講帳は文化7年(1810)、西之宮講帳は嘉永元年(1848)の各1年間、恵美須祭礼帳は安政元年(1854)から昭和30年代までの記録帳である。輪番製で祭礼をとりおこない各年の祭主が記録したもので、特に農業に関する事柄、天候、農作物の出来・不出来、価格、世情一般、事件の記録である。農民の書いた村の歴史である。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町船津
宝暦14年から昭和までの役場文書であり、特に近代初頭の町村制施行、河内、船津、白浜三村合併の状況を知る上で貴重な資料である。また、近代の町村史料としては県下でも最も充実した稀有な行政資料である。
寛政4年4月1日雲仙岳眉山の山崩れによる津波は有明海沿岸地方に甚大な被害を与えた。これは、翌年4月造立された宝篋印塔形の供養塔で、願主は熊本市坪井泰陽禅寺第8世太釣円忠、石工は対岸の肥前永石昌豊である。
厳島神社東参道入口にあったものを道路改良により現在地に移した。河内町にある供養碑4か所(6基)のうちの1基で寛政7年乙卯10月の建立である。
この供養碑には、船津村、河内村、白浜村、近津村の四か村の罹災死者「人数765名」と刻まれ当時の被害の甚大さを偲ばせるものである。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町河内
大きな自然石に寛政4年壬子4月朔日の紀年銘と銘文が刻まれている。
加藤清正より願があれば申し出るようにと御意をうけた八嶋徳兵衛は城内の不浄(下肥)の集め方をお願いした。当時下肥(糞尿)は耕作時の肥料として貴重なものであった。そこで熊本城内は勿論それぞれの役所にいたるまで不浄汲取を仰せ付けられた。そのため三御門(西南北の大手門)の出入を昼夜のべつなく許可するため木製の出入札を渡された。この札は徳兵衛自宅の火災により文字が不明瞭になったため新しい鑑札1枚を追加して2枚一緒に提示させることになった。これがその2枚の鑑札である。
指定年月日 昭和51年8月24日所 在 地 市内
熊本で発祥し今日まで伝習されている游泳術である。宝永年間(1700年頃)村岡伊太夫は一流をたて白川天神淵で上士の游の指導にあたった。その子小堀長順は游の師範となり、父から受け継いだ游が後世に正しく伝えられるようにと宝暦6年(1756年)「踏水訣」を著わし「水馬千金篇」とともに宝暦8年に出版した。これらは我国の水泳書籍としては最初の刊行物である。後に「水練早合点」も出版された。5代師範小堀水翁は游の名称を確立して、游の心がけと心の修養を「水学行動10ヶ条」に著わした。熊本県下や各地に稽古場を置き門弟は1万人にも達した。明治維新後東京学習院、京都、長崎にも伝えられ現在も行われている。手繰游を基本とし、立游を特徴とする。足撃、手繰游、早抜游、立游、潜游、浮身、御前游、抜手游、浮游、水書、甲冑御前游、水剣、水銃、水弓などがある。
指定年月日 昭和50年3月24日所 在 地 大江1丁目
流鏑馬は、馬に乗った射手が馬を走らせながら的を射当てる行事で、もともとはその年の吉凶を占う神事として平安時代から行われていた。それが中世になると武士の武術の一つとして盛んに行われるようになった。伝書によれば文徳天皇の皇子にはじまり、その後武田・小笠原両家に伝えられたという。武田流は武田家最後の信直が細川藤孝の甥であったので、細川藤孝と忠興に伝えられ、忠興の子忠利のとき家臣の竹原小左衛門に授与継承されて現在に至っている。藩校時習館では武術の中の必修科目であった。現在の流鏑馬では幅約9m、長さ220mの馬場に約55m間隔で3個の的を置き、疾走する馬上から次々に神頭矢を射当てるという形式で行われる。
指定年月日 昭和50年2月26日所 在 地 市内
熊本市独特の肥後独楽は、椿や百日紅などの材料を用い、頭部に赤・緑・黄などの華やかな色つけを行い、外側は白い木地をそのまま残しておく。その一つのちょんかけごまは、上面を凹面状につくった皿状の木ごまで、円錐型をした長さ3cmほどの鉄の芯をつけている。遊び方は1~1.5mの紐を両手に持ち、紐の上に芯の根元を乗せて回転させる。古くは武士の間の遊びであったが、江戸末期には大道芸人も現れ、明治以後は民間でも流行するようになった。第二次世界大戦後すたれていたが、昭和43年保存会ができて復興した。現在本がけ・大振り・小振り・背くぐしなど14種程の遊び方がある。
指定年月日 昭和35年4月22日所 在 地 東区健軍本町(健軍神社)
神楽は神座を設けて行われる神事芸能である。分類すると巫女神楽・出雲神楽・伊勢神楽・獅子神楽などになるが、実際には各々の要素が混在している。肥後神楽と称せられるものは、岩戸神楽に類し集落中心の民間神楽と、神官中心の社家神楽の混成物と考えられ、県北一帯に広がっていた。古くは各神社で舞手の養成を行ってきたが、昭和十六年には熊本市・飽託郡の神職による神楽会が結成されて錬成に努めていた。戦後もその伝統が続いていたが、現在では市の神職を中心とするサラリーマンとの混成によって継続されている。肥後神楽は「式神楽」にはじまる十二座から成っており、「国津」が仮面舞を含むほかは素面の舞いである。装束は採物によって異なり、御幣や榊のときは狩衣、剣や弓のときは、直垂を着ける。笛と太鼓が楽の主体であるが無常の調子にいたっては銅拍子が加わる
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 南区奥古閑町
銭太鼓踊りの大太鼓は古老の言い伝えによれば、清正公から下賜されたもので、約400年の歴史をもつという。この太鼓に鉦と笛を添えた囃子に合わせ手に銭太鼓を持って踊るところから、銭太鼓踊りといわれる。また、清正公時代は武士の出陣に際し士気を鼓舞するため舞われたので、陣太鼓踊りとも称されたというが、開拓農民に引き継がれた後は豊作祈願、雨乞いのため舞われ、雨乞太鼓踊りと称されるようになったと言い伝えられている。笛、鐘のリズムに合わせて大太鼓を3名で打ちそれらのリズムに合わせ銭棒を持って区内の老若男女が踊るという素朴な民俗芸能である。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 北区硯川町(柚木菅原神社)
10月15日の柚木神社秋祭りに行われる。昭和初期に柚木神社管掌の神職によって招来され、盛時には周辺の村々に請われて奉納して廻った。肥後神楽であるが、一般的な12座(三座、真栄木、剣弓、二剣、二剣二弓、長幣、宝剣、神饌歌、双弓、四剣、国津、地鎮)に祓い神楽が加わっている。採物は三座棒・榊・剣・弓・鈴で装束は狩衣・袴・白衣・白足袋・烏帽子にタスキをかける。楽器は太鼓、笛のみである。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 北区立福寺町(立福寺伊邪那岐神社)
昭和初期より始められたといい、10月15日立福寺の秋祭りのとき下組の菅原神社に奉納されるもので肥後神楽である。13座からなる(三座、真栄木、剣弓、二剣、二剣二弓、長幣、宝剣、神饌歌、双弓、四剣、国津、地鎮、祓い)。採物は三座棒・榊・剣・弓・鈴で装束は狩衣・袴・白衣・白足袋・烏帽子にタスキをかける。楽器は太鼓、笛のみである。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 北区明徳町(熊野神社)
11月15日に熊野神社秋祭りで行われる。肥後神楽で13座からなる(三座、真栄木、剣弓、二剣、二剣二弓、長幣、宝剣、神饌歌、双弓、四剣、国津、地鎮、祓い)。昭和初期より始められたといい、明徳の氏子によって継承されている。楽器は太鼓と笛のみで、採物は三座棒・榊・剣・弓・鈴・鬼面を使う。装束は狩衣・袴・白衣・白足袋・烏帽子にタスキをかける。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町白浜(白浜神社)
10月15日に白浜神社祭礼で行われる白浜岩戸神楽は、肥後神楽に属するものであり、11種の演目で構成される。又、舞う範囲は極めて狭く小太鼓を使用する点が肥後神楽に共通している。さらに、この神楽の舞子は全て子ども達であり、小学4年のときから舞いはじめて年齢が大きくなり、進学や就職で人数がそろわなくなるまで大体6年から8年をひと区切りとして交替する。国家安泰、五穀豊穰祈願奉納神楽である。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町野出(野出春日神社)
この神楽は、遠く大永元年(1521)に地区の守神に対して国家安泰、子孫繁栄、五穀豊穰祈願のための奉納神楽として始められたと伝えられている。野出春日神社の祭りは年7回あるが、神楽が全部奉納されるのは10月15日の大祭の日だけで延々6時間程度11種を演舞する。野出神楽は、肥後神楽の系統に属するものである。この神楽はまず神を招きよせる演目に始まって最後に地面を踏む「地固め」が演じられるが、この形式は神楽本来の意味をよく示している。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町大田尾(大多尾日吉神社)
この神楽は10月15日の秋祭など年6回大多尾日吉神社に奉納される神楽で、肥後神楽に属する。肥後神楽は、基本的には採物(御幣・鈴・剣・弓等)を手にして舞われるものであり、「国津」においては、仮面が用いられ詞章が語られる。この点大多尾神楽は、よく肥後神楽の特色を保持している。演目数は、12番で通常の演目数である。舞の動きがゆるやかで、太鼓の音ともよく合い洗練され県下の肥後神楽のなかでもよく出来た神楽である。地区氏神に国家安泰、五穀豊穰を祈願する奉納神楽であり、文献等はないが、古い形を残している。
指定年月日 平成20年8月1日所 在 地 中央区新町
新町獅子舞は、熊本市の秋祭りの代表である藤崎宮秋季例大祭の初日に氏子により奉納される。舞は、赤の雄獅子と黄の雌獅子によって行う。舞い方の種類には藤崎宮の神前だけで舞われる静の舞「天拝の舞」と牡丹の花を中心に舞う「牡丹の舞」がある。かって藤崎八旛宮は熊本城の西部の藤崎台にあり、新町の氏子は藤崎宮鳥居基として毎年同宮の大祭に獅子舞を奉納してきた。明治期に西南戦争で同宮が焼失し、現在地(井川淵町)に移転した後も奉納を続けている。「市井雑式草書 乾」(『熊本法学』13号」)によると新町獅子舞の奉納は、享保17年(1732年)まで遡ることができる。
(牡丹の舞) (天拝の舞)
指定年月日 平成24年3月27日所 在 地 北区植木町清水(清水菅原神社)
肥後神楽は江戸後期神職によって舞われていたが、明治のころから各地区の氏子により奉納継承されてきた。この清水菅原神社神楽も明治初期に地区の有志が熊本市北岡神社等で習得してきたもので、肥後神楽系の神楽として伝承されている。かつて旧植木町の数地区で舞われていたが、現在は清水地区のみである。 舞の座は11座あり、1番 榊舞:舞手2名、 2番 参舞:舞手1名、3番 二剣舞:舞手2名、4番 御幣舞:舞手2名、5番 長幣舞:舞手2名、6番 四剣舞:舞手4名、7番 神選歌:舞手1名、8番 弓舞:舞手2名、9番 剣弓舞:舞手2名、10番 仁天舞:舞手2名、11番 地固め:舞手2名である。
指定年月日 昭和50年2月26日所 在 地 東区上南部(乙姫神社)
上南部神社の大祭は10月25日にその夜社殿で行われる。上南部神社には奈我神社、乙姫神社、住吉大社の3社が合祀してある。奈我神社の祭神は、初代神武天皇の母君、玉依姫命で、癸戌(663年)第38代天智天皇の勅命で鎮座、御勅名の社号である。乙姫神社は阿蘇の12神の一つで、貞観17年(875年)若比咩命を乙姫大明神として合祀する。神楽の起源は明らかではないが、乙姫社宮記によれば、安永3年(1774年)春より夏まで疫病流行したるにより、此の疫病退散祈願のため、合志郡祠官集まり大神楽を奏すとある。言い伝えによれば阿蘇の方から神楽流で、物静かで優雅な舞であったが、戦後熊本肥後神楽会の影響受け、勇壮活発な箇所を取り入れた独特の上南部神社肥後神楽を造り挙げた。神楽は太鼓、締太鼓、笛、鈴、を使用し、舞手は狩衣を、地方は白衣着用する。神楽は13座で、三座、榊の舞、二幣の舞、二剣の舞、剣弓の舞、長幣の舞、奉剣の舞、双弓の舞、四剣の舞、神宣歌、四方拝、国津の舞、地鎮の舞である。
指定年月日 昭和50年2月26日所 在 地 西区松尾町平山(平山神社)
松尾町平山の平山神社の大祭は、今日でも古式通りに10月13日から15日にかけて行われており、大祭最後の夜執行されるのが、社前の火焚きとこの神楽である。神楽は古来継承されてきたと伝えるが、時代は定かでない。しかし、この祭礼中の14日に近津の下田家に幣物を受領に行くという行事があり、下田家は室町時代からの当地の豪族であるから、この地の祭事の古さを推定させる。神楽は太鼓・締太鼓・横笛・ジャガランを楽器に用い、舞人はすべて狩衣を着する。12段構成で、11番目に国津があって、ここで神が鬼面をつけて出現し、神官と問答するところがクライマックスである。奉納には約3時間を要する。
指定年月日 平成11年3月17日所 在 地 中央区小沢町(西福寺)
境内の庫裏のかたわらにある、偏平な安山岩の自然石の板碑である。塔の地上高は136センチメートル、最大幅76センチメートル、板石の厚さは約15センチメートル。碑面上部中央に阿弥陀菩薩、下部に観音・勢至の両脇侍を線刻する。如来・脇侍とも雲に乗って迎えにきた姿で、早来迎像とよばれる。碑面左側に「于時明應八天(1499)丁未八月日 庚申講一結集敬白」とあり、図像の下に「道清」をはじめ21名の講衆の名前が刻まれている。庚申信仰は、60日に一度巡ってくる庚申(こうしん=かのえさる)の夜、身を慎むため徹夜で寄り合いをした信仰である。熊本県下には1000基を越す庚申塔が現存しているが、この「西福寺の庚申塔」は県内最古で、全国的に見ても十指に入る草創期の貴重な資料といえる。
指定年月日 令和3年4月28日所 在 地 熊本市西区春日
指定年月日 昭和30年12月29日所 在 地 中央区本丸、二の丸他
加藤清正が、茶臼山全体を取込んで建設した近世城である。着工の時期は、通説では慶長6年(1601)とされ、同12年に完成したと伝えられているが、天正年間に既に着工されていたという説もある。城域は、周囲5.3km、面積98ha、坪井川と井芹川を内堀に見立て、白川を南方外郭の外堀としている。加藤氏から細川氏を経て明治維新を迎え、廃藩後鎮西鎮台に引き継がれた。 西南の役では薩軍の猛攻を受けながら一歩も城内に入れず、築城の巧みさを実戦で証明した。現在も石垣・堀はよく旧状を残している。昭和8年に国の史跡に指定され、以来指定地域を拡げてきたが、昭和30年に特別史跡に格上げされた。
指定年月日 平成7年11月28日所 在 地 中央区黒髪4丁目,中央区横手2丁目
(泰勝寺跡)中央区黒髪4丁目 細川忠利が肥後に入国した後の寛永14年(1637)忠利は熊本城近郊の下立田に一寺を建立して、祖父藤孝夫妻と母玉子の墓をつくり、泰勝院と名付けて供養した。寛永19年に、次の藩主光尚は京都妙心寺の大淵和尚を招いて住職とし、正保3年(1646)忠興がなくなると、忠興の墓も玉子の傍につくり、泰勝院を瑞雲山泰勝寺と改めている。維新の際の神仏分離令によって泰勝寺は廃止され、細川家の別邸となって今日に至った。境内は旧寺域と墓地と庭園から成り、旧寺域は立田祠堂を含む細川邸、墓地には四つ御廟と斉茲・斉樹・韶邦・護久およびその子女の墓が並び、庭園には池を囲んで苔庭・仰松軒などがある。
(妙解寺跡)中央区横手2丁目
寛永18年(1641)に細川忠利がなくなると、その墓地をどこに設けるかが審議されたが、結局祇園山(現花岡山)の麓に埋葬することになり、彼の墓地を守護するために山麓に寺が設けられた。寛永20年に沢庵と同門の啓室宗栄が下向して住職となり、護国山妙解寺と名づけられた。寺号は忠利の戒名妙解院殿に基づいている。以後歴代の菩提寺とされ寺領300石、幕末まで住職10世を経過した。明治4年廃寺とされ、細川家の北岡別邸となった。昭和20年7月3日暁方の空襲で焼失し、同30年11月熊本市が一部を譲り受け自然公園として一般に公開している。現在妙解寺橋・山門・裏門・枯山水の庭園・参道の石燈籠群・築地塀・経蔵跡など多くの遺跡が300年の歴史を物語っている。
(泰勝寺跡)
(妙解寺跡)
指定年月日 大正10年3月3日所 在 地 西区小島9丁目
小島下町の北にそびえる権現山の中腹、海抜110mのところにある装飾古墳を千金甲(せごんこう)古墳の甲号と呼ぶ(第1号墳)。墳丘は斜面の少しなだらかなところの山沿い(北西斜面)を削って半周溝状に掘り、その土を盛り上げてつくっている。南西方向に羨門を設けた円墳で、羨道は埋没しているが長さは約3m、石室は安山岩の割石平積みで高さ2.5m、奥行2.7m、幅2.6mである。石室内には凝灰岩板石6枚を使って、石障(せきしょう)をめぐらし、その内壁に同心円と対角線と靱の文様を刻み、赤・青・黄の三色で彩色している。早くから石室の天井部近くが開口していたため、副葬品は残っていないが、6世紀の初め頃の築造と推定されている。
甲号墳より南に下がった海抜60m程のところ、権現山と高城山の鞍部にあるのが乙号墳(第3号墳)である。円墳で、羨道の長さ2.6m、石室の奥行き3.6m、幅3m、高さは天井部が早く開口しているのではっきりしないが、4mを越えていたと推定される。石室は安山岩の割石平積みで、奥に巨大な石屋形がある。石屋形の高さは1.17m、内側の幅は1.75m、奥行1mで、架石の厚さは30cmもある。この石屋形の内面に三重の同心円や弓・靱・舟・太刀などが描かれ、赤と緑で彩色されていたが、永く開口したまま風雨に晒されていたので、今ではその痕跡をとどめる程度に薄れている。昭和35年に覆屋がかけられた。6世紀半ば頃の築造と推定されている。
指定年月日 大正10年3月3日所 在 地 北区釜尾町
丘陵端部に位置し、東麓を流れる井芹川両岸との比高差は約50mである。円墳で、墳丘は変形しているが径18m、高さ6mと推定されていた。平成2年の周溝確認調査によって、内径28~29m、幅3~4mの周溝が検出されている。内部主体は南に開口する両袖型玄門付横穴式石室で、安山岩を用いている。全長約9・6m、玄室長3.6m・幅3.6m・高さ3m、羨道長は6m・幅約1m・高さ0.7m。前室長1.75m・幅0.9m・高さ1.5m。玄室側壁は割石小口積みで、持送りが著しく、壁面下部の高さ1.8m程は赤色、上部は白色顔料が塗られている。玄室奥壁に沿って石屋形が設けられる。装飾図柄は石屋形を中心として前壁を構成する玄門柱石・冠石に赤・青・白色で同心円文・三角文・重列三角文・双脚輪状文が描かれている。副葬品として須恵器、管玉、剣・刀・挂甲・馬具等の鉄製品が出土している。石室構造・壁画等から、6世紀後半の築造と考えられている。
指定年月日 平成9年9月11日所 在 地 西区池上町
池辺寺跡は、池上町の北西、金峰山山地の支脈より派生する標高141~128mに位置する。山間の平集落を見下ろす寺跡からは、南北にやや長い3間×3間の回廊を持つセン敷きの建物基壇跡、その西側背後の斜面に規則正しく配置された100基の石積(塔)群が確認された。この山岳寺院跡は「金子塔」の碑文に見る、「天台別院肥後國池邊寺側号百塔當寺根本御座所」とみられ、9世紀に建てられた池辺寺跡と考えられる。
指定年月日 昭和45年3月9日所 在 地 南区城南町東阿高 年 代 縄文後期(約3,000年前)
雁回山東麓の舌状台地先端部にある。昭和の初期から発掘調査が行われ、土器の他石器・鹿角斧・貝輪などが発掘されている。 特に、これらと一緒に発掘された抜歯のある人骨は、当時の社会を知る上で貴重である。 また、この貝塚の貝のほとんどが汽水産の大和シジミであることは注目される。 九州の縄文後期を代表する御領式土器はこの貝塚の土器を標識とする。
指定年月日 昭和51年12月27日所 在 地 南区城南町塚原
年 代 古墳時代前期~後期(約1,600年~1,400年前)
塚原古墳群は、総数500基(現在までの確認数203基)にのぼると言われる。全国でも最大級の古墳群である。この古墳の特徴は,方形周溝墓に始まり、方墳・円墳・前方後円墳へと続く約200年間に及ぶ古墳群の変わっていく様子を同一台地で見られるところにある。内部主体も、初期の肥後型横穴式石室や外覆施設を持たないものとしては、全国最大規模の横口式家形石棺などの多種の埋葬施設を見ることができ墳丘との組み合わせは、14種にもおよぶ。 古墳群は、昭和61年度から保存のための整備が行われ、平成5年度まで、約10万平方メートルの整備が完了した。
指定年月日 昭和55年8月20日所 在 地 南区城南町阿高・下宮地年 代 縄文時代中期~後期(約4,500~4,000年前)
浜戸川左岸の貝塚を阿高貝塚と右岸の貝塚を黒橋貝塚という。 二つの貝塚がほぼ同時期に存在し、距離も近いところから両貝塚を一緒に、阿高・黒橋貝塚として指定された。 阿高貝塚は大正5年(1916)の耕地整理のとき発見され、調査によって50体に及ぶ人骨の他貝面など多数の遺物が発見された。九州の縄文中期を代表する阿高式土器は、この貝塚の土器を標識とする。黒橋貝塚は昭和47年の集中豪雨によって堤防が決壊したことから発見された。その後、河川内にもその広がりが確認されたことから、阿高貝塚と連結しているとも言われる。 発掘調査によって、土器の他、骨角器や石器が多数発見された。 特に動植物遺体は、当時の食生活を知る大きな手掛かりとなった。
指定年月日 平成22年8月5日所 在 地 川尻3丁目、川尻4丁目
江戸時代、熊本藩の年貢米の集積・搬出の拠点となった米蔵施設で、熊本城下町の南方、加勢川右岸に位置する。 年貢米の集積地として、また軍港として機能した熊本藩の重要な港であり、現在も船着場と米蔵が残り、わが国近世の物流・水運の様相を知るうえで重要である。平成24年9月、対岸に居住した杉島御船手衆が川尻に行き来するための渡し場が追加指定となった。
(船着場跡) (外城蔵跡)
(御船手渡し場跡)
指定年月日 平成25年3月27日所 在 地 北区植木町豊岡他
西南戦争は、明治10年(1877年)南九州一帯で行われた国内最大最後の内戦である。薩摩軍は、政府軍との田原坂の激戦、熊本城の攻防戦で敗北し、大分・宮崎・鹿児島を転戦、西郷隆盛が鹿児島の城山で自刃して戦争は終結した。西南戦争遺跡は、田原坂、半高山等の古戦場をはじめ、台場、本営、救護所、官軍、薩摩軍墓地等を含む多種多様な要素からなる遺跡である。戦争が約7ヶ月間に及び、かつ、戦場が南九州各地(熊本、大分、宮崎、鹿児島)に及んだことから、関係遺跡が広域に分布している。平成25年3月、熊本市にある田原坂本道及び田原坂公園並びに玉名郡玉東町にある二俣瓜生田官軍砲台跡、二俣古閑官軍砲台跡、横平山戦跡、半高山・吉次峠戦跡、正念寺山門、高月官軍墓地及び宇蘇浦官軍墓地が国指定史跡となった。両市町の西南戦争遺跡は、良好に残存し極めて貴重であり、わが国の政治・軍事を知る上で重要である。
指定年月日 昭和41年1月31日所 在 地 中央区黒髪7丁目
普通に横穴墓と呼ばれるものは、一つの室の中に1~3個の屍床を設けるものであるが、昭和39年1月に発見されたこの浦山横穴群は、特異な形式をもっており学界の注目をあびた。西側のA群と東側のB群とに分かれているが、両者ともに南から北に向かってのびる長さ15~20mの中心通路があり、この通路は奥に入るほど幅が広がって羽子板状になっている。この羽子板状の前庭の正面に、A群では5基の横穴が手の指を拡げたように設けられており、前庭には小型・極小型横穴が5基開口している。またB群では正面の1基を中心に小型横穴が西に4基、東に3基ある。出土遺物等から7世紀頃の家族墓であると考えられている。
指定年月日 昭和41年1月31日所 在 地 南区野田1丁目
大慈寺は、弘安5年(1282)河尻泰明を大檀那として寒巌義尹によって創設された。肥後最古の曹洞宗寺院で有数の名刹として知られている。寺は正安2年(1300)に本尊安置の仏殿をつくって完成したが、正平の頃焼失し、大雲化縁が再興した。その後永正17年(1520)にもまた焼失したので再三興された。ところがその後の天文9年(1540)にまたまた兵火にかかり同15年に再興された。江戸時代明和8年にも焼失したが再興され、以来第二次大戦後までそのままであったため荒廃甚しく、ようやく昭和60年にかけて再建され旧態に近くなった。寺域は河川改修その他で狭められたが、鎌倉期からの寺地をとどめている。
指定年月日 昭和49年3月23日所 在 地 北区打越町
京町台地が東側に張り出した打越丘陵の上にある。直径30m、高さ6mの円墳で、昭和22年に発掘された。頂上近くに稲荷の祠があったために稲荷山古墳と呼ばれている。南に開口する横穴式石室墳で、石室は安山岩の板石を小口積にし、奥行も幅もほぼ2.9mの方形につくり、羨道は長さ2.8mである。石室の正面には板状安山岩で組み立てた石屋形があり、その内側に赤・青・白の三色で画いた同心円や三角形の模様が描かれている。屍床は三区に区切られ、典型的な肥後様式の装飾古墳である。既に盗掘を受けていたが出土品は豊富で、鏡・直刀・矛・鉄鏃・杏葉・雲珠・金環・轡・勾玉などがあり、6世紀後半の古墳と考えられる。
指定年月日 昭和52年10月11日所 在 地 北区明徳町
明治10年(1877)の西南戦争では、田原坂の激戦等が有名であるが、最前線と熊本城の中間に位置する旧北部町内も重要な地点であった。この地で戦闘が交えられたのは、向坂における2月22日と3月20日の2回がある。戦闘期間中、町内では254戸の家と204の小屋が焼かれ、戦いにまきこまれて死傷した人も有り、民間の損害も少なくなかった。明徳官軍墓地は向坂バス停から東に入った旧道沿いにあり、将兵軍夫123柱の墓石が並ぶ。主に3月20日の向坂の戦いの戦死者の墓である。墓石は北を正面とし、頭のとがった四角柱で、その総高は士官124cm、下士官87cm、兵卆70cm、軍夫40.5cmを測る。
指定年月日 平成4年5月20日所 在 地 中央区黒髪7丁目
6世紀後半から7世紀前半にかけて営まれた共同墓地。白川中流右岸域、立田山西南麓の小支谷に位置する。周辺には、本横穴群以外にも横穴群や古墳群が集中して存在し、古墳時代後期の一大墓域を形成している。本横穴群の最大の特徴は、長大な前庭部(墓前の広場)を設け、その壁に複数の横穴を穿っている、という点にある。一つの前庭部を共有する横穴群の被葬者たちは、血縁集団であったと考えられ、当時の家族構成、墓制、墓前祭祀の形態を解明するうえで良好な資料を提供すると期待される。平成4年度から11年度まで熊本市が主体となって、継続的に発掘調査を行い、18群48基を確認した。
円台寺は比叡山延暦寺の末寺といわれ、豊後國の守護大友能直によって建立された。当時大友氏は肥後國に多くの所領をし、大友能直の二男能秀は鹿子木荘などの肥後國の領地を相続して、託磨氏を名のっていた。円台寺が最も栄えたのは鎌倉時代で、その後衰退したが、応仁二年(1468年)に再興され、大永六年(1526年)大友義鑑によって修造されたといわれている。円台寺集落の麓から円台寺までの途中の凝灰岩の岩壁に如来坐像、五劫思惟阿弥陀立像、阿弥陀三尊立像、三重塔などが陽刻されている。小仏画龕群には消えているものもあるが、赤、黄、黒で仏像が描かれていて、以前は数百個あったといわれている。この各磨崖仏はほとんどが鎌倉期のものと推定されている。
指定年月日 昭和58年1月18日所 在 地 北区植木町轟
官軍墓地は、明治10年(1877年)の西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した墓地であり、県内に21箇所つくられている。墓地は周囲を石垣で囲み、玉垣がめぐらしてある。墓碑には氏名、所属、戦死した場所、出身地等が刻まれている。この墓地には300名が埋葬されてあり、そのうち軍人276名、軍夫10名、警察官14名である。その大半は田原坂の戦の後、植木周辺や、吉次、木留、辺田野、平野、滴水などで戦死した東京、大阪、名古屋、広島、熊本鎮台及び近衛歩兵の所属である。墓碑は砂岩を使用してあるので剥離するなどのいたみがある。
指定年月日 昭和43年12月4日所 在 地 西区花園7丁目 (付)東区尾ノ上4丁目
天福寺裏山の標高100m程の地点にある。東から1号墳・2号墳・3号墳と呼び、3基とも横穴式石室を有する円墳で、早くから開口していた。古来この古墳を「鬼穴」とか「バクチ穴」とか称している。1号墳は羨道の長さ1.80m、石室の奥行き2.16m、横幅1.76m、2号墳の羨道部は破壊されており、石室の奥行き2.5m、幅1.65mである。3号墳は古来隠れ場所として利用され、羨道の蓋石には「明治十年」の落書が刻まれている。羨道部の長さ1.51m、石室奥行き2.42m、幅2.1mで3墳ともに古墳時代後期の巨石墳である。なおこの古墳群の下に細川家の祈祷所と伝えるところがあり、ここに豪潮の宝篋印塔が建てられていたが、現在では尾ノ上4丁目に移されている。この塔は昭和46年8月11日、内蔵する銘文2枚と共にこの古墳群の付として指定された。
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 北区池田3丁目
桜が丘病院の西隣にある装飾古墳である。直径10m、高さ3m、の円墳で南側に開口している。内部は安山岩の割石小口積の石室で、奥行3.14m、幅3m、高さ2.55mである。石室内には周囲に低い石障をめぐらし、屍床を区分する仕切石が残っている。羨道は現在僅か1mほどしか残っていない。当初は西壁面に円と三角の装飾があったと記録されている。昭和初期に国の仮指定となっていたが、第二次大戦中浮浪者が住みつき内部は荒廃した。その後昭和39年に研究者の手が加えられたが、現在では僅かに赤の痕跡をとどめるにすぎない。この古墳群はもと3基あったが、戦前と戦後に2基は破壊されてしまった。形式から見て6世紀前半のものと推定される。
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 東区健軍2丁目,中央区神水1丁目
県立商業高校脇の電車通りに、健軍神社の大鳥居がある。この鳥居をくぐって暫く東へ進むと、道が急に広くなり、その南手に折損した大銀杏がある。通称八丁馬場と呼ばれるのは、これから東に直線で健軍神社の門前までの区域である。両側には加藤清正の頃植栽したと伝えられる杉並木があるが、戦中・戦後の荒廃により、現在では神域に近い部分のみその亭々たる偉容を見ることができる。杉並木の間の中央参道は、清正の頃の騎馬訓練の馬場として利用されていたので、その名がついたという。8町(約900m)というが実際にはそれより長く、10町40間(約1200m)あると言い、江戸時代明和頃(1764~72)には大杉300本があったと記されている。
指定年月日 昭和47年12月13日所 在 地 東区健軍本町
この神社は昔は「たけみや」と言い、竹宮または健宮と書いていた。のちに健軍宮と表記するようになったため、昭和になって「けんぐん」と音読するようになり、遂に現在では「けんぐん」が神社名と地域名になってしまった。この社の祭神は、もともとは境内にある国造社の神、火国造の祖健緒組(健緒純)であったと考えられる。健緒組は先代旧事記によれば、祟神朝の人とされている。この社も平安末期か鎌倉初期に阿蘇大宮司の支配下に入り、一時健軍宮司職も存在した。神社の地上物件は戦国期の争乱でほとんど消滅したが、約1000年にわたる神社遺構であり、全域にわたって縄文晩期の遺跡でもあるので、考古学上、歴史上重要である。
指定年月日 昭和43年12月4日所 在 地 西区小島8丁目
金峰山南側の山塊、権現山から南東側に半島状に伸びる通称楢崎山の山頂付近を中心に展開する古墳群で、昭和42年から43年にかけて調査が行われ、円墳10基と箱式石棺3基が発見されている。墳丘が現存するものは2・4~9号の7基、そのうち5~9号の5基が指定となっている。いずれも山頂に近い側を半周溝状に削って盛土しており、横穴式石室を持つと考えられる。4号墳の石室内は赤彩されていることが分かっている。5号墳は石室内部に石障をめぐらし、内側は「コの字形」に区画している。石室からは挂甲や鉄鏃が出土している。7号墳は石室奥に石屋形を持ち、須恵器や金具などが出土している。これらの古墳は、その構造や出土遺物から、5世紀から6世紀にかけて造られたものと考えられる。
指定年月日 昭和45年6月2日所 在 地 西区小島9丁目
大正年間の京都大学の報告書に、千金甲古墳のうち丙号としてあげられている三つの内2基で、残りの一つは消滅しているが、おそらく箱式石棺であったと考えられる。2基の内1基は乙号墳の少し北側にある円墳(2号墳)で、天井と羨門が開口している。乙号墳によく似たつくりで、大きな石屋形があり、もとは赤く塗られていたが、今では彩色は全く消失してしまい、遺物も全く残っていない。6世紀中頃のものと考えられている。残りの1基は高城山の南西端、千金甲集落の真上にある円墳(5号墳)で、これも天井部分が開口し、盛り土はほとんど流失している。石屋形はかなり省略されており、6世紀後半の所産であろう。
指定年月日 昭和46年8月11日所 在 地 西区城山上代町
城山は、戦国時代の上代城跡である。本丸跡は西側の水源地のあるところで、東側の水源地のあたりが二の丸である。この二の丸に3基の高塚式古墳がある。最高所にあるものを一の塚、その西にあるものを二の塚、南側斜面上にあるものを三の塚と呼んでいる。いずれも円墳であるが、一の塚は墳丘の直径約40m、高さ5.6mで、墳丘の形はよく残っている。二の塚は周囲を削られているが、現在直径17m、高さ2.9mで、南西側に昭和初期の教育会発掘の痕跡が残っている。三の塚は大正15年12月に採石のために発掘され、石室の半分まで露出しているが、石室の奥に石屋形があり、金環・鉄直刀や轡の破片などが出土している。6世紀中頃のものと考えられる。
指定年月日 昭和47年12月13日所 在 地 中央区出水1丁目
奈良時代、聖武天皇のときに諸国に建立された国分寺のうち、肥後国分寺の七重塔の心礎とその礎石である。もとは現在地より西側にあったが、明治の頃、熊野神社の境内に移された。心礎は長径270cm、地上からの高さ120cm、中央の柱穴の径は76cm、深さ9.6cmで、神社境内の東北隅に置かれている。礎石は心礎のすぐ南側に1箇、境内の猿田彦碑の根元に1箇あるが、心礎と同様に安山岩の塊石である。平安時代になり肥後国府が飽田郡に移り、この寺も衰微した。本堂の跡には中世に、曹洞宗国分寺が再興され、周辺には「門前屋敷」「伽藍」などの地名が残っている。
指定年月日 昭和48年5月8日所 在 地 南区御幸西4丁目
明治35年11月、陸軍特別大演習が熊本で開催され、同13日朝大本営を出られた天皇は、川尻街道を南に進まれ、近見から乗馬で当時の部田村大字西無田に入り、南方の畑の中で約1時間演習を統監された。演習終了後に南北両師団長以下参加将校を集められ、円形に整列した将校連の中央に立って、講評されたのがこの御野立所である。この光栄を記念するため、部田村は村名を御幸村と改め、熊本市に合併後も大字の上に御幸をつけて、御幸木部、御幸笛田、(旧)御幸西無田の町名を残している。敷地449平方メートルの中央には、石垣積の上に巨大な自然石の「駐蹕之所」と刻まれた碑があり、昭和7年に建てられた副碑がその右側にある。
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 西区小島7丁目
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 東区沼山津1丁目(横井小楠記念館)
横井小楠の旧居である。小楠は嘉永7年(1854)7月に兄時明が病死したので、家督をつぐことになった。彼は横井家の財政を立直すため、在宅願を出して安政2年(1855)に相撲町から沼山津に移転し、この家を四時軒と名づけ雅号を沼山と称した。その後小楠は安政5年に福井藩に招聘され、文久2年(1862)まで肥後と福井を往復したが、文久3年の刺客事件で武士の身分を取上げられ、沼山津に蟄居させられた。彼は明治2年1月5日京都で暗殺され、沼山津在住は実質8年8か月であった。彼はこの地で家を増築し、私塾を開き多くの門弟を養成した。現在記念館のあるところがその塾と寮の跡である。私塾は早く解体されて消滅し、住居も明治期の火災で一部分しか残っていない。解体再建された建物の中12畳の座敷と4畳の板の間部分が旧来の四時軒である。
指定年月日 昭和49年9月5日所 在 地 中央区渡鹿6丁目
渡鹿菅原神社は早鷹天神の分霊で、加藤清正によって築造された渡鹿堰の守護神として、堰の取入口近くに祀られた。本社の早鷹天神は今や単なる石祠となっているが、渡鹿菅原神社の方は、依然地元民の崇敬の的となっている。この神社の境内は、縄文時代後期初頭の貝塚の遺跡地で、昭和30年代に発見されて渡鹿貝塚と名づけられた。周辺が悉く開発された中で、この境内だけがそのまま保存されており、市内の少ない貝塚の一つである。またこの神社の飛地境内で井島山と呼ばれる小丘があり、これは渡鹿堰の開発に功労のあった井島玄蕃允の墓と伝えられるが、全体の形状から見て高塚式古墳と考えられ、ともに市内の歴史を物語る貴重な遺跡である。
指定年月日 昭和51年10月28日所 在 地 南区御幸木部町
木部の内の下屋敷にある地蔵堂敷地である。現存する地蔵堂の本尊の地蔵は元禄3年(1690)の作であるが、その他に焼損した古い坐像があり、これがおそらく古来の本尊であろう。堂の脇に大榎があり、その根元には五輪塔の残欠が集積されている。戦国時代に木部殿と呼ばれた林田氏の菩提寺であったことは疑いない。
指定年月日 昭和53年4月25日所 在 地 西区島崎4丁目
島崎の地は古く江戸時代中期から別荘地として開けた。この百梅園の地も、はじめ細川藩の家老米田助右衛門の弟米田松洞の別荘として設けられた。松洞は別禄2000俵、中老職を勤め、詩人としても名高く、江戸で「四時園集」という詩集を刊行した。天明元年(1781)に隠居してこの地に移り、避竹園と名づけて、寛政9年(1797)になくなるまで詩作にふけった。後に此の地は兼坂氏の所有となり、兼坂止水が明治3年家禄を奉還して帰農したときこの地を本拠とし、翌4年私塾衆星堂を開き、さらに蔵春堂を設けた。普通これを兼坂塾と呼んでいる。止水は此の地に茶や梅を多く植栽して百梅園と名づけた。
指定年月日 昭和53年4月25日所 在 地 中央区内坪井町
文豪夏目漱石の旧跡は松山・熊本・東京の三か所で、その中で当時の旧居が残っているのは熊本だけである。熊本在住中の彼の住居は六か所あったが、現在は三か所を残すだけである。その中でもこの内坪井の家が最もよく昔の面影を残している。漱石がここに住んだのは明治31年7・8月の頃から1年8か月間で、熊本在住中の一番いい建物であった。馬小屋に続く馬丁部屋もあり、庭園も昔の面影を存している。長女筆子の産湯の井戸もあり、後の文章「二百十日」の素材となった阿蘇行もこの家から出発した。ここは寺田寅彦・久米正雄・松岡譲など日本近代文学上の有名人とも縁のある貴重な旧居といえる。内部は漱石に関する資料を展示し記念館として公開している。
指定年月日 昭和54年4月24日所 在 地 西区池田2丁目
県道「熊本-四方寄線」に沿ったNTT研修センターの向い、道路西側の高台にある。ここにはかつて大榎があり、その根本に1基の板碑がまきこまれ、これを山伏塚と呼んでいた。伝承では「加藤清正が熊本城築造のとき、地割の法を行うために呼んだ龍蔵院という修験者を、秘密が洩れぬようにとここで殺して埋葬した」とされている。昭和30年代に榎は枯損伐採され、いまでは折損した2枚の板碑片が祀られている。この碑のほかに、天明元年(1781)の「南無妙法蓮華経鎮護国家塔」と天保6年(1835)の地蔵石像などもあり、今もなお地域の尊崇を集めている。
指定年月日 昭和55年11月27日所 在 地 中央区横手2丁目
花岡山中腹の官祭招魂社の石祠の裏手高台にある陸軍墓地で、南側入口に「花崗山陸軍埋葬地」という石柱が立っている。そこから階段を登るとすぐ左手(墓域東南部)に将校の墓、その後(墓域西南部)に下士官の墓があり、北側は全部兵卒の墓である。これらはいずれも明治9年10月24日の神風連の変の際の戦死者で、総数は116名に達する。将校では鎮台司令長官種田政明少将、高島茂徳中佐、大島邦彦中佐をはじめとし、尉官7、少尉試補4名の墓が並び、砲兵営の坂谷敬一少尉、歩兵営で奮戦した多羅尾少尉などの名も見える。なお墓地の北東隅に鎮台創設期以来の死者136名の霊を慰める合葬碑も設けられている。
指定年月日 昭和60年8月22日所 在 地 西区島崎5丁目
島崎は金峰山東麓の幽邃の地、湧水に恵まれた山渓の美を鑑賞でき、しかも城下からの距離も程遠からぬため、詩文を楽しむ藩士達の清遊の地であった。細川家5代の藩主綱利もこの地にお茶屋を設けたが、ある時ここに続弾右衛門を伴い、お茶屋とその周辺の土地を杖で指し示して弾右衛門に与えた。以来続家ではこのお茶屋を「お杖先」と呼んで大切にしてきた。弾右衛門の子在衛門のとき、米田波門がこの地に遊び、その景観を「釣月耕雲」と詩に詠じたことから、「釣耕園」と名づけられた。庭園は飛石を配した広い池に山渓を取り入れて中心に置き、南側の崖にはしゃくなげの群落がある。
釣耕園の下手にある叢桂園は藩の医学校再春館の師役村井家の別荘で見朴の子椿寿(琴山)が作庭したと伝えている。庭には釣耕園の水を引いて曲水をつくり、その下手には中国の洞庭湖に模した池を設けた。簡素な茶室がその北にあり、西側の小窓を開けば荒尾山がその枠内に入って、一幅の絵となるつくりであった。園の入口の石には「来者不拒 去者不追」の文字が刻まれ、曲水の南は百日紅と楓の林で樹下は緑の毛氈を敷いたような苔庭となり、石の碁盤や腰掛も配置されている。かつて頼山陽が訪れたとき、椿寿は庭の造成中で、山陽は百日紅の植替や庭石の配置を終日手伝わされたと伝えられている。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 北区改寄町
坪井川上流域は、台地に深くえぐりこまれた谷状をなしている。この一帯では8か所の横穴群が知られており、この他にも多数の横穴があると考えられる。8か所の横穴群の中で最も整然と並び造作も立派なものが井上横穴群である。横穴群は北向の馬蹄形につづく崖面の東側の部分に、西北に面して7基がほぼ等間隔で一列に並んでいる。前庭部や羨道は破壊されているが、多数の須恵器が出土している。玄室は平面形が正方形又は台形、最も広いものは奥行き3.5m、羨道部側幅3.2m奥壁幅2.8m、狭いものは奥行き2.9m羨道部側幅2.6m奥壁幅1.7mである。時代は、出土した須恵器からみて古墳時代末6世紀から7世紀前半のものと思われる。
昭和42年7月山林の果樹園造成工事中に発見された古墳である。発掘調査により石室の奥行き3.3m、羨道の奥行き0.8m、玄室の奥行き2.5m、玄室への入口は幅0.66mの規模が確認された。石室構築手法より、6世紀前半もしくは中期頃のものと考えられる。河内町の古墳は果樹園造成によりほとんどが壊され、現存する古墳は2基であり、貴重なものである。
中川内、平、鵜通洞(うつどう)の字境に鉄砂(鉄砂開、鉄砂うち)と呼ばれる所がある。鵜通洞で砂鉄が取られていたことから名付けられたものである。砂鉄を取り出すため、岩戸から鵜通洞までの約3キロの水路が、北斜面の中腹に樋を架け或いは岩を掘り造られた。現在2か所が遺溝として確認されている。この砂鉄採集が行われたのは、安政年間の頃で外国からの開国要求で沿岸防備等のため大量の鉄が必要な時期であった。当時の砂鉄採集法は「カンナ流し」と称する方法で、傾斜地に樋を架け水を流し砂を投入し分離するものである。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町白浜
細川家に仕えた加藤家歴代の墓地である。先祖加藤半右衛門は伊勢国の人で慶長7年(1602)細川忠興に召し出され代官役を勤めた。その子右兵衛景尚は寛永3年(1626)に知行高百石を与えられ細川忠利の肥後入国のお供をし、のちに白浜定御番に任命され慶安元年(1608)8月に没し、この墓地に葬られ、以後加藤家累代の墓地となった。中には寛政4年4月1日の大津波で死亡した人の墓も見える。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町岳
道家之山は名を一徳、通称角左ヱ門、隠居後之山と称する。禄高百石奉行兼用人となり、維新後権大参事に任ぜられる。後、官を辞し隠居、川床に居を移した。隠居後も藩政に影響をもつ実学党の一人であった。明治17年5月4日没66歳。
板碑2基は大永5年卯月吉日(1525)と永禄2年8月22日(1559)、五輪塔7基の中には天文22年4月3日(1553)と天正元年10月5日(1573)の紀年銘がある。その外は16世紀後半から17世紀前半の造立で、宝篋印塔1基は16世紀の造立である。嶽麓寺は古くは天台系統の寺院であったとみられるが、江戸時代になって曹洞宗寺院として復興、明治になって廃寺となった。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 西区河内町野出
中世に初めて河内の地名が出るのは、南北朝初期暦応3年(1340)の「三池心応四方指写」による。河内村を含む飽田郡池上庄の支配者である三池心応が河内村を支配する五郎兵衛に対し池上庄と分村の河内村の境を指示したものである。その北境の起点となったのが畳ヶ石である。西にむいて切り立った岩で上部は平坦で畳のように細長いため付けられた名であろう。この畳ヶ石は、白浜地区と野出地区の双方にまたがっている。
指定年月日 平成23年3月28日所 在 地 北区植木町田底縦1.51m 最大幅1.50m 厚さ0.19m
縄文時代の末期から弥生時代中期にかけて、北部九州地域には支石墓という大きな上石を標識として埋葬址の上部に据える墓制があった。熊本県北部地域は支石墓の分布が南限にあたり、特に平畠支石墓はその性格を把握するうえで非常に重要な位置を占めており、熊本県下においても数少ない弥生時代の支石墓で、現在の位置を留めている。支石墓の材質は木葉変成岩で上石は縦長の五角形をなし、中央部は屋根型に稜線が走り、南側からみると亀が首をもたげた状態を呈している。現在目にすることができる数少ない例であり、地域の歴史を語る重要な歴史遺産である。
指定年月日 平成23年3月28日所 在 地 北区植木町古閑
墳丘は一部削られているが北西方向が古墳の前方部にあたる。全長56m、後円墳の幅25m、高さ5mで、復元延長約72mと推定される。高熊古墳は合志流域における最初の前方後円墳である。作られた時期及び県域の南北をつなぐ要衝の地に築造されていることから、当地域のみならず、熊本県全域の古墳の動向を考える上でも重要な古墳である。出土品の埴輪は、畿内から出土する本格的な埴輪と同じ手法で製作され、中央との関係も知ることが出来る貴重な史跡である。
指定年月日 平成23年4月28日所 在 地 南区城南町陳内時 代 奈良時代
熊本市城南町に位置し、現在は塔心礎のみが残る、県内最古奈良時代の寺院跡である。6種類の軒丸瓦と3種類の軒平瓦が出土しており、中でも軒丸瓦と軒平瓦のセットは8世紀前葉に大宰府周辺や肥前国府など当時の政治的中心地の寺院や官衛に使用されたものとほぼ同じ文様である。この文様の瓦の使用は限られており、太宰府から遠く離れた陳内廃寺が重要視されていたことがうかがえるものである。さらに陳内廃寺の南東には瓦を焼成した瓦窯があり、県内に瓦窯と寺院が近接して残存している例もなく、窯の残存状況も良好である(瓦窯跡も同時に指定された。)。
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陳内廃寺跡から南東約500mの谷の東斜面に設けられた地下式有階有段の登窯である。窯は凝灰岩をくり抜いて造られ、窯の全長は10.2m、焼成部は約7.4mある。炊口は破損しているものの焼成部の天井は原型を保ち、13段の階段が造られている。瓦は陳内廃寺から出土したものと同じで、奈良時代の前葉の操業であったと考えられる。保存状態が良好で、さらに、生産地と供給地が明らかなきわめて重要な事例である(陣内廃寺跡も同時に指定された。)。
指定年月日 昭和4年12月17日所 在 地 中央区水前寺公園(出水神社)
肥後に入国した細川家3代の忠利が、寛永13年(1636)に古市宗庵に命じてつくらせた「国府のお茶屋」が、今日の成趣園のはじまりである。忠利はそこに寺をつくり、耶馬渓羅漢寺からやってきた玄宅を住わせ、これに水前寺の号を与えた。そのため、このお茶屋は「水前寺のお茶屋」と呼ばれるようになったという。その後寺は廃寺になり、藩有地に繰入れられたが、5代綱利のときに現在のような大規模な庭園を作らせて成趣園と名付けた。しかし水前寺の称号はそのまま伝えられ、今日でもその名で呼ばれることが多い。桃山式の回遊式庭園で、古今伝授の間からが眺望の要となっており、綱利の選んだ水前寺十景なども有名である。
指定年月日 昭和50年5月7日所 在 地 西区松尾町
古くから岩戸観音として知られた由緒ある霊場で景勝の地である。既に平安時代の頃、霊巌洞には石体四面の観音が祀られて人々の尊崇の対象であったことは、清原元輔や桧垣の伝承によって知ることができる。雲巌禅寺が創設されたのは南北朝の頃で、開山は元僧東陵永ヨである。室町時代には衰退したが、加藤氏・細川氏の庇護によって江戸時代には再び整備の手が加えられた。細川家の重臣沢村大学助吉重が深く信仰し、宮本武蔵も霊巌洞に籠って「五輪之書」を著したことはよく知られている。宝永5年(1708)にできた釈迦三尊と十六羅漢の石像、さらに安永8年(1779)から24年かかって奉納された五百羅漢も有名である。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 北区貢町
瑞巖寺靈応山は肥後国誌によると天台宗比叡山正覚寺の末寺という。延宝改元(1673)の年、光朝という僧が草創したが廃絶した。これを正徳元年(1711)大阿闍梨法印廣朝が再興したと記す。境内入口に戒壇石、正面に地蔵堂、その東に放生池がある。庭内には、数多くの石造物が見られ、石灯籠、水盤、鳥居残欠、句碑、板碑、五輪塔、歴代住職の墓等があり、北の崖面には磨崖仏がある。風光明媚の地である。
指定年月日 大正13年12月9日所 在 地 中央区宮内
藤崎台には明治10年まで藤崎八旛宮が鎮座されていた。藤崎宮は承平3年(933)の勧請と伝えられており、以来950年近くこの台地に社殿があったため、その社叢として7本のクスの大木が残ってきた。大きなものは根廻り31m、目通り幹囲り12m、高さ28mにもおよび樹齢推定1000年、小さなものでも目通り幹囲り7m、高さ20mで推定樹齢400年とみられている。西南の役に社殿は悉く焼失し、以後陸軍用地となり、昭和35年に県営野球場となったが、このクスノキ群は保護柵が設けられて今日に及んでいる。
指定年月日 大正13年12月9日所 在 地 中央区神水本町
水前寺成趣園の湧水は、水前寺川を経て上江津湖に流入するが、この水域に自生する茶褐色で不定形の藍藻がスイゼンジノリである。明治5年(1872)にオランダの植物学者スーリンガルが発表してはじめて世界に紹介された。九州の一部に自生する日本特産の藍藻類で、成趣園の池で発見されたものである。生育地は温度変化が少なく年平均水温が18度ぐらいの清冽な湧き水で、水深も50cm以下、流速も遅く、水底は砂礫が多く、マコモ・セキショウなどの水草が程よく繁茂しているようなところでなければならない。昭和28年の熊本大水害以来、江津湖の環境変化が著しく、現在では特別保護区の中でようやく生育している。
指定年月日 昭和4年4月2日所 在 地 中央区黒髪4丁目
ヤエクチナシは、旧第五高等学校教授浅井東一が大正9年(1920)に発見したもので、立田山に無数にある普通の一重のヤエクチナシの中に20株ほどの八重咲きがあり、野生のクチナシが自然に八重に変る現象が珍しいというので指定された。葉は長楕円形で長さ約11cm、幅約3cm、花弁は三重となり交互に配列し、花弁数は13枚から22枚で、18枚が普通である。花径は6cm~9cm。第二次大戦後、樹木の伐採や盗掘などにより次第に姿を消し、一時絶滅が伝えられたが、昭和44年にその存在を再確認して保護されている。立田自然公園内に移植されたものがあり、6月ごろ花を咲かせて観光客を楽しませている。
指定年月日 昭和16年8月1日所 在 地 熊本市内各地
矮鶏は熊本県・東京都・千葉県・神奈川県・埼玉県・群馬県・静岡県・大阪府に飼育されている日本特有の畜用愛玩鶏で、学術上も貴重なものである。中でも本県で飼育されている矮鶏は肥後ちゃぼと称せられ、久連子鶏・薩摩鶏とともに九州三大珍鶏とされている。肥後ちゃぼには大冠桂と達磨の二種類があり、大冠桂は俗に鶴毛と言われ、羽の色が鶴に似ている。また直立した肉の厚いとさかと、長大な袖を垂らしたような肉垂をもつので振袖ちゃぼとも呼ばれる。達磨は黒一色で、大きなとさかと肉垂を持つが、尾がチョキ尾である。熊本県では矮鶏は昭和30年頃から激減し、絶滅の危機に瀕したので保存会が設けられ、育成が図られている。毎年5月に熊本博物館で肥後ちゃぼ展が開かれている。
指定年月日 昭和27年3月2日所 在 地 東区健軍5丁目(熊本動植物園)
タンチョウヅルは丹頂鶴の漢字をあててきた。頭の頂が赤いという特徴をとらえた命名である。古来からの渡り鳥で、冬、シベリアや中国北部から日本に渡来し春先にまた北に旅立つのが野生の生態であった。江戸時代までは大名の鷹狩の獲物として一般の捕獲を禁止していたので、日本中どこでも見られ、その姿の美しさから瑞鳥として尊ばれ、詩歌や絵画によく登場した。しかし明治以後の乱獲がたたり、今日では日本に約350羽が棲息しているにすぎない。
指定年月日 昭和12年12月21日所 在 地 南区城南町隈庄年 代 樹齢700年
城南町の中央部、下田家の屋敷内にあることからこの名がある。 県下最大級を誇る大イチョウで根回り10.2m、高さ22.0m、目通り9.0m、枝張り東西14.8m南北15.2mを計る。 地上1.5mの高さから大きな幹が分かれており、南の幹周り5.9m北の幹周り6.4mで幹の途中からこぶが垂れ下がっている。 天正15年4月18日(1587)には隈庄城に宿泊した豊臣秀吉が翌朝見物に訪れたという記録が残っている。
指定年月日 昭和40年5月12日所 在 地 東区健軍5丁目(熊本動植物園)
指定年月日 昭和49年5月8日所 在 地 北区北迫町
北迫の集落の北側にある。幹囲13.5m、樹高約29m、枝張りは東西47m、南北49m、南西方向に伸びる枝が最も長く中心から29mもある。樹根は蛸の足のように地上に這いまわり、樹勢も盛んである。クスノキの多い熊本県下でも最大級の巨木である。樹の南側の幹に墓石らしいものが1基まきこまれている。これが鹿子木寂心の墓と伝えられるもので、樹の呼称もこれに由来する。鹿子木寂心は、名は親員、三河守と称し、入道して厳松軒寂心と号した。旧北部町の楠原城に本拠をおき、飽田、託磨、山本、玉名郡内の560町を領したという。後に隈本城(古城、現在の第一高校の場所)を築き、そこを本拠とした。
指定年月日 昭和53年6月17日所 在 地 北区植木町滴水
幹回りは脇芽も含めて14m。高さ42mの雄株である。龍雲庵という寺跡で、現在も樹下に一宇の阿弥陀堂がある。滴水地区では毎年3月26日に「いちょうの木さん祭り」が行われている。白蛇の伝説や、夜間に拍子木が鳴った伝説も残っている。秋に木の葉の色づき具合をみて、麦播種の目安にしていたとも云われている。
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 西区上高橋1丁目(高橋東神社)
推定1000年以上を経た大クスノキで、根廻り幹囲り23.0m、目通り幹囲り12.0m、地上4mのところでも幹囲り9.5mで、樹高は22.0m、枝張りは東西23m、南北26mである。地上6mのところで二股に分れ、一幹は東北、他は西南に向いている。本樹は地上6mのところまでは壮大な直幹で、県内の大クスノキの中でも屈指のものであるが、惜しいことに大枝の多くが途中で切落されているため、樹型を損じ、樹勢も盛んであるとは言い難い。高橋東神社は古く天社大明神と称せられ、地元では今でも天社さんと呼び、奈良時代の肥後国司道君首名を祭る神社である。この樹は本来その御神体であったと考えられる。
指定年月日 昭和43年8月13日所 在 地 中央区花畑町(花畑公園)
現花畑公園は、古く代継神社の境内の一部であった。同社は応和元年(960)の創建と伝えられ、本来紀氏の祖先神として奉祀されたものと考えられる。その後加藤清正の慶長7年(1602)、花畑邸創設のために神社は白川左岸に移転させられ、神木は邸内に取り入れられた。当初は4本の大木があったので四ツ木神社と称していたという。花畑邸は細川氏に引継がれ、明治4年鎮台の用地となったが、大正13年に更地となり、この神木を中心とする地域は花畑公園となって現在に至っている。樹高29m、目通幹囲り7m、推定樹齢600~700年である。昭和48年枯死しかけたが市の努力によって甦った。
指定年月日 平成4年3月26日所 在 地 北区釜尾町
イチイガシはブナ科の常緑大喬木で、大きいものは樹高が40mに達するものもある。漢字では「石樹」と書き、材が堅く舟の櫂や槍の柄に使われるため「梏樹」とも書かれる。樹果は楕円形で長さ2cm、通称ドングリと呼ばれるものの一種だが食用となる。このイチイガシのある場所は、現在釜尾の村中に鎮座する菅原神社(天神社)の旧所在地であるという。その名残で、この木は「天神木」ともよばれる。古老の話では神社が台地上に移った後も樹下にお神酒が供えられていたらしいが、今では途絶えてしまった。樹高は21.5m幹周は6.02m(h1.3m)根廻りは11.0mある。
指定年月日 平成7年4月28日所 在 地 北区徳王町
エドヒガンは、バラ科サクラ属に属し、本州・四国・九州と朝鮮半島の低山地帯に分布し、寿命が長いことから、まれに直径1m以上、高さ20mになる落葉高木で、人里の木として親しまれるものが多い。エドヒガンは「江戸」すなはち東京周辺で栽培され、彼岸の頃に淡紅色の花が咲き「タネまき桜」(この花が咲くのをみて種もみを蒔く時期としていた)の呼称を持つようなことからこの名がついたと言われる。目通幹回り3.2m、樹高18.5m、枝張り12mでエドヒガンとしては県内最大級である。
指定年月日 平成8年12月20日所 在 地 中央区練兵町
建物は電車道に面していて、2・3階を通した窓廻りや、3~4階の窓廻りに大正期の特色が見られます。熊本で最初の貸しビルと伝え、熊本工業学校を卒業した矢上信次の設計になるものです。3階建て一部4階建ての鉄筋コンクリート造りです。
指定年月日 平成8年12月20日所 在 地 中央区大江5丁目 学院の設立者ブラウン博士を記念して建てられたもので、設計者は、米国人宣教師ヴォ-リズです。鉄筋コンクリート構造小屋組み木造化粧トラスの建築で、三廊式の教会堂建築のスタイルをとり、講壇も設けられています。また、アーチが連続するアーケード上部に高窓を取り、側壁には二連の半円アーチ形の窓を設けています。外壁は白い人造石の柱型と黒いモルタルの壁を対比させています。正面の意匠に特徴が見られます。
指定年月日 平成9年5月7日所 在 地 中央区黒髪3丁目
鉄筋コンクリート造りの建物で、設計者は、米国人の建築家ヴォーゲルです。当時の学校建築の多くが洋風を基調としている中で、細部まで和風の装いを保った建造物となっています。正面の一段高い列柱と元本瓦葺の切妻屋根などに特色がみられます。
指定年月日 平成9年5月7日所 在 地 北区八景水谷1丁目
八景水谷の湧水地に設けられたポンプ場で、平面は正方形になっています。外観の窓廻りの縁取りやレンガ壁と上部のモルタル壁の取り合わせ、寄棟屋根の四方を反曲線にしたところなどに特色がみられます。
指定年月日 平成10年1月16日所 在 地 中央区新町4丁目
電車通りに面した中国風の美しい建造物で、熊本では歴史ある古い書店として知られています。設計は、東京帝国大学工科大学卒業の保岡勝也で、木造2階建、レンガ壁とし、2階の連続したアーチや軒廻りの装飾等に特色が見られます。
指定年月日 平成10年1月16日所 在 地 南区川尻4丁目
江戸時代の川尻は肥後藩の港町で、瀬戸内や大坂と交易をおこない栄えていました。また、加勢川や緑川により近郷の年貢米が集まり、御船手とよばれ藩の水軍の拠点でもありました。 今村家は屋号を『塩飽屋』といい(瀬戸内海の塩飽列島に由来)、町役人なども勤めていました。 この建物は、間口6間の町屋で、道路側には出格子が付けられています。江戸期の高級町屋を代表する建物です。
指定年月日 平成10年9月2日所 在 地 中央区黒髪2丁目
創立時の木造校舎焼失後の再建校舎で、文部省直轄学校における鉄筋コンクリート造り校舎の初期のものです。文部技師の長岡勇衛の設計によるもので、柱型の柱頭飾りなどに当時の流行をみることができます。
指定年月日 平成10年9月2日所 在 地 中央区本荘1丁目
熊本医科大学の学長であった山崎正董博士を記念したもので、鉄筋コンクリート造り2階建の図書館として建設されました。武田五一の設計で、外壁の意匠に特色がみられます。
指定年月日 平成10年9月2日所 在 地 中央区中唐人町 熊本市内最初の本格的鉄筋コンクリート造り2階建、地下1階の建造物です。当時、多くの第一銀行の設計に携わった西村好時の設計で、第一銀行の建物としては、九州で最初に造られました。 本建築は、市民の保存運動の成果のひとつであり、「熊本まちなみトラスト」や所有者の保存協力の賜物です。
指定年月日 平成16年8月17日所 在 地 中央区大江2丁目
JR熊本駅近くにあった紡績工場施設。イギリス積の煉瓦造、平屋建で、木造キングポストトラスの小屋組として、切妻造屋根を架ける。移築時に鉄筋コンクリート造で補強、当初の壁は平側・妻側各1面となったが、隅の柱型や軒蛇腹の造形に見るべきものがある。日本の近代化を支えた紡績工場は各地に作られたが、明治期のものは殆どその姿を消し、明治20年代の工場建築が現存するのは珍しいもので、県内の赤煉瓦建造物の五高本館(明治22年)、熊本高等工業機械実験場(明治42年)と並ぶ明治期を代表する建物であり、残存する明治期紡績工場としても貴重な産業遺産である。 平成15年に現在地に移築後、平成16年より産業資料館として公開活用されている。内部は、展示室・研修室などを設置し、展示室には同大学の歴史や熊本の産業史にかかるパネルや資料を展示し、一般開放し自由に出入りが出来るようになっている。
指定年月日 平成16年8月17日所 在 地 西区河内町岳
花峰館(旧鐘淵紡績熊本工場診療所)は、明治44年鐘淵紡績(株)熊本工場内に新築された診療所で、平成14年まで使用されていた。建物の外観は、石と煉瓦の基礎にペンキ塗りの下見板張りの外壁の洋風建築で、正面の切妻部分や庇を支える持ち送りの洋風装飾は建物を印象付けている。内装は、高い天井や床高、回転欄間付きの窓など明治期の病院建築の手法で作られている。また、この時期は全国の紡績工場などでは、専任の医師と看護婦を置いた付属療養診療所を工場内に設置しはじめた頃で、この建築物もその一つである。 明治期に作られた工場付属の診療所や町の病院建築は、殆ど現存していないが、この診療所は、大きな改変も行われず当初の姿を保っており、また用途もそのままで近年まで使用されており、当時の医療事情や社会事情、病院建築を知るうえでも貴重な資料である。平成15年に現在地に移築後、平成16年よりフラワーデザイン教室として活用されている。
指定年月日 平成17年12月26日所 在 地 中央区神水1丁目
桁行27メートルに切妻造の木造平屋建で、玄関を中心として左右対称に張出部を設け、半円アーチ窓に対応させてむくりをつけた切妻屋根の玄関のおさまりが特徴的である。高温多湿の熊本の夏を考えて開口部を広く取り、天井を高くして高窓を設けている。内部の壁は虹色に彩色されており、屋根を支える小屋組はトラス架構で、北側保育室の上部には、保護者見守りのためのギャラリーが設けてある。また部屋ごとに煉瓦造りの暖炉があり、保育室(旧ナースリ・ルーム)の中に「ままごとの家(Doll house)」があるもの独特であり、自由で開放的・家庭的な20世紀初頭アメリカの幼児教育の理念がよく表現された建物である。
(保育室A西内観)
指定年月日 平成18年3月27日所 在 地 中央区新町2丁目
冨重写真所は、日本最初の写真師上野彦馬に学び研究し、明治3(1870)年に熊本に初めて写真業を開いた冨重利平の写真所である。明治10(1877)年の西南戦争で旧来の写真館が全焼した後、彦馬の指導のもとで再建されたもので、幅約6m、奥行13mの切妻造、木造瓦葺2階建で、外壁は下見板張(土壁を保護するための横板の下部を張り重ねていく明治期に流行した工法)となっているフランス式スタジオの影響を受け、北側屋根が採光用のスラント(全面ガラス張りの屋根)でスタジオの南側が反射状の壁面という特異な構造を持っている。こうしたスラントを用いる明治時代の撮影所は現存例が少なく、現存する機材・古写真も含めて日本写真史における黎明期の資料として世界的に価値の高い建造物である。
指定年月日 平成19年5月15日所 在 地 中央区神水4丁目 社会福祉法人慈愛園は、大正12(1923)年にアメリカの宣教師モード・パウラスによって創設された熊本の社会福祉法人の礎となる施設である。本建物は、昭和2(1927)に宣教師の住宅兼事務所として建てられた洋風建築である。幅約10メートル、奥行約10メートルの切妻造・スレート葺腰折屋根の木造2階建で、広大な敷地の中央部に南向きに建っている。1階の南側にリビングを置き、西側に玄関、東側にダイニングを配し2階に寝室4室を設けるコンパクトなつくりになっている。屋根は、西面には将棋の駒形の妻を二重に見せ、2階南面には大きく屋根窓を突き出す特徴的な形式を持っている。 パウラス女史は1階を事務所・集会所として、2階をプライベートリビングと来客用宿泊所として使っており、現在は1階は自愛園の事務局、2階はパウラス女史を偲ぶ展示室として活用・公開されている。本建物は、大正・昭和初期の本格的洋風住宅の特徴を伝えており、近代熊本の社会福祉の事情、とりわけ80数年の慈愛園の歴史を語る貴重な建築遺産である。
指定年月日 平成19年10月2日所 在 地 西区小島6丁目
浜田醤油は安政年間(1854~1860年)に創業された老舗の商家である。小島中町は江戸、明治を通じて熊本城下と長崎・江戸とを結ぶ物資の集散地として賑わった港町で、浜田家の初代卯七は穀物商で身を起こし屋号を「浜屋」と定め、明治20(1887)年の3代目卯作の時に醤油・味噌の醸造業を手がけるようになったといわれる。 店舗は幅12メートル、奥行10メートルの木造2階建で、通り沿いに東面して建ち、外壁を白漆喰で塗り込め、北半分は腰を海鼠壁(瓦を張り目地として漆喰を半円形に盛り上げるように仕上げた壁)に、南半分は深い庇を設けて開口とするなど意匠を違える工夫をし老舗の風格を見せている。 通り沿って南隣には木造2階建の主屋、北隣には木造平屋建、妻入の大規模な三番蔵が並んでおり、腰が海鼠壁という点で店舗と統一した外観を形成しており、醸造業創始時の面影を伝えるものともなっている。その一方で、主屋の南隣の元煙草店として建てられた木造2階建の洋館は街路にアクセントを与えている。 三番蔵の西方には、外壁を白漆喰塗で腰を下見板張にし採光用の格子窓をつけた木造平屋建の旧圧搾機室、木造2階建の旧原料倉庫が並んでおり、長い土蔵白壁が続く独特な景観を形成している。敷地内にはまた、かつて麹室として使用していた石室が残っており昔の醤油の製造過程の一端を物語る。敷地南西寄りにはポンプで地下水をくみ上げる高さ7mの煉瓦製の給水塔、かつて動力供給のため炉で石炭を燃やしていた直径2メートル、高さ10メートルの鉄筋コンクリート造の煙突は老舗醸造場のシンボルとなっている。 このように、浜田醤油は老舗にふさわしい重厚で風格ある外観を持ち、連続する土蔵白壁、煉瓦造の給水塔、煙突は美しい景観を形成し地域のシンボルとなっており、近代熊本の醸造業の歴史を知ることのできる資料としても貴重な建造物である。
※説明は「15 浜田醤油店舗」を参照。
指定年月日 平成20年3月7日所 在 地 中央区黒髪5丁目 英国キリスト教伝道師ハンナ・リデルは、明治28(1895)年にハンセン病救済施設である旧熊本回春病院を創設したが、大正8(1919)年には、病原菌の本質を突き止め治療に活用するためのらい菌研究所を院内に建設した。それが現在のリデル、ライト両女史記念館である。設計は中条精一郎、施工は清水組が行った。 民間におけるハンセン病病原菌研究所としては国内初めてのものである。 当初は平屋であったが、リデルの死後、昭和10(1935)年に2階部分が増築され、リデルの姪で2代目ライトの住居となる。南面して建ち、幅21m、奥行き9.5mで東西に長く、西側の一部分のみ北に突き出すL字型となっており、正面中央にはポーチを設けている。また、正面中央には小屋根が張り出しており、妻部分には換気窓を持つ。1階を下見板張、2階をモルタル仕上げにし白色に塗装している。1階の庇や出窓、2階正面の手摺、建具などに英国アンティーク風の意匠を取り入れ、贅沢でしゃれた印象を与える。 昭和16(1941)年に病院は閉鎖され病棟は取り壊されたが、研究所だけは残され、戦後は養老院の事務所として使用された。本建築は、ハンセン病の歴史を語る上で貴重な資料であり、大正から昭和初期における洋風建築の地方への伝播を考える上でも貴重なものである。
指定年月日 令和2年8月17日所 在 地 中央区西唐人町
指定年月日 令和6年3月6日所 在 地 中央区西阿弥陀寺町